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黒部峡谷
くろべきょうこく
富山県黒部市宇奈月町宇奈月
Tel 0765-54-2111
 宇奈月をはじめとする黒部峡谷一帯は北アルプスの立山連峰、後立山連峰(白馬岳・鹿島槍ヶ岳)の間に出来た峡谷です。そしてその間を黒部川が通り、富山湾に通じています。江戸時代には加賀藩の直轄地で、黒部奥山廻り役といわれる人達が監視にあたっていたそうです。
 佐々成正が、秀吉を倒すために、遠江国の家康に謁見したさらさら越えで有名です。その時、付き従った大勢の人が亡くなったそうです。誰も近寄れない険しいところだったのです。
 日本地図の空白部として残された秘境で、明治政府参謀本部陸地測量部により明治27年(1894)、やっと立山から測量が始まり最も険しい剣岳付近は明治40年(1907)に完成しました。
 大正時代になると水力発電のためにダムを建設する事が決定しました。ほとんど道がない黒部峡谷ですので鉄道を通すことになりました。岸壁を削りながら工事を進め、大正12年(1923)から15年にかけて宇奈月ー猫又間が開通したのでした。
 昭和2年(1927)に柳河原発電所が完成しました。このあと引き続き鉄道と発電所が奥へ建設されていき現在の終点である「欅平」まで完成したのは昭和12年(1937)だったそうです。



おわら風の盆
おわらかぜのぼん
富山県富山市八尾町(やつおまち)
Tel 076-454-3117 八尾農林商工課
 「おわら風の盆」・・・胡弓と三味線の音と哀調を帯びた歌声が坂の町に響き、詰め掛けた観光客は優雅な踊りに酔いしれます。
 土蔵造や格子戸の古い民家が軒を連ね、坂や石畳の道が続くかつての門前町八尾。9月1日から3日間踊り一色になります。
 「おわら風の盆」は、八尾に暮らす人々が大切に守り育んできた民謡行事であり、町民の生命ともいうべき特別なものです。
 山あいの小さな町のこの踊りは生活の中から見いだした喜びを面白おかしく表現しながら、町を練り歩いたことが始まりだったようです。
  当時の歌詞は庶民生活の実態をそのまま露骨に唄ったものだったため廃れるのを危惧した芸達者な人々は、歌詞を改め、新しい詞の間に「おおわらい(大笑い)」の言葉を挟んで踊ったのだそうです。
 このことから「おわら」と呼ばれるようになったということです。また農作物の収穫の時期に豊年を祈り、おおわら(大藁)というのが「おわら」になったという説もあるようです。
 エジプトで活躍中の吉村作治先生も撮影のために八尾に来ていました。
 かつて風の盆は、お盆の8月中旬に行われていたそうです。ところがその時期は町の人口が少なくなるときだったそうです。祭りを続行できるか懸念されました。
 当時暦の主流だった太陰暦から、太陽暦へ統一されたことを機に、旧暦のお盆にあたる9月初旬に改められたといわれています。
 おわらの踊りは、素朴でその土地らしい味わいを残しています。他の民謡にはない美しい身のこなしが感じられます。。
 300年間もの時代の流れに従いながらも志を変えず、先輩の情熱やおわらに注いだ愛情を変えず、時代に合わせて綿々と踊り継いできたからでしょう。
 坂の町が暮れなずんだ午後八時、今町から地方(じかた)と編み笠をかぶった踊り手が街流しを開始したようです。
  地方が奏でる調べに合わせて踊り手の優雅な所作がぼんぼりの明かりに浮き上がり、幻想的なムードに包まれます。これが真夜中まで続きます。
 「おわら」の音曲にかかせない胡弓は中国から入ってきた楽器だそうです。ここの風景と、不思議なくらいマッチした楽器だと思います。
 胡弓は、小型の三味線といった感じの楽器で、3本の糸が張ってあります。三味線と似た形をしていますが、やり方や音色は違っています。水に弱いので少しでも雨が降ると踊りは中止になります。
 三味線は叩くもので、胡弓は途切れなく震わせるものなのです。胡弓の手さばきはたいへん難しく、3本の指を巧みに動かすことによってすすり泣いているような微妙な音を出していくのです。



八尾ふらっと館
やつおふらっとかん
富山県富山市八尾町東町2149
Tel 076-455-1548
 八尾ふらっと館は八尾市街地の中心に平成15年(2003)につくられました。ここは地域コミュニティと観光情報の拠点です。1階は「おわら風の盆」・「曳山祭り」や八尾の四季など多彩な情報を提供しています。
 2階には図書館があり八尾町に関する郷土資料などを所蔵しています。「おわら風の盆」の時はここでも踊られます。



富山市八尾曳山展示館
とやましやつおひきやまてんじかん
富山県富山市八尾町上新町2898−1
Tel 076-454-5138
 曳山展示館は昭和59年(1984)に開館しました。県指定有形民俗文化財である曳山を常時3台展示しています。250年余の歴史を有し、越中美術工芸の粋を集めた絢爛豪華な曳山です。
 「越中八尾曳山祭」は毎年5月3日に催されます。ふるさと八尾をこよなく愛し、越中おわらの心と風景を板画に描いた、天才的俳人板画家「林秋路」の名作も展示されています。
 曳山展示館では毎月第2・第4土曜日にはおわら踊りが定期的に開催されています。9月1日からの、おわら風の盆の三日三晩の大競演の陶酔を音と映像で鑑賞できます。



城ヶ山公園
じょうがやまこうえん
富山県富山市八尾町諏訪町庚申塚
Tel 076-454-3111 富山市八尾総合行政センター建設課
 城ヶ山公園は春は山桜、秋は紅葉、冬は雪景色の中の寒椿と四季折々の自然を観賞できる丘陵公園です。展望台からは雄大な立山連峰の勇姿が臨めます。
 城ヶ山公園は昔は龍蟠山といわれていたそうです。雑木が生え繁り、狐や狸がたくさん住んでいた人の寄りつかないところだったようです。
 今から650年前、桐山城主諏訪左近という武将が居城を構え城ヶ山と呼ばれるようになったようです。
 町の人々の勤労奉仕で多くの松や桜が植えられて公園としての顔ができてきました。ちびっ子広場やフィールドトレーニング施設もあります。
 「おわら風の盆」の季節には八尾の町の提灯の明かりが全体的に見渡せ大勢の人々が集まってきます。



八尾駅
やつおえき
富山県富山市八尾町福島50
Tel 076-454-2151
 「おわら風の盆」の季節には臨時列車が仕立てられます。町中は交通規制が行なわれるので八尾駅は電車を利用する人々で混み合います。
 富山駅からJR高山本線の猪谷間行きで越中八尾駅で降ります。富山から25分かかります。お祭りの中心の聞名寺付近までは歩いて20分はかかります。



聞名寺
もんみょうじ
富山県富山市八尾町今町1662
Tel 076-455-2028
 桐野山聞名寺は浄土真宗本願寺派のお寺です。正応3年(1290)開祖願智坊覚淳が美濃に開創したのが始まりとされています。
 八尾町はこの寺の門前町として発展しました。「おわら風の盆」の時は本堂を中心に昼間から音楽が流れ踊りが踊られます。境内には露天が出てにぎやかです。
 聞名寺は享禄2年(1529)に婦負郡土村(大沢野町)に移転しました。そして同郡野積谷倉ヶ谷に一宇を造営しました。明応元年(1492)には一旦飛騨に戻りました。
 大永4年(1524)に再び越中に来て野積谷乗嶺に寺を建てました。間もなく福島村に移り、そして天文20年(1551)に現在の八尾に移ったということです。
 飛騨・越中の豪族との協力・敵対関係を保ちながら婦負郡南部を中心に宗勢を拡張していき、八尾に居を定めてからは神保氏、そして前田氏の保護を受けました。
 聞名寺が所蔵する古文書類は県指定文化財にもなっていて400年余の歴史を誇る数々の宝物とともに真宗史研究に重要な役割を果たしています。



本法寺
ほんぽうじ
富山県富山市八尾町宮腰1580
Tel 076-454-3306
 法華宗越中本山、長松山本法寺(ちょうしょうざんほんぽうじ)は、正和(せいわ)5年(1316)法華宗総本山の本成寺(ほんじょうじ)開祖、日印(にちいん)の弟子、日順(にちじゅん)により建立されました。
 本法寺の山門は飛騨の工匠によって造られています。寛政6年(1794)から10年かけて細入村のお宮の大欅一本で建立したそうです。
本法寺山門
 筺棟を支える両端の金剛密迹両力士をはじめ、雌雄の昇竜、鳳凰などの彫刻は桃山様式を伝えるものとして重要文化財としての価値は十分あるようです。
本法寺山門
 富山藩士の島田基明の碑があります。富山藩家老山田嘉膳に対し悪政に対する建議書を出しましたが受け入れられず城内にて天誅としました。慶応4年(1865)切腹し翌年親交のあった本法寺29世日界により墓碑を建立されました。
島田基明碑
 本法寺の鐘楼堂は天保2年(1831)、本法寺26世日岸代の造営です。飛騨名匠の巧緻を極めた大彫刻美と高さ16mの楼全体の均整の取れた偉容は他にあまり見たことがありません。
本法寺鐘楼堂
 鐘楼の四方に彫られた竜は、夜ごと抜けだして田畑を荒らしていたため、龍の眼に五寸釘を打ったという伝説が残るほど見事な出来ばえです。
本法寺鐘楼堂
 梵鐘は太平洋戦争時の昭和19年(1944)に供出させられ、しばらく鐘がありませんでした。昭和23年(1948)再鋳して取り付けられ現在に至っているそうです。
本法寺鐘楼堂
 本法寺本堂です。正和5年(1316)天台宗の僧であった浄信は日印の教化を受けて法華宗に改め、名を日順としてここに建立しました。
本法寺本堂
 明治43年(1910)2月の火災でこの本堂と客殿を焼失しました。大正9年(1920)再建され今日に至っています。
本法寺本堂
 本法寺所蔵の「法華経曼陀羅絵図」は、鎌倉時代の嘉歴元年(1326)新湊の放生津(現在の富山新港)の底から引き上げられたもので国の重要文化財に指定されています。



富山城
とやまじょう
富山県富山市本丸1−62
Tel 076-432-7911
 富山は加賀前田氏の支藩のひとつでした。古くは越中の豪族神保氏の居城でした。天正9年(1581)に織田家の家臣であった佐々成政が入封して、大改修を施して富山城の基礎を築きました。
 信長が本能寺の変で倒れた後も、成政は富山城を根拠地として越中から上杉勢を追い出し、やがて越中を平定しました。秀吉嫌いで有名だった成政は、形勢が秀吉に傾く中、有名なさらさら越えで徳川家康に謁見しました。
 柴田勝家滅亡後、成政は最後に秀吉の軍門に下りました。天正15年(1546)の豊臣秀吉の九州征伐後、成政は肥後熊本城へ転封させられ代わって前田氏が治めました。
 前田利長は隠居後、富山城に入りましたが、火事で城が全焼した為、高岡に新たに城を築いて移りました。寛永16年(1661)に3代利常の次男利次が入城して富山藩10万石が成立し、城も修復しました。
 城は度重なる火災で焼失しました。維新に残っていた建物も取り払われ、明治18年(1885)に富山県庁の敷地として使用されました。昭和5年にそこも焼失。その後、城址公園になりました。
 本丸南側の城門の石垣上に模擬天守が建っています。 3層4階の鉄筋コンクリート造りで、昭和29年(1954)に開かれた富山産業大博覧会を記念して建てられたもので郷土博物館となっています。



富山市佐藤記念美術館
とやましさとうきねんびじゅつかん
富山県富山市本丸1−33
Tel 076-432-9031
 富山県砺波市出身の実業家であり茶人でもあった故佐藤助九郎が中心となり、昭和36年(1961)に財団法人佐藤美術館として開館しました。
 平成14年(2002)に、建物と所蔵品などの一切を富山市へ寄付し、郷土博物館と一体運営されています。中国・日本・ペルシャなどの古陶磁、日本の近世絵画、墨蹟など展示されています。




旧森家住宅
(北前船廻船問屋森家)
きゅうもりけじゅうたく)
富山県富山市東岩瀬町108
Tel .076-437-8960


 旧森家住宅は、富山市北部の海岸に近い東岩瀬大町通りにあります。ここは神通川の川港を背に港町宿場町として発展したところで、北前船で栄えた古い町並みを残しているところです。森家は、代々四十物屋(あいものや)仙右衛門を世襲してきた船持ちの肥料問屋でした。
 旧森家住宅の主屋は明治6年(1873)の大火のあとの、明治11年(1878)に建てられたもので、北土蔵、南土蔵とあわせて3棟が平成6年(1994)に国の重要文化財に指定されています。
 主屋は建築当時のたたずまいを残す東岩瀬回船問屋型町家の一つです。木造2階建、切妻造り、平入り、1、2階ともに正面屋根庇が大きく張り出し太い出桁で押えています。外壁は真壁造り、白漆喰仕上げ、開口部は細格子窓で2階の外壁両側には防火用の袖壁が備えられています。
 建物の間口が広く前庭を持つ三列四段型の完成された間取りになっています。玄関から裏の船着場まで通り庭(土間廊下)が通じています。母屋のオイには囲炉裏が切られ、吹抜けの梁・差物・帯戸の豪壮な構成が見事です。南北の土蔵には、見事な漆喰の鏝絵などが施されています。



富岩運河水閘施設
ふがんうんがすいこうしせつ
富山県富山市中島2丁目浦川原3−2
Tel 076-437-7131 富山県土木部富山港事務所


 富岩運河(ふがんうんが)は、神通川下流の東岸に沿って位置し、富山湾の岩瀬港(富山市岩瀬)から富山市湊入船町までをつなぐ運河です。延長4750m、幅6m、水深3mの開門式です。
 神通川の土砂の堆積が甚だしかったため、大正7年(1918)から昭和4年(1929)にかけて神通川の大改修とともに築湾工事が行われました。昭和6年(1931)から富山駅北側から東岩瀬港につづく運河の開削が始められ、昭和9年(1934)に完成しました。
 中島閘門は昭和5年(1930)に着工し、昭和9年(1934)に完成しました。閘門、放水路、中島橋、閘門操作室などは「富岩運河水閘施設」の名称で、平成10年(1998)に国の重要文化財に指定されました。
 上流と下流の水面の約2.5mの高低差を克服するためにパナマ運河式の閘門の設備が使われています。富岩運河水閘施設は、日本での数少ない都市計画事業による運河閘門を中心とする施設が良好に保存されていて、都市計画史上貴重な施設になっています。



浮田家住宅
うきたけじゅうたく
富山県富山市太田南町272
Tel 076-492-1516


 浮田家住宅は、富山市の南東郊外の田畑に囲まれた林の中にあります。浮田家は古くからこの地に土着した豪農で、江戸時代には立山、黒部の藩境の警備や山林の保護などを行う奥山廻役を元禄6年(1693)から10代にわたって務めました。
 その後、代官職を兼ねるようになり、文政10年(1827)には3000石の格式となりました。敷地面積5千平方mに、国指定重要文化財の文政11年(1828)に建てられた主屋、天保年間に建てられた表門、明治23年に建てられた土蔵が建っています。

 浮田家住宅主屋は桁行21.2m、梁間20.6m、一部2階建、寄棟造りで、茅及びこけら葺きです。奥行を深くするため独特のツノヤ屋根を設け、外観は複雑な形になっています。庭園に面して立つ主屋の広間は豪壮な梁組、それとは対照的に座敷は繊細な造りとなっており、藩政時代の面影が偲ばれます。昭和46年(1971)に国の重要文化財に指定されています。
浮田家住宅主屋
 浮田家住宅の表門は桁行15.1m、梁間3.5m、寄棟造り、茅葺きの長屋門です。天保5年 (1834)頃に建てられたとみられています。昭和54年(1979)に国の重要文化財に指定されています。
浮田家住宅表門



ます寿司工場
富山県富山市南央町37−6
Tel 076-429-3100
 富山の名品である「ますのすし」・・・青竹をあしらった曲げわっぱ、色鮮やかな緑の熊笹を一枚一枚開いていくと、鮮やかなピンク色のます、純白の富山米です。源の製造工程を見学できます。
 館内には9面マルチシアターなどもあり、ますのすしの歴史や伝承される味の秘訣などを、美しいワイドなマルチスクリーンで見ることができます。
 サクラマスの見本です。
 本種は北海道でサクラマス、気仙沼や塩釜まどでママス、東京ではホンマスといわれています。日本一のマスといわれているそうです。
 人間国宝 石黒宗麿の作品を紹介するコーナーや江戸から昭和にいたる珍しい弁当容器や旅の携帯品の数々が飾られています。



高岡銅器
たかおかどうき
富山県高岡市
0766-63-5556 高岡銅器展示館
 高岡市は高岡城の城下町として盛え、北部の伏木地区は大伴家持が国司として赴任した越中国の国府がありました。高岡は日本で銅器の生産額の約95%を占めています。高岡大仏や梵鐘などの大きいものから、銅像などの細かい作品まで、多彩な鋳造技術は全国的にも有名です。
 慶長16年(1611)、高岡の町を開いた加賀藩2代藩主、前田利長が7人の鋳物師を招いて鋳物産業を興させたのがこの町の始まりだそうです。金屋町には千保川のほとりに静かに軒を並べる町並みが残されています。
 一国一城令により、高岡城がなくなったあとも「高岡の人々の転出を規制し、商業都市への転換を図る」という前田利常の政策が功を奏し、商工業が発展しました。
 高岡銅器のほか高岡漆器などの伝統工芸品も有名です。アルミサッシの生産額は日本一を誇っています。



高岡古城公園
たかおかこじょうこうえん
富山県高岡市古城1ー9
Tel 0766-20-1572


 高岡古城公園は加賀藩2代藩主、前田利長が築いた高岡城の城址を、明治8年(1875)公園として開放したものです。園内には無料の動物園、蒸気機関車、芝生広場、遊具、博物館、体育館などがあります。桜の名所としても有名で日本さくら名所100選に選定されています。
 加賀前田家2代の利長は、慶長3年(1598)に利家の後を継ぎ当主となりました。慶長10年(1605)に利常を3代藩主にして、自らは隠居して富山城に移りました。慶長14年(1609)3月の大火により富山城は焼失しました。そこで、当時関野と呼ばれていた地に新しく城をつくることにしました。
 高岡城の縄張は当時、前田家の客将だった高山右近とされています。右近はキリシタン大名で、築城の名手として有名でした。利長は、「詩経」の一節から関野の地を「高岡」と名付け、慶長14年(1609)9月に高岡城に入城しました。
 慶長19年(1614)に利長は亡くなり、翌年には一国一城令により、火災から再建された富山城に城機能は移され、高岡城は廃城となりました。廃城後も高岡町奉行所の下で、加賀藩の米蔵・塩蔵・火薬蔵・番所などが置かれ、軍事拠点としての機能は密かに維持されそうです。
 明治3年(1870)、金沢藩は高岡城跡を民間に払い下げしましたが、区長の服部嘉十郎らの尽力により城跡は明治8年(1875)に「高岡古城公園」として残りました。高岡城は日本100名城に選ばれ、約21万平方メートルの広大な城跡公園は市民の憩いの場となっています。



瑞龍寺
ずいりゅうじ
富山県高岡市関本町35
Tel 0766-22-0179


 高岡山瑞龍寺は曹洞宗のお寺で、山門、法堂、仏殿は国宝に指定されています。富山県にある国宝はこの瑞龍寺だけだそうです。加賀藩2代藩主・前田利長の菩提寺で、利長の義弟で3代藩主になった前田利常によって建立されました。
 文禄3年(1594)に加賀藩2代藩主・前田利長は金沢に織田信長・信忠の追善のため、宝円寺を建立しました。44歳の若さで家督を異母弟の利常に譲り、隠居して金沢から富山に移りました。富山城の炎上を機に高岡に移り、ここに新たに高岡城を築き、法円寺(宝円寺を改称)を、慶長18年(1613)に高岡に移しました。
 翌、慶長19年(1614)に利長は没し、後を継いだ3代藩主・前田利常は、法円寺を利長の菩提寺としたのです。そして利長の法名瑞龍院に因んで寺名を「瑞龍院」と改め広山恕陽(こうざんじょよう)を開山としました。のちに寺名を「瑞龍寺」とさらに改称しています。
 瑞龍寺の造営は正保年間(1644-1648)から、利長の50回忌の寛文3年(1663)までの約20年の歳月を要したそうです。加賀藩お抱えの大工頭・山上善右衛門嘉広が棟梁となり、山門、仏殿、法堂(はっとう)が一直線に並ぶ伽藍を完成させました。左右に回廊をめぐらし諸堂を対称的に配置したのは、中国の径山万寿寺にならったものといわれています。
 延享3年(1746)の火災で山門を含む伽藍の前半部分の多くの堂宇を焼失しました。山門が再建されたのは約70年後の文政3年(1820)でした。瑞龍寺は江戸時代を通して加賀藩より300石の寺領を安堵され、庇護されました。
 瑞龍寺の仏殿、法堂、山門が国宝に指定され、総門、禅堂、大茶堂、高廊下、北回廊、南東回廊、南西回廊が国の重要文化財に指定されています。寺宝の紙本墨書後陽成院宸翰御消息も国指定重要文化財です。
 前田利長、前田利家、織田信長、同室正覚院、織田信忠を祀る5つの石廟が回廊の左奥にあり、富山県の文化財に指定されています。瑞龍寺の寺域は3万6千坪もあり、周囲に壕をめぐらし、諸堂は江戸初期の禅宗寺院建築として高く評価されています。

 瑞龍寺仏殿は総欅造で、方三間裳階付の禅宗様建築です。桁行3間、梁間3間、1重、裳階付、入母屋造り 鉛瓦葺きです。棟札により万治2年(1659年)に建立されています。屋根は始めはこけら葺きでしたが、総重量約47トンの鉛瓦葺きになっています。仏殿は平成9年(1997)に国宝に指定されています。
瑞龍寺仏殿
 瑞龍寺仏殿の内部は土間床になっています。天井の構造材を見せて装飾としている点、組物(柱上にあり、軒や天井を支える構造材)を密に配する点、柱、扉、窓などの細部様式など禅宗様建築の特色です。須弥壇には中央に釈迦如来、脇侍に文殊、普賢菩薩の釈迦三尊を祀っています。
瑞龍寺仏殿
 瑞龍寺の法堂(ほっとう)は、禅宗以外では講堂といわれ仏教教理を講義する場所で、明暦元年(1655)に建てられています。ここでは前後に3室ずつ6室で構成され客殿も兼ねています。桁行11間、梁間10間、1重、入母屋造り、銅板葺きです。向拝は桁行2間、梁間1間、向唐破風造りで、その前面に高廊下、さらに前面1間通りは回廊の一部で土間になっています。
瑞龍寺法堂
 中央奥が仏間、左右に上下客殿が設けられ、手前は外陣に相当し説法、法要等に使用する畳敷きの間となっています。外陣も柱と欄間により3室に分けられ、さまざまな法要に対応する近世の仏堂様式となっています。屋根は始めはこけら葺きでしたが現在は銅板葺です。瑞龍寺の法堂は平成9年(1997)に国宝に指定されています。
瑞龍寺法堂
 瑞龍寺の山門は禅宗様の手法形式の三間一戸の二重門です。入母屋造り、こけら葺きで左右に山廊が付いています。双方とも桁行3間、梁間1間、1重、切妻造り、こけら葺きです。文政3年(1820)に再建された建物です。
瑞龍寺山門
 通常の禅宗二重門に比べて、下層屋根に対する上層屋根の低減率が低く、雪などによって下層屋根を傷めないための雪国独自の工夫が見られます。瑞龍寺山門は平成9年(1997)に国宝に指定されています。
瑞龍寺山門
 瑞龍寺の総門は、正面3間の薬医門です。正保年間(1644-1648)の建立で、後世に伽藍配置の関係から現在の場所に移築されました。正面の扉は城の城門に類した造りで、四葉金具・八双金具などの金具が使われ、格の高さがうかがえます。昭和3年旧国宝に指定され、現在は国の重要文化財に指定されています。
瑞龍寺総門
 瑞龍寺の禅堂は坐禅修行をする建物で、坐禅だけを行う場合は禅堂、食事などの修行もする場合は僧堂といわれます。延享3年(1746)に焼失し、その直後に再建されました。幕末には3分の1に縮小され、明王様の御祈祷場となっていました。平成2年(1990)に往時のように復元されました。昭和57年(1982)に国の重要文化財に指定されています。
瑞龍寺禅堂
 瑞龍寺の大茶堂は創建当初に造られた建物で、全国に2つしかない貴重なものです。他の建物から伽藍への類焼を防ぐ防火壁の役目をする建物でもありました。平成9年(1997)に国の重要文化財に指定されました。
瑞龍寺大茶堂
 瑞龍寺の回廊は大伽藍をとり囲み、周囲約300mにも及びます。左右対象の回廊が残っている寺院は極めて少なく、禅宗寺院最古のものです。板戸の黒と障子の白が交互に規則正しく配され、上部に小壁の白い線が通り、上下を腰板とこけら屋根の黒でひきしめています。昭和57年(1982)に国の重要文化財に指定されています。
瑞龍寺回廊
 瑞龍寺の大庫裏は調理配膳や寺務運営を行う堂で、山門を入り右手に位置し僧堂と相対しています。桁行10間(19.7m)、梁間6間(13.9m)で、切妻造り、こけら葺きで向拝型玄開を付けています。万治年間(1658-1660)の建立ですが、幕末から明治初年にかけ撤去されました。古図面などから当初の姿に復元されています。
瑞龍寺大庫裏
 瑞龍寺の石廟は瑞龍寺を造営したとき,開山の広山恕陽禅師が利長、利家の父子に織田信長、信忠と信長の側室も加えて同じ形式の5基を建造しました。利長の石廟には壁面に25菩薩が刻まれています。石造建築の貴重な遺構で富山県の文化財に指定されています。
瑞龍寺石廟



高岡大仏
たかおかだいぶつ
富山県高岡市大手町11-29
Tel 0766-23-9156
 高岡大仏は、奈良大仏(752年)、鎌倉大仏(1246年)と並んで日本三大仏に数えられています。「銅器のまち」高岡のシンボルです。
 昭和7年(1932)12月に高岡大仏は造られました。380年の伝統を誇る高岡銅器の職人の技術が結集されたのです。昭和8年(1933)5月に開眼式が盛大に行われました。



勝興寺
しょうこうじ
富山県高岡市伏木古国府17−1
Tel 0766-44-0037


 勝興寺は越中国府の国庁跡と伝わる地に建立された浄土真宗本願寺派のお寺です。承久の乱(1221)で佐渡へ流された順徳天皇の第3皇子・成彦親王が親鸞に帰依して、善空房信念となり、佐渡に一宇を創建、上皇より殊勝誓願興行寺という勅号を得たのが始まりだといわれています。
 文明3年(1471)、本願寺6世・蓮如が越中砺波郡蟹谷庄土山(南砺市土山)に土山御坊を開きました。蓮如の子・蓮誓は、二俣本泉寺、井波瑞泉寺とともに3寺を兼任しました。
 その後、明応3年(1494)に蟹谷庄高木場(南砺市高窪)へ移転しました。永正14年(1517)に順徳上皇の勅願所だった勝興寺の寺号を譲られることになり本願寺も承認しました。火災による焼失後、永正16年(1519)に安養寺村(小矢部市末友)に移転し、安養寺御坊勝興寺と改めています。
 当時の寺領は10万石に及び、瑞泉寺と並んで越中一向一揆の中心勢力として猛威を振るいました。天正9年(1581)に織田信長と石山寺本願寺との合戦に参戦しました。その間隙をついて木船城主石黒左近が領内に侵入し堂宇は焼失しました。
 天正12年(1584)、佐々成政に属した守山城主・神保氏張から現在地である出城の古国府城が寄進され、堂宇を再建されました。その後領主となった前田利長からも庇護され寺領が安堵されました。
 江戸時代に入ると加賀藩主前田家から庇護され寺領75石が寄進され、堂宇の改修や造営にも藩費が使われました。慶安2年(1649)に3代藩主・利常の養女つるが入輿し、延享3年(1764)には5代藩主・吉徳の8男・時次郎が勝興寺に入りました。
 明和8年(1771)、兄・重教の隠居により、勝興寺住職となっていた前田時次郎は還俗して加賀藩10代藩主・治脩(はるなが)となりました。現在の勝興寺の境内は約3万3千平方mと広大で、周囲は堀に囲まれ、中世の豪壮な城郭寺院の風格を残しています。
 本堂、唐門、経堂、御霊屋、鼓堂、宝蔵、総門、式台門、大広間及び式台、台所、書院及び奥書院、御内仏の12の建物が国の重要文化財に指定されています。寺宝も紙本金地著色洛中洛外図など数多く所持しています。

 勝興寺の本堂は間口39.3m、奥行37.4m、高さ23.5mの大きな建造物です。1重、入母屋造り、向拝3間があり、金属板葺きで、寛政7年(1795)に建てられています。全国の国宝・重要文化財の建造物の中でも平面積は8番目の大きさを誇っています。昭和55年(1980)、国の重要文化財に指定されています。
勝興寺本堂
 勝興寺の唐門は切妻造りで、間口6mの四脚門です。屋根は銅板葺で前後とも軒唐破風付です。明和6年(1769)に京都の浄土真宗興正派の本山である興正寺で建立されています。明治26年(1893)、興正寺より譲り受け、北前船2隻で運ばれ移築されました。昭和55年(1980)、国の重要文化財に指定されています。
勝興寺唐門
 勝興寺の経堂は桁行3間、梁間3間、1重もこし付、宝形造り、桟瓦葺きで、文化2年(1805)に建てられています。内部は塗を施さない欅の素木造りで、中央の手動回転の大形八角輪蔵は形式、細部とも本格的で極彩色を施しています。平成7年(1995)、国の重要文化財に指定されています。
勝興寺経堂
 勝興寺の鼓堂は桁行7.6m、梁間7.5m、2重2階、入母屋造り、桟瓦及び本瓦葺きで、享保18年(1733)に建立されています。太鼓堂とも呼ばれますが、現在太鼓は吊るされていません。総門をくぐった正面、掘割に面して建っており、城郭の櫓(やぐら)に似た姿です。平成7年(1995)、国の重要文化財に指定されています。
勝興寺鼓堂



気多神社
けたじんじゃ
富山県高岡市伏木一宮1ー10ー1
Tel 0766-44-1836


 気多神社は養老2年(718)に行基によって開かれたといわれています。また他説では、天平宝字元年(757)に能登が越中から分離したのち、越中一之宮として能登羽咋の気多神社の分霊を、勧請して創建されたといわれます。
 朝廷からの崇敬も篤く、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳には名神大社として記載され、越中の式内社の中でも一番上位の格式を持って繁栄しました。ただ、越中一宮を称する神社が気多神社の他に、射水神社、高瀬神社、雄山神社などがあります。
 古くから神仏混合し境内には七堂伽藍が整備され広壮をきわめましたが、寿永2年(1183)に木曽義仲の兵火により焼失しました。室町時代に別当の慶長寺が諸堂を整備しましたが、天文年間(1532-1555)に上杉謙信の兵火で再び焼失しました。
 別当僧宥応が小祠を建て祭祀をつづけ、永禄年間(1558-1570)に再建されたのが現在の本殿です。江戸時代に入ると歴代加賀藩主前田家の祈願所となり天保2年(1645)に前田利常により社殿が再建され、慶安3年(1650)には社領が寄進されています。
 明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され、本地仏は旧国分寺跡に建立された薬師堂に移し神社として独立し、明治6年(1873)には郷社に、そして県社に列しました。4月18日の春季例大祭に奉納される通称「にらみ獅子」は頭だけがゆっくり動き、睨んだ参拝客の厄を払うとされています。

 気多神社本殿は三間社流造り、屋根はこけら葺きで、1間向拝付きです。雄大で壮厳な風格の社殿は、永禄年間(1558-1570)に再建された建物です。木割りが大きく、虹梁・拳鼻・手挟の手法が室町時代の特質を多く残しています。昭和6年(1931)に国の重要文化財に指定されています。
気多神社本殿
 高岡市街地から北へ約7km離れた伏木一宮は、万葉の歌人、大伴家持が国司として居住していた土地として有名です。境内には、越中国守・大伴家持を祀る大伴神社があります。家持の没後1200年にあたる昭和60年(1985)、地元の有志の大伴家持卿顕彰会によって創建されました。境内には石碑も建てられています。
大伴家持石碑
 108段の階段の上部、社殿に向かって左に大きな杉の木があります。これが気多神社の御神木です。今から1400年以上昔、氏子の先祖が人々の集まる場所として杉の木を植え、この木が御神木となって、人々が集まる場所になったそうです。
気多神社御神木



武田家住宅
たけだけじゅうたく
富山県高岡市太田4258
Tel 0766-44‐0724


 武田家は、甲斐の武田信玄の弟・逍遙軒(しょうようけん)信綱の子孫と伝えられていて、代々太田村の肝煎(きもいり)をつとめた豪農でした。山岡鉄舟や横山大観ら多くの著名人がこの家に滞在し、作品を残しました。
 武田家住宅は、安永年間(1772-1780)にかけて勝興寺本堂が再建されたときの余材で建てられたといわれていて、構造や手法からもその頃のものであるようです。
 武田家住宅は、間口、奥行きともに21mで、建築面積は443平方mという大規模な邸宅です。茅葺きの寄棟造りですが、背面はこけら葺きの切妻造りの越屋根としています。その下部に茅葺き屋根をまわし、さらに北側を除く3面に桟瓦葺きの下屋を設けています。
 「ひろま」及び「ちゃのま」の天井に見られる「枠の内」といわれる豪壮な梁組みや、小壁の三段化粧貫、竹簀子天井などに当時の農家建築様式の典型をみることができます。武田家住宅は昭和46年(1971)に国の重要文化財に指定されています。



武田家住宅
たけだけじゅうたく
富山県高岡市太田4258
Tel 0766-44‐0724


 武田家は、甲斐の武田信玄の弟・逍遙軒(しょうようけん)信綱の子孫と伝えられていて、代々十村役(大庄屋)をつとめた豪農でした。山岡鉄舟や横山大観ら多くの著名人がこの家に滞在し、作品を残しました。
 武田家住宅は、安永年間(1772-1780)にかけて勝興寺本堂が再建されたときの余材で建てられたといわれていて、構造や手法からもその頃のものであるようです。
 武田家住宅は、間口、奥行きともに21mで、建築面積は443平方mという大規模な邸宅です。茅葺きの寄棟造りですが、背面はこけら葺きの切妻造りの越屋根としています。その下部に茅葺き屋根をまわし、さらに北側を除く3面に桟瓦葺きの下屋を設けています。
 「ひろま」及び「ちゃのま」の天井に見られる「枠の内」といわれる豪壮な梁組みや、小壁の三段化粧貫、竹簀子天井などに当時の農家建築様式の典型をみることができます。武田家住宅は昭和46年(1971)に国の重要文化財に指定されています。



桜谷古墳
さくらだにこふん
富山県高岡市太田字桜谷
Tel 0766-20-1453


 桜谷古墳は二上山丘陵の北東の雨晴海岸に近い、標高20mの台地にある北陸地方最大級の古墳です。4世紀から5世紀にかけて築かれたもので、大正7年(1918)に諏訪社の神木の老松を掘り出した際に内行花文鏡1面と管玉13個が出土し、前方後円墳が2基と円墳が7基発見されました。
 桜谷1号墳は、柄鏡式の前方後円墳で、全長62m前方部の幅30m、後円部の径35m、高さ6mという規模です。高さは5.4mで、三段に築かれています。
 桜谷2号墳は、後円部の径33mで、前方部が小さく、帆立貝式前方後円墳といわれるものです。大正12年(1923)に後円部から碧玉製紡錘車(へきぎょくほうすいしゃ)、石釧(いしくしろ)、菅玉(くだたま)などが出土しました。
 地方にはたいへん珍しい大型前方後円墳であることや、立地条件の良さから、大和政権下の一行政区となった、当時の地方官またはそのゆかりの者の墓だろうと考えられています。桜谷1号墳、2号墳は昭和9年(1934)に国の史跡として指定されています。



埴生護国八幡宮
はにゅうごこくはちまんぐう
富山県小矢部市埴生2992
Tel 0766-67-1220


 埴生護国八幡宮は養老2年(718)、宇佐八幡宮(大分県)の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。天平時代には越中国守だった大伴家持が国家安寧を祈願しました。寿永2年(1183)には木曽義仲が倶利伽羅峠の合戦を前に戦勝祈願を行っています。
 以来、武将の崇敬厚く、室町時代には将軍足利家より社領1000俵の寄進を受けました。歴代領主である蓮沼城主遊佐氏から庇護され、戦国時代には前田利長や佐々成政から社領を寄進されています。江戸時代には加賀藩主前田家の祈願社となりました。
 慶長5年(1600)に加賀藩2代藩主・前田利長が大聖寺城を攻めた際、戦勝祈願したことから本殿が寄進されました。慶長16年(1611)には3代藩主・前田利常が利長の病気平癒を祈願して釣殿を寄進しています。
 正保3年(1646)には利常夫人の天徳院の産後平癒祈願のため拝殿、幣殿が寄進されています。埴生護国八幡宮の本殿、拝殿、幣殿、釣殿は国の重要文化財に指定され、木像男神像2体、義仲戦勝祈願書、佐々成政寄進状、豊臣秀吉陣備図、武田信玄書状など埴生護国八幡宮文書45点が富山県の文化財に指定されています。
 護国という社号の由来は慶長2年(1608)、前田利長が凶作が続いたのを憂慮し、豊作祈願を行い、叶ったことから国を護った神社として護国八幡宮と称するようになったと伝えられています。

 埴生護国八幡宮の拝殿及び幣殿は正保3年(1646)、利常夫人の天徳院の産後平癒祈願のため寄進された建物です。拝殿は桁行5間、梁間3間、1重、入母屋造り、正面に千鳥破風付、向拝一間、こけら葺きです。幣殿は桁行3間、梁間3間、1重、背面入母屋造り、こけら葺きで拝殿に接続しています。大正13年(1924)に国の重要文化財に指定されています。  
埴生護国八幡宮拝殿・幣殿
 埴生護国八幡宮の本殿は慶長5年(1600)に前田利長が大聖寺城攻めの際、戦勝祈願し成就したことから建立された建物です。三間社流造り、向拝一間、こけら葺きで、 大正13年(1924)に国の重要文化財に指定されています。
埴生護国八幡宮本殿
 埴生護国八幡宮の釣殿は慶長16年(1611)に3代藩主・前田利常が兄である利長の病気平癒を祈願して寄進した建物です。桁行2間、梁間1間、1重、両下造り、こけら葺きで、前後を幣殿と本殿に接続しています。大正13年(1924)に国の重要文化財に指定されています。
埴生護国八幡宮釣殿
 境内には木曽義仲の騎馬武者姿の雄雄しい像が建っています。寿永2年(1183)、義仲は倶利伽羅峠の合戦を前に埴生護国八幡宮で戦勝祈願を行いました。平維盛(これもり)率いる義仲征伐軍は10万の大軍、義仲軍は半分の5万でした。義仲は軍を本隊4万と分隊1万に分け、分隊を平氏軍の背後に回らせ、断崖の近くで夜襲をかけ圧勝しました。
木曽義仲騎馬像
 埴生護国八幡宮の入口に富山の名水55選の一つ・鳩清水があります。水源を倶利伽羅山の中にある鳩清水の滝に発し、3kmの山中を経てここ八幡宮の手洗鉢に至っています。この清水は、木曽義仲が埴生護国八幡宮で倶利伽羅の合戦の戦勝祈願をした時、白鳩が飛来し、その案内で源氏方が清水の霊水を発見したと伝えられています。
鳩清水



庄川峡
しょうかわきょう
富山県砺波市庄川町/上平村/利賀村
0763-82-0220 庄川遊覧船
 庄川峡は大正末期から始まった数ヶ所の電源ダムの建設で出現した人口湖を中心としています。小牧ダムができたことから観光地として有名になりました。
 小牧ダムの堤高さ79.25mの高堰堤は、その当時東洋一の高さを誇ったのでした。
 毎日新聞社が主催した日本観光地百選に、庄川は河川の部で10位に入選し観光客が大勢押し掛けるようになったということです。
 昭和43年(1968)10月、弁財天・庄川合口ダム・小牧ダム・前山・腰切岩・湯山・落シ・鉢伏山・隠尾など835ヘクタールが「庄川峡」として県定公園に指定されました。
 庄川本流に支流利賀川が流入する双龍湖は二頭の竜の形をしていることから名づけられたそうです。



旧城端町
じょうはなまち
富山県南砺市(なんとし)
 城端町は、かつて富山県東礪波郡にあった町です。平成16年(2004)11月1日、合併により南砺市となりました。
 5月に催される城端曳山祭や9月に行なわれる城端むぎや祭が有名です。善徳寺や城端曳山会館が見所です。



善徳寺
ぜんとくじ
富山県南砺市城端405
Tel 0763-62-0026
 善徳寺は城端(じょうはな)別院善徳寺と呼ばれ、真言宗大谷派の大刹で別格別院です。山号を廓龍山と号し、開基は本願寺第8代蓮如上人です。
 蓮如上人は文明3年(1471)加賀で開基し、城ヶ鼻城主荒木大膳の招請を得て、永禄2年(1559)に城ヶ鼻に移転したといわれています。
 境内には龍の彫刻を施した山門や鐘楼などが立ち並んでいます。本尊の阿弥陀如来像は行基の作といわれています。
 山門・本堂・太鼓楼・鐘楼の4つが県の文化財に指定されています。
 善徳寺は天正13年(1585)に豊臣秀吉と講和するまで、瑞泉寺、勝興寺とともに越中の一向一揆の拠点寺院だったのです。
 一向一揆の中心寺院でしたが、善徳寺の伽藍は戦国時代の戦災を受けないで現在まで残存しているのです。
 本堂などは建替えられたそうですが昔の通りの場所に位置に再建されているとのことです。「南無阿弥陀仏」と書かれた額は蓮如が揮毫したものだそうです。
 宝物館には親鸞自筆の古文書や加賀藩前田家より拝領の宝物などが展示されています。
 善徳寺では、古文書など、1万点以上の宝物を所有しているそうです。7月22日から1週間の間、虫干法会と呼ばれる会があります。虫干しをかねて、蓮如ゆかりの品々や前田家から寄進された寺宝が一般に公開されのです。
 境内には蓮如上人腰掛けの石があります。この石は廃村になった中河内道場にあった安産石と呼ばれていた石です。村の肝煎の娘が難産で苦しんでいた時、この石に掛けさせたところ安産したといわれています。
蓮如上人腰掛けの石
 常盤の松と呼ばれている松があります。学業疎開地だったことを記念して昭和51年(1976)に石碑が建てられました。
 蓮如上人は本願寺第8代法主で真宗中興の祖といわれています。比叡山を追われて以後、この付近で真言布教を行ないました。
常盤の松



南砺市井波
なんとしいなみ
 平成16年(2004)11月1日、8つの町村(城端町、平村、上平村、利賀村、井波町、井口村、福野町、福光町)が合併して「南砺市」が誕生しました。
 中世から近世にかけて、瑞泉寺の建立や善徳寺が移築されると、旧井波町や旧城端町は門前町として栄えました。
 井波地区では伝統的に欄間、獅子頭などの木彫刻が盛んで、住民1人あたりの彫刻師の数は日本一といわれています。
 4年に1度、南砺市いなみ国際木彫刻キャンプ(旧・いなみ国際木彫刻キャンプ)が行なわれています。「太子伝観光祭」の時、八日町通りでは、ノミを使って作品を仕上げる「氷の彫刻」なども行なわれるそうです。



瑞泉寺
ずいせんじ
富山県南砺市井波3050
Tel 0763-82-0004
 瑞泉寺は明徳元年(1390)に本願寺5世綽如(しゃくにょ)によって創設されました。真宗大谷派の寺院(別院)で、3代蓮乗のころ隆盛をきわめたそうです。
 綽如上人は「ここに図らずも先ず一勝地を得たり」といって井波を仏法繁昌の地としたのです。また後小松天皇勅願所にもなっていました。瑞泉寺は越中一向一揆の拠点となり佐々成政の兵火にあって堂宇を焼失しました。それ以後も幾たびか火災にあっています。

 江戸時代、瑞泉寺が再建されるとともに復興し、現在は、豪華な彫刻を施した山門や菊の門(勅使門)、越中一の本堂などが建ち並んでいます。

 瑞泉寺の山門は、高さ17.4mの重層の総ケヤキ造りで、真宗寺院建築の山門形式を代表する建造物です。

 宝暦12年(1762)瑞泉寺は全焼し、京都の本山(東本願寺)から肝煎方大工柴田新八郎などが派遣されて各伽藍の再建が進められました。

 山門の工事は天明5年(1785)に始まりましたが、その工事中に本山のほうが全焼してしまったのです。再建するために本山派遣の大工たちは引き上げてしまいました。
 地元の大工松井角平が棟梁になり、文化6年(1809)上棟式を行ない、見事に山門を完成させたそうです。
 山門の各所には数々のすぐれた彫刻や文様が施されています。正面にある唐狭間(からさま)の彫刻「波に龍」は京都の前川三四郎の作です。
 中国民間伝承に登場する8人の仙人「八仙」が彫られている蟇股(かえるまた)は、地元井波の名工の手によって彫られています。
 後花園天皇宸翰消息、綽如上人勧進状は重要文化財に指定され、山門、阿弥陀如来立像県文化財です。重要美術品の聖徳太子絵伝があります。



利賀村
とがむら
南砺市利賀村
 富山県東礪波郡におかれていた村で平成16年(2004)年11月1日に合併して南砺市になりました。昭和51年(1976)劇作家鈴木忠志が早稲田小劇場を利賀村に移しました。世界演劇祭利賀フェスティバルでは、内外の演劇界から注目を浴びるほどのイベントとなっています。



白山宮
はくさんぐう
富山県南砺市上梨
Tel 0763-66-2131
 室町中期の建物で富山県最古の木造建築物です。国の重要文化財に指定されています。白山権現菊理媛命(はくさんごんげんくりひめのみこと)が祀られていて、33年ごとに開帳されるそうです。
 毎年、春まつりと、秋まつりに「こきりこ踊り」が奉納されます。



村上家
むらかみけ
富山県南砺市上梨725
Tel 0763-66-2711
 村上家は、石山合戦の頃(約400年前)建築されていたと伝えられています。五箇山地方民家の中で、基本的な形式をもつ最もすぐれた建造物だといわれ、国の重要文化財に指定されています。
 一重四階、切妻造り茅葺、戸口は妻入り、間口三十五尺二寸、奥行六十七尺五寸あるそうです。合掌部分は鎹(かすがい)など金物を一切使っておらず、縄とネソ木で結束させています。



五箇山合掌造集落
ごかやまがっしょうづくりしゅうらく
富山県南砺市相倉・南砺市菅沼


 合掌造りとは、五箇山や白川郷地方に見られる民家の特徴で、屋根は60度の急勾配の切妻造りで茅葺きになっています。屋根が両手を合わせた合掌の形に似ているので合掌造と呼ばれています。
 五箇山は南砺市相倉(旧平村)と南砺市菅沼(旧上平村)の2つの集落を指しています。合掌造りの古い民家が建ち並ぶ山の里です。
 平成7年(1995)飛弾の白川郷と共に世界文化遺産に登録されました。相倉集落では24棟の合掌造りの家屋が残っています。菅沼合掌造り集落とともに国指定史跡にもなっています。
 重い雪を滑り落とすための三角屋根は堅固に造られて、釘を1本も使わず、荒縄とネソ木で結んだ構造になっているそうです。
 加賀藩領時代には五箇山は流刑地になっていたそうです。加賀藩は、秘境である此の地で火薬の原料となる塩硝(えんしょう)を作らせたそうです。他に和紙や養蚕などが主な生産品だったそうです。
 菅沼集落は庄川の谷あいにせり出した平坦地にあり、9棟の合掌造りの家屋があります。五箇山には「組」と呼ばれる生活上の相互扶助の組織が古くから造られていました。草刈り、水路清掃、除雪、神社の出役など現在でも残っています。

塩硝の館
 塩硝は五箇山の一大産業で品質的にも高く評価されました。館内では、塩硝づくりの工程をわかりやすく再現しています。

民族館
 五箇山の民俗館は菅沼合掌造り集落にあります。改造されていないため合掌造りの原型を保っています。五箇山の和紙や養蚕など、人々の生活、産業を伝える資料や生活用具などが展示されています。



岩瀬家住宅
いわせけじゅうたく
富山県南砺市西赤尾町857−1
Tel 0763-67-3338


 岩瀬家住宅は現存する合掌造りでは最大級の規模の建物です。この地は五箇山と呼ばれ、かつて加賀藩が治めた越中と天領飛騨との境界付近です。一帯には、相倉、菅沼、白川郷の合掌造り集落があり、ユネスコの世界文化遺産に指定されています。
 建物は桁行23.9m、梁間13m、1重4階、切妻造り、茅葺きです。建築したのは、氷見の大工又三郎であると伝えられています。手と手を合わせたような急勾配の屋根の形は合掌造りといわれ、豪雪地帯のこの地で雪を落としやすくし、屋内を幾階にもわけて活用できました。内部は、総ケヤキ造りの準5階建てで、3階から上は養蚕の蚕の飼育場として活用されました。
 この建物は江戸時代後期に加賀藩の塩硝上煮役である藤井長右エ門によって8年の歳月をかけて建てられました。江戸時代末期に藤井家は絶え、岩瀬家が所有するようになりました。
 1尺角(30cm)の大黒柱、24畳の出居(応接間)の床板などには当時武士階級以外には許されなかったケヤキ材が使われています。1階には、加賀藩の巡視役人が宿泊した書院の間などもあります。岩瀬家住宅は昭和33年(1958)に国の重要文化財に指定されています。



行徳寺
ぎょうとくじ
富山県南砺市西赤尾825
Tel 0763-67-3302


 行徳寺は浄土真宗のお寺で、蓮如上人の高弟、赤尾道宗(どうしゅう)が室町時代末期の文安3年(1446)に開いたといわれています。始めは赤尾道場と呼ばれていましたが永正10年(1513)以降に行徳寺となりました。
 本堂と茅葺き屋根の楼門、合掌造りの庫裏、道宗遺徳館を併設しています。道宗遺徳館には蓮如や道宗にまつわる寺宝を所蔵展示しています。赤尾道宗心得二十一ケ条、蓮如御消息文、蓮如木像、棟方志功作の道宗像の板画などです。
 行徳寺の山門は建築年代は明らかではありませんが、18世紀の建築だと推定されています。一間一戸、入母屋造り、茅葺きで、上層は吹き放しの鐘楼堂となる鐘楼門です。小さな山門ですが均整がとれていて、江戸時代後期の楼門建築として貴重な遺構です。行徳寺山門は南砺市の有形文化財に指定されています。
行徳寺山門
  行徳寺の庫裏は幕末の建築で、合掌造りの庫裏になっているのが特徴です。一般民家より木割りが太く、式台が設置されていて、格式の高さを物語っています。行徳寺庫裏は山門と同じく南砺市の有形文化財に指定されています。
行徳寺庫裏



青年旅行村合掌の里
せいねんりょこうむらがっしょうのさと
富山県南砺市菅沼地内
 合掌の家で宿泊することができます。テニスコートやフィールドアスレチックなども整備されています。


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