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熱海梅園
あたみばいえん
静岡県熱海市梅園町1169−1
Tel 0557-86-6218 熱海市観光施設課
 熱海梅園はJR熱海駅の一つ先の「来宮駅」から10分ほど坂を上ったところにあります。樹齢百年超える梅の古木を含め、早咲き・中咲き・遅咲きの梅が約730本植えられています。
 熱海梅園は3千本の梅がある偕楽園(茨城県水戸市)、越生梅林(埼玉県越生町)とともに関東三大梅林のひとつに数え上げられています。
 熱海梅園は明治19年(1886)に当時内務省衛生局長であり、元老院議官でもあった長与専斎氏の提唱を受け、横浜の豪商であった茂木惣兵衛氏が私財を投じて造成した公園です。
 園内には日韓友好の韓国庭園、足湯、長与専斎撰の茂木氏梅園記の碑、長与が山の神・湯の神とヒポクラテスとを合祀した碑、市内西山町から移築した作曲家の中山晋平の邸宅「中山晋平記念館」などがあります。
 梅は早いものでは12月下旬に咲き始め、日本一開花が早い梅園だといわれています。丘陵沿いに広がっていて、丘陵を利用して、人口の滝や川が作られた和風庭園となっています。



起雲閣
きうんかく
静岡県熱海市昭和町4−2
Tel 0557-86-3101
 起雲閣は岩崎邸、住友邸とともに「熱海の三大別荘」といわれた和洋の融合した名邸です。大正8年(1919)に大正の海運王、内田信也が別荘として築きました。
 日本家屋の母屋と離れは大正後期、洋館と広大な庭園は昭和初期に造られたものです。昭和22年(1947)に旅館として生まれ変わりました。熱海を代表する宿として数多くの宿泊客を迎え、山本有三、志賀直哉、谷崎潤一郎、太宰治、舟橋聖一、武田泰淳など、日本を代表する文豪たちにも愛されました。
 優雅な気品を醸し出す起雲閣は、歴史的、文化的遺産として、市の所有となり一般公開されています。館内にはゆかりの文豪たちの資料展示室や喫茶室もあります。



お宮の松
おみやのまつ
静岡県熱海市東海岸町
Tel 0557-86-6218
 お宮の松は江戸時代初期、老中松平伊豆守信綱が伊豆巡視した際に植えさせた松の一本とされています。大正の初めから昭和の初めまで、その美しさから「羽衣の松」とも呼ばれていました。
初代お宮の松
 読売新聞に掲載された尾崎紅葉の「金色夜叉」で、貫一とお宮の別れの舞台となった松として脚光を浴びました。昭和のはじめ頃にはお宮の松とよばれるようになったそうです。
貫一・お宮の像
 自動車の排気ガスなどにより樹齢およそ300年の初代の「お宮の松」は枯れ出しました。昭和41年(1966)熱海ホテルにあったクロマツを2代目「お宮の松」として移植しています。



MOA美術館
えむおーえーびじゅつかん
静岡県熱海市桃山町26−2
Tel 0557-84-2511
 熱海駅の背後の山の手、丘陵地7万平方mを占める場所にMOA美術館はあります。まわりの風景を損なわないよう、入口から本館へは、エスカレーターで光と音のトンネルを通過していきます。
 昭和57年(1982)箱根美術館を創立した岡田茂吉の生誕百年を記念して本格的な美術館「MOA美術館」がオープンしました。MOAとはMokichi Okada Associationの頭文字をとって名付けられました。
 絵画・書跡・工芸など東洋美術を中心に、約3500点の収蔵品をもつ充実した美術館です。毎年2月公開される国宝の尾形光琳筆「紅白梅図屏風」をはじめ、野々村仁清作「色絵藤花文茶壺」、手鑑「翰墨城」など、日本・中国を中心に絵画・書籍・彫刻などが収蔵されています。
 重要文化財も65点も所蔵しています。レンブラントの「自画像」やモネの「睡蓮」など西洋絵画のほか、能楽堂では能や狂言も開催されます。建物は熱海市街や相模湾を見下ろす眺めのよい高台に立ち、瑞雲郷と呼ばれる約23万平方mの庭園が広がっています。



修禅寺
しゅぜんじ
静岡県伊豆市修善寺964
Tel 0558-72-0053
 福地山修禅寺は修善寺の名の由来ともなった寺で、温泉場の中心にある曹洞宗のお寺です。平安初期の大同2年(807)に弘法大師が開基したもので当初は真言宗に属していました。
 当時は地名が桂谷と呼ばれていたところから桂谷山寺といわれ、延喜式に伊豆国禅院一千束と正史に記されたほどの格式の高いお寺でした。
 鎌倉初期に建長寺を開山した宋の禅僧・蘭渓道隆が住持しました。南北朝時代の康安元年(1361)、畠山国清と足利基氏との戦禍を受け、応永9年(1402)には兵火を浴び、伽籃を全焼して寺は荒廃し衰退しました。
 延徳元年(1489)、韮山城主の北条早雲が再興し、叔父の隆溪繁紹(遠州石雲院)が住持して曹洞宗に改宗、山号も福地山と改めました。現在の本堂は明治16年(1883)に再建された建物です。
 源頼朝の弟の源範頼と、頼朝の息子で鎌倉幕府2代将軍の源頼家がこの寺に幽閉され、その後この地で殺害されたことでも知られています。岡本綺堂の戯曲「修禅寺物語」の舞台にもなり、紅葉の名所として有名なお寺です。



独鈷の湯
とっこのゆ
静岡県伊豆市修善寺
Tel 0558-72-2501 伊豆市観光協会
 修善寺温泉は、古くから文人墨客に愛された温泉で、伊豆半島において、最も歴史あるところです。伊東や熱海と並んで「日本百名湯」にも選ばれています。
 修善寺温泉の中で、まっ先にその名が挙がるのが、修善寺の観光名所であり、温泉街のシンボルともなっている、独鈷の湯です。ドラマや旅番組などで修善寺の町が紹介されると、必ず映し出されるのが、「独鈷の湯」の映像です。
 弘法大師が大同2年(807)に修善寺を訪れたとき、そこに病に疲れた父親の体を桂川で洗う少年を見つけました。少年の親孝行に感心した大師は手に持った独鈷杵で河中の岩を打ち砕き、霊験あらたかなる温泉を噴出させたそうです。このことから「独鈷の湯」と呼ばれるようになりました。
 この湧き出た湯で父の疾病を治療するよう弘法大師が説くと、たちまち父の病が平癒したそうです。この「独鈷杵」は、昭和36年(1961)、修禅寺の裏山から出土し、修禅寺の宝物殿で公開されています。



修善寺梅林
しゅぜんじばいりん
静岡県伊豆市修善寺小白山
Tel 0558-72-2501 伊豆市観光協会修善寺支部
 修善寺梅林は修善寺温泉の北側、修善寺虹の郷の近くの広大な修善寺自然公園の中にあります。
 約3haの園内には樹齢100年を越える老木から若木まで、白加賀や青軸などおよそ20種類3000本の紅白黄梅があります。
 1月下旬頃から咲き始め、最盛期の2月には梅まつりが催されます。茶店も出て甘酒などが無料で振る舞われます。
 農産物や海産物など特産品を売る店も連なっています。園内には緩やかな山の傾斜によく整備された散策道が設けられています。
 早咲きから遅咲きまで種類も多く、1月下旬から3月上旬までの長い期間楽しめます。梅林の中には岡本椅堂の「修禅寺物語碑」が建てられています。
 また修善寺ゆかりの高浜虚子、尾崎紅葉、中村吉右衛門らの句碑6基と茶室「双皎山荘」などが点在しています。梅の木越しには富士山も眺められます。
 散策道の両脇には水仙も植えられています。
 尾崎紅葉の句。
 「 いかさまに 霞むやと
      岡に渉りけり 」



按針メモリアルパーク
あんじんめもりあるぱーく
静岡県伊東市渚町6
Tel 0557-36-0111 伊東市役所
 按針メモリアルパーク はウィリアム・アダムス(日本名三浦按針)によって日本初の洋式帆船を建造したことを記念した公園です。ここには、日本初洋式帆船建造の地のモニュメントが建てられています。
 英国人ウイリアム・アダムスはケント州ジリンガムに生まれ、25歳で海軍に入りドレイク艦隊の船長をつとめました。「北極探検」に2年間参加した後、慶長3年(1598)オランダの5隻の東洋遠征隊に参加しました。航海長を務め、苦労の末、ただ1隻リーフデ号のみが慶長5年(1600)、九州臼杵沖に到達、漂着しました。徳川家康に信用され数学・地理学を教えたほか、幕府要人に砲術、航海術、天文学などを伝授し、家康の外交顧問となりました。
 慶長9年(1604)頃、徳川家康の命を受け、ここ松川河口で我が国初の80トンの洋式帆船を建造しました。その後、慶長12年(1607)外洋に出られる大型船120トンも建造しました。
 この船は慶長15年(1610)、房総の御宿海岸で遭難し地元民に救助されたスペインのフィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロに貸与され、サン・ブエナ・ベントゥーラ号と名付けられました。太平洋を横断、アメリカを経てアカプルコ(メキシコ)まで無事航海したそうです。



音無神社
おとなしじんじゃ
静岡県伊東市音無町1ー12
Tel 0557-37-2213
 音無神社は松川の河畔にある古い神社です。源頼朝と伊東祐親の娘の八重姫が逢瀬を重ねた場所と伝えられています。
 音無神社の境内は昼でも薄暗いほどです。源頼朝と八重姫を祀る石の祠(ほこら)があり、2人の子供である千鶴丸を祀る摂社も建てられています。
 祭神である豊玉姫命(とよたまひめのみこと)は安産の神様です。音無神社では底の抜けたひしゃくを奉納する風習があります。また、毎年11月10日の夜には「尻つみ祭」が行われます。
 暗闇のなかで隣の人の尻をつまんで酒杯をかわす奇祭です。当日は社殿の灯火をすべて消し、話しをすることが禁じられ、暗黒の中で祭典が行われることから、御神酒を廻すときにお尻をつまんで、合図をして杯を廻わすのでこの名がついたそうです。源頼朝と八重姫が音無森の暗闇で逢瀬を重ねたことにちなんでいるそうです。
 石の鳥居の左手に「音無神社のタブの木」はあります。特に大きいタブの木は高さ14mで伊東市の天然記念物に指定されています。タブの木は暖地性の常緑樹で、昔はクスノキと同様に多く自生していました。
 音無神社のシイの木も有名です。シイの木はブナの木科の常緑樹で、5月ごろに穂の形の花が咲きます。これらの木で覆われた神社一帯は音無の森と呼ばれています。



木下杢太郎記念館
きのしたもくたろうきねんかん
静岡県伊東市湯川2丁目11ー5
Tl e0557-36-7454
 伊東市立木下杢太郎記念館は昭和60年(1985)10月、杢太郎の生誕100年を記念してオープンしました。これは、杢太郎の甥にあたる太田慶太郎氏が杢太郎の資料を伊東市に寄贈したことにより実現しました。
 木下杢太郎は伊東市出身で明治から昭和にかけて文人、医学者、画家として活躍した人物です。水虫の白癬菌の発見、太田ぼはんの発見、ライ病の研究者で真菌学の祖といわれています。鉄幹、白秋、光太郎、啄木、漱石、鴎外などとも親交がありました。
 記念館には杢太郎の自筆原稿、愛用品などが展示されています。記念館奥には、天保6年(1835)に建てられた杢太郎生家が当時のままの状態で保存されています。伊東市内において現存する最古の民家として市指定文化財となっています。



城ヶ崎海岸
じょうがさきかいがん
静岡県伊東市富戸
Tel 0557-37-6105 伊東観光協会
 城ヶ崎海岸は、伊東市街の南、富戸から八幡野にかけて連なる9kmのリアス式海岸です。大室山が約4000年前に噴火したとき溶岩が海に流れ出し、海の侵食作用で削られてできた雄大な出入りの激しい溶岩岩石海岸です。
 溶岩が波に浸食されて数十メートルの断崖を形成し、海岸には80ヵ所あまりの岬と20あまりの岩礁が点在しています。
 海岸線には絶壁が連なり、幾重にもふところ深く入り組んだ岩礁、岬から岬へと続く眺めはまさに壮観です。
 原生林の続く台地には日本一のヤマモモ群生地があるほか、ヒメユズリハの群生地やノウサギ、岩ツバメなどの動植物をみることもできます。
 門脇崎灯台や絶景の海のつり橋、門脇吊橋(城ヶ埼吊り橋)が人気です。海上からは断崖絶壁が見物できる遊覧船が就航しています。
 城ヶ崎遊覧船は富戸(ふと)港からを出航します。この漁港には定置網漁の船が並んでいます。またここは海の水が澄んでいて気候も温暖なことからダイビングスポットとしても有名で、一年中ダイバーでにぎわっています。
 遊覧船では城ヶ崎沖の回遊ルートで約30分のクルージングが楽しめます。夏には海上花火遊覧コースなどもあるそうです。
 門脇埼灯台は、城ヶ崎の門脇埼に立つ、展望台を兼ねた白亜六角形の灯台です。この灯台は昭和35年(1960)3月に建設されましたが、平成7年(1995)5月に展望台付きの灯台に改築されています。
 灯台は地上24.9mの高さですが、地上17mのところに収容人員30名の第一展望台が設置され、地上4mの所に収容人員60名の第2展望台があります。晴れた日には、遠く伊豆七島や天城連山を望むことができます
 門脇吊橋(城ヶ埼吊り橋)は半四郎落しと門脇埼の切り立った岩場に架けられています。昭和43年(1968)3月に完成され、長さは48m、高さは23mで、断崖絶壁のスリルを味わうことができます。半四郎落しとは半四郎という人が、あっという間に海に落ちてしまった所です。
 半四郎落とし物語という伝説があります。昔 ここ城ヶ崎にほど近い富戸村に、半四郎とおよしという仲の良い夫婦がいました。ある日、半四郎は一人で海へドジ草(漆喰壁に使う海草)を採りに出かけました。
 かごいっぱいのドジ草を背負い、足場で休んでから家に帰ろうと疲れた腰を伸ばした瞬間、背中のドジ草の重みに引かれて、あっという間に海に落ちてしまったそうです。知らせを聞いたおよしはたいそう悲しみ、ここへ来ては立ち尽くし涙を流す日が続いたそうです。
 そして城ヶ崎一帯には、秋になると飛び散ったおよしの涙にも似た磯菊の花が可憐な姿を見せるようになりました。そしていつの頃か村人達はここを「半四郎落し」と呼ぶようになったということです。
 付近には城ヶ崎ブルースの碑があります。第2弾の雨の城ヶ崎の歌碑も建てられています。昭和61(1986)年新曲発表のイベントと歌碑除幕式が作詞家の星野哲郎を招き、催されたそうです。




伊豆海洋公園
いずかいようこうえん
静岡県伊東市富戸841ー1
Tel 0557-51-1128
 伊豆海洋公園は伊豆の城ヶ崎海岸の中心にある公園で、ダイビングのメッカです。通年ダイバーで賑わう「シーサイドガーデン」では、夏は自然の地形を生かした磯プールがオープンし、子どもから大人まで伊豆の自然と一体になって楽しむことができます。
 「城ヶ崎みはらしガーデン」には季節の花や貴重な植物を見ることができます。花壇を中心に広がるガーデンには、ブーゲンビリア温室や原種数日本一(約230種3000株)を誇るあじさい苑があり、5月から9月までアジサイの可憐な姿を楽しめます。
 ここは城ヶ崎ピクニカルコースの起点になっています。ここから富戸のぼら納屋まで約3km、城ヶ崎海岸の断崖地を歩くコースです。門脇の吊り橋や幕末の砲台跡、江戸城石切場跡なども通ります。
 暖流のおかげで1年中暖かく、ヤシの並木やアロエ、ガザニアなどが植えられ、園内の温室ではブーゲンビリアも、年間を通じて咲き誇っています。夏季には自然の地形を生かした磯プールがオープンします。波をかぶるぐらいに隣接されたプールで子どもから大人まで楽しめます。



熱川温泉
あたがわおんせん
静岡県賀茂郡東伊豆町熱川温泉
Tel 0557-23-1505 熱川温泉観光協会
 「銭の花の色は清らかに白い。だが蕾は血がにじんだように赤く、その香りは汗の匂いがする」・・・・細うで繁盛記のはじまりに加代役の新珠三千代が話すナレーションが思い出されます。
 細うで繁盛記は花登筺の「銭の花」が原作です。テレビドラマ化され、昭和40年(1970)から放映され人気を集めました。主人公の加代が熱川温泉の老舗旅館「山水館」の元に嫁ぎ、旅館を盛り立てていく物語です。
 熱川温泉は海からの急斜面に近代的な旅館が立ち並ぶ、東伊豆温泉郷一の温泉です。豊富な湯量を誇り、街のあちこちで自噴泉が湯煙をあげています。
 島見の湯の源泉である島見源泉は、地下200mより105度温泉が毎分400リットル噴出しています。細うで繁盛記では加代が宿泊客に「源泉茹で玉子」を出して評判になったところです。
島見源泉
 熱川の中心部に弁天偕楽源泉があります。現在、熱川にある10本の噴泉塔の1つです。もうもうと湯気が上がっています。泉質はナトリウム、塩化物・硫酸塩温泉です。黄色に変色した湯の成分が露出しています。
弁天偕楽源泉
 弁天偕楽源泉の隣には「お湯かけ弁財天(べんざいてん)」 が、にごり川沿いにあります。琵琶を手にした弁財天の像が立っています。この弁財天にお湯をかけながら願い事をすると夢が叶うそうです。お金を洗うとお金が増えるという宝池もあります。
お湯かけ弁財天
 この土地の先代の所有者は大坂商船の船長として世界の海をかけ巡っていたそうです。ある日、船長の夢枕に弁財天が現れ、「熱川のこの地を掘れ、そこには豊富な熱泉が噴出するであろう」とお告げがありました。その際「温泉の傍らに我が像を立て、その温泉をかけ願をかければ土地は繁栄し諸願が叶うであろう」と申されたそうです。
お湯かけ弁財天
 船長はそのお告げ通り土地を掘ったら、地下200mより100℃の熱泉が噴出したそうです。しかし尊像建立する前に他界したため、有志が像を建立してお告げに応えたそうです。
お湯かけ弁財天



熱川バナナ・ワニ園
あたがわばなな・わにえん
静岡県賀茂郡東伊豆町奈良本1253−10
Tel 0557-23-1105
 熱川バナナ・ワニ園は熱川の温泉熱を利用し、世界中から集めたクロコダイル、アリゲーターなど20種200頭以上のワニを飼育しています。また、熱帯植物園、熱帯果樹園があり、熱帯の花木、果物、原種ランなど約9000種も楽しめます。
 バナナワニ園は本園(ワニ園・植物園)とレッサーパンダやフラミンゴがいる分園があり、専用マイクロバスで行き来することができます。
 熱川バナナ・ワニ園は昭和33年(1958)に開園しています。分園は昭和46年(1971)にオープンし、平成20年(2008)大規模な改修工事がなされ、ドームで全体を覆うようになりました。
 熱帯植物園には珍しいオオニバスやパピルス、鮮やかな花をつける水蓮の温室、ハイビスカスやランなどの本園温室、パイナップルやバナナを栽培する分園温室があります。



稲取竜宮岬公園
いなとりりゅうぐうみさきこうえん
静岡県賀茂郡東伊豆町稲取
Tel 0557-95-0700 東伊豆町観光協会
 稲取岬の高台には稲取竜宮岬公園があります。稲取岬は「愛恋岬」とも呼ばれています。伊豆大島を一望できる展望台にもなっています。
 ここには高さ19mの稲取岬灯台が建っています。この四角い白亜の灯台は昭和47年(1972)3月に点灯され、平成9年(1997)に改築されています。海上交通の難所である伊豆半島沖を航行し、相模湾に出入りする船舶の安全を確保するため、石廊埼、爪木埼の主要灯台と並んで、大きな役割を果たしています。
 この公園には愛恋岬歌碑が建てられています。昭和59年(1984)に、古賀政男記念大賞で入賞した鳥羽一郎さんの名曲を記念して建てられた石碑です。
 愛恋岬歌碑の前に人が立つとセンサーで曲が流れるようになっています。この石碑の石は、もともとは築城石というものだったそうです。
 ここには「どんつく神社」も鎮座しています。毎年6月に開催される、伊豆3大奇祭の1つである、どんつく祭りの神輿が祀られている神社です。
 ドンと突くことから名付けられた神社の御本尊は、男性自身をかたどった御神体です。この神社の大祭である「どんつく祭り」では、御神体を乗せた神輿が街を練り歩きます。港では大漁旗をはためかせた漁船が壮大に海をわたり、海と街が渾然一体になって繰り広げられるそうです。



河津七滝
かわづななだる
静岡県賀茂郡河津町梨本
Tel 0558-32-0290 河津町観光協会
 河津七滝は河津川上流の渓谷にあります。河津では滝のことを「水が垂れる」という意味で垂水(たるみ)と呼んでいました。七滝はななだると読みます。
 河津七滝ハイキングコースにそって7つの滝を見ることができます。釜滝から始まり、えび滝、蛇滝、初景滝、かに滝、出合滝(であいだる)、そして最も大きい滝、大滝(おおだる)と続きます。

 釜滝は高さ22m、幅2mの滝です。覆いかぶさる様な玄武岩が美しい模様を作っています。雄大に 流れ落ちる、迫力満点の滝です。 かつては地獄谷と恐れられていたほどの滝です。
 えび滝は高さ5m、幅3mのたきです。滝の形が海老の尾ひれに似ていることからつけられています このえび滝はつり橋上から 眺めることができます。
 蛇滝は 高さ3m、幅2mの滝です。玄武岩の模様が蛇のうろこのように見える事から へび滝と名づけられています。
 初景滝(しょけいだる)は高さ10m、幅7mの白い流れが美しい滝です。
 初景滝の前には「踊り子と私」のブロンズ像が建てられています。自然の中で 調和し、伊豆の踊り子の敘情をかもしだしています。
  かに滝は高さ2m、幅1mの小さな滝です。美しい渓流の中でひっそりと流れる美しい滝です。この周辺は新緑や紅葉が美しいところです。
 出合滝は高さ2m、幅2mの滝です。河津川と荻ノ入川の2つの流れがここで出合ってひとすじの流れになります。流れ込む水の青さが印象的です。
 大滝は河津七滝中、最大の高さを誇る滝です。 高さ30m、幅7mで垂直に立ち上がる玄武岩の壁から雄大に流れ落ちています。 大滝は天城荘の下にあります。



河津桜
かわづざくら
静岡県賀茂郡河津町
Tel 0558-32-0290 河津町観光協会
 河津桜は2月上旬から3月上旬にかけて開花する早咲きの桜で、 花は桃色か淡紅色で、ソメイヨシノよりも桃色が濃いのが特徴です。河津桜まつりが開催され、河津町の地場産品や加工品販売の出店があるほか、河津桜がライトアップされます。
 河津桜とは、 寒緋桜と早咲き大島桜の自然交配種と考えられています。河津桜の原木を、河津町田中の飯田勝美氏が昭和30年(1955)頃、偶然発見し、自宅の庭に植えました。昭和41年(1966)から開花が見られ、1月下旬頃から淡紅色の花が約1ヶ月にわたって咲き続けました。河津桜は昭和50年(1975)より河津の町の木として指定されました。
 伊豆急行線河津駅近辺の河口から河津川に沿って、美しい河津桜並木が約3km続き、毎年河津桜が咲く頃、150万から200万人の大勢の観光客で賑わいます。



萬城の滝
ばんじょうのたき
静岡県伊豆市地蔵堂776ー1
Tel 0558-83-2654
 萬城の滝は高さ20m、幅6mの滝です。別名裏見の滝、古名大滝とも呼ばれます。迫力のある滝です。
 佐藤溪月の萬城滝の漢詩があります。
緑陰深き処瀑泉(ばくせん)懸(かか)る
飛沫滔々水烟(すいえん)濛(もう)たり
岩を廻りて裏に臨(のぞ)めば万雷の響き
涼氣煩(はん)を滌(あら)いて俗縁を断つ
 狩野川の支流、地蔵堂川に落ちる落差約20mの滝で、以前は遊歩道を歩いて滝の裏側を見ることが出来ました。現在は崩落により遊歩道は閉鎖されています。



浄蓮の滝
じょうれんのたき
静岡県伊豆市湯ヶ島892−14
Tel 0558-85-1056 伊豆市観光協会天城支部
 緑深い杉木立の中、ワサビ田を見ながら下りていくと本谷川に浄蓮の滝が姿を現します。伊豆随一の名瀑として有名で、「日本の滝100選」にも選ばれています。
 落差25m、幅7mの滝です。原生林が生い茂り、静寂な雰囲気の中、激しい音を立てて流れ落ちる姿は迫力があります。滝への道は明治末期に開かれ、昔は人も近づかぬ神秘的な場所だったそうです。滝の付近に「浄蓮寺」という寺院があったことから「浄蓮の滝」という名称がついたといわれています。滝の周りや滝壺の岩肌には県指定天然記念物のジョウレンシダ(別名ハイコモチシダ)が群生しています。



白浜中央海水浴場
しらはまちゅうおうかいすいよくじょう
静岡県下田市白浜2745
Tel 0558-22-5240
 白浜には白浜神社をはさんで、南側に「白浜大浜海水浴場」、北側に「白浜中央海水浴場」があります。大浜海水浴場は砂浜の長さは南北に約800mあります。透明な海として有名です。
 白浜中央海水浴場は環境省の日本の水浴場88選や快水浴場百選に選ばれています。砂浜や岩場もあるので、泳ぐだけでなく、磯遊びも出来るため、家族連れの海水浴客も多いところです。天気の良い日には伊豆諸島の島々が見えます。



白濱神社
しらはまじんじゃ
静岡県下田市白浜2740
Tel 0558-22-1183
 白浜大浜海岸と白浜中央海岸の真ん中に位置する白濱神社は、2400年以上という歴史を持つ伊豆半島最古の宮です。平成13年(2001)に歌手の西城秀樹がここで結婚式を挙げています。
 白濱神社の正式な社名は伊古奈比当ス(いこなひめのみこと)神社といい、事代主命(ことしろぬしのみこと)と伊古奈比当スを祀っています。三島大神ともいわれる事代主命は大国主命(おおくにぬしのみこと)の御子神様にあたり、大国主命を別名大国(だいこく)さんと呼ぶのに対して、事代主命は恵比寿さんと呼ばれ商業と漁業の神様です。
 伊古奈比当スは事代主命の最愛の后神様で、縁結びと子授けの神様です。伊古奈比当ス神社は白浜明神縁起によると、孝安6年(Bc387)、事代主命とともに伊豆の三宅島に鎮座していたそうです。
 その後、事代主命とともにここ白浜に遷座しました。当初は長田部落の神明(かみあけ)(現在十二明神社が鎮座しています)に鎮座したといわれています。
 白濱神社は延喜式内社で明神大社の式格をもっていました。平安期には社領4000石を有した伊豆最古の神社です。
 事代主命は伊豆国の国府があった旧田方郡府中(現在の静岡県三島市)の三嶋大社に遷座しました。そのため白濱神社は三嶋大社の古宮といわれるようになりました。
 白濱神社の本殿は三間社流造りの銅板葺きで大正11年(1922)造替された建物です。拝殿は正面6間、側面5間の入母屋造りの瓦葺きで向拝が付いています。万延元年(1860)造替されています。
 参道の右手には、枯れてから1300年という白龍の柏槙(びゃくしん)の御神木があります。地中から天に向かって、白龍が顔を出したように見えるので、命名されたそうです。
 参道の左手に樹齢二千年の薬師の柏槙(びゃくしん)の御神木があります。樹幹の空洞には薬師如来が祀られています。
 毎年10月に行われる例祭の火達祭(ひたちさい)は、例祭が始まることを伊豆七島に祀られている后神や御子神様たちに知らせるための火祭りです。下田市無形文化財の三番叟(さんばそう)の舞も披露されます。



爪木崎公園
つめきざきこうえん
静岡県下田市須崎
Tel 0558-22-1531 下田市観光協会
 須崎御用邸に近い、爪木崎公園は須崎半島の先端にあり、水仙の群生地として有名です。静岡県名所100選の第3位に選ばれた下田市の景勝地です。
 爪木崎には早咲きの300万本の野水仙が群生が1月下旬まで咲き続けます。白の清楚な花々が揺れる一面の花畑は、ほのかに甘い香りが漂います。
 あたり一面咲き誇る花は岬全体が広大な花園になり、一足早い春を実感できます。夏はハマユウの咲く草原になります。
 伊豆の爪木崎公園、千葉の鋸南町、淡路島の灘黒岩水仙郷、福井県の越前海岸が有名な野生種の水仙の群生地とされています。
 爪木崎灯台は、須崎半島の東南端にあり、爪木崎公園の駐車場から遊歩道が続いています。白亜の灯台は昭和12年(1937)に設置されました。現在は無人の自動式で遠隔監視されているそうです。
 相模湾に出入りする船の安全を石廊崎、神子元島の灯台と共に守っています。塔の高さは約17m、灯は海抜38mのところにあります。光は15000カンデラで4秒毎に1回閃光します。その光は30km以上先まで届くそうです。
 水仙の学名はNarcissus(ナルシサス)、ギリシャ神話の美少年ナルキッソスに由来しています。美しさゆえ様々な相手から言い寄られ、高慢にはねつけ恨みを買い、復讐の女神ネメシスにより、水鏡に映った自分自身を恋してしまいます。そして憔悴して死んでしまいます。ナルシストはこの話が由来となっています。



玉泉寺
ぎょくせんじ
静岡県下田市柿崎31ー6
Tel 0558-22-1287
 瑞龍山玉泉寺は日本で最初に米国総領事館が置かれたお寺で、昭和26年(1951)に国の史跡に指定されています。また、日露和親条約の交渉の場となり、ロシア、ディアナ号高官が滞在しました。ドイツ商人ルドルフも半年間この玉泉寺に滞在しています。
 玉泉寺は、天正以前は真言宗の草庵でしたが、天正の初め(1580年代)俊栄大和尚の来錫によって曹洞宗に改宗されました。嘉永元年(1848)当山20世翠岩眉毛和尚の代に現在の本堂が落成しました。嘉永7年(1854)日米和親条約の締結により、下田が開港され、下田条約が結ばれると、玉泉寺は米人の休息所、埋葬所に指定されました。
 安政3年(1856)タウンゼント・ハリス総領事は、通訳官ヒュースケンを伴い、米艦サンジャシント号で下田に着任しました。ハリスは玉泉寺を日本最初の米国総領事館とし、庭に星条旗が掲揚されました。
 ハリスは日米通貨比率の是正、領事裁判権の承認などを成功させましたが、日米通商条約締結の交渉は幕府の引き伸ばしにあい、ここ下田に2年10ヶ月滞在することになりました。
 14回の交渉の後、安政5年(1858)日米修好通商条約14ヶ条と貿易章程が締結され、玉泉寺の領事館は閉鎖され、江戸の善福寺に移されました。

 玉泉寺には日本最初の屠殺場の跡があります。屠殺場があるわけではなく、牛を仏手柑(ぶっしゅかん)の木に繋いで屠殺した跡で、屠牛木と呼ばれていた木の跡があるのです。昭和6年(1931)東京の牛肉商の手によって、立派な慰霊碑(牛王如来)が横に建立されています。
日本最初の屠殺場跡
 本堂の横には「牛乳の碑」があります。この石碑は伊豆で創業した「森永乳業」により建てられました。総領事として滞在中のハリスが、病床時に牛乳を欲した際に、15日間飲んだ牛乳の代金として1両3分を支払ったことから、日本で初めて牛乳売買が行われた地として、それを記念して建てられたそうです。
牛乳の碑
 境内にある玉泉寺ハリス記念館にはタウゼント・ハリスが領事館当時愛用していた遺品や関連資料、古文書等が多数展示してあります。特に柿崎村名主、浜田与平治の日記は領事館当時の出来事を詳しく知ることができます。また、黒船来航時、下田港で外国に行くことを企てて捕まった吉田松陰の遺品なども展示しています。
玉泉寺ハリス記念館



下田港・ペリー上陸の碑
しもだこう・ぺりーじょうりくのひ
静岡県下田市3
Tel 0558-22-1531 下田市観光協会
 伊豆半島の南端に近い下田港は、昔から江戸への回船の重要な寄港港として栄えていました。大型帆船の「千石船」が江戸や大阪と全国各地を結び、人や物を運んでいました。
 帆船全盛期、海上交通の中継地点であった下田は、この「千石船」が風待ちをするための重要な場所でした。日本各地の「千石船」が、黒潮に乗って駿河湾に入り、一日数十隻も下田の港で風を待っていたそうです。
 嘉永6年(1853)にアメリカ合衆国の海軍所属の東インド艦隊艦船が、日本の江戸湾浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)に来航しました。ペリーは開国を促すフィルモア大統領親書、提督の信任状、覚書などを手渡しました。
 幕府は将軍が病気であることを理由に、返答に1年の猶予を要求し、ペリーは1年後に再来航すると告げて去りました。嘉永7年(1854)、ペリーは半年で再び浦賀に来航しました。
 協議の末、幕府は、アメリカの開国要求を受け入れました。ペリーは横浜に上陸し、日米和親条約(神奈川条約)が締結されました。その後、下田の了仙寺へ交渉の場を移し、下田条約が締結されました。
 下田港は函館港とともに日本最初の開港地となり、外国船へ薪炭・食糧・水を供給する補給基地港となったのです。
 吉田松陰は藩の枠を越え、世界の情勢を見極めるために、海外密航を決意していました。金子重輔とペリー搭乗の旗艦ポーハタン号に乗りつけ、渡航を懇願しました。
 しかし、海外渡航は国禁であり、拒絶されました。松陰らは自首して捕らえられ、「平滑(ひらなめ)の獄」に拘禁されました。その後、安政6年(1859)、安政の大獄で処刑されてしまいました。
 ペリー上陸の碑が下田港の一角に建てられています。嘉永7年(1854)にアメリカ艦隊を率いて、下田に来航したペリー提督が第一歩を印した地です。ペリー提督の胸像と錨が設置されています。胸像は下田条約調印の地、了仙寺の方向を向いています。
 安政6年(1859)の日米修好通商条約により神奈川港などが開港したことにより、開国という下田港の役割は終わりを告げました。



下田海中水族館
しもだかいちゅうすいぞくかん
静岡県下田市3−22−31
Tel 0558-22-3567
 下田海中水族館は、天然の入り江を利用して海上に浮かぶ浮遊円形水族館です。藤田観光の100%の子会社である下田アクアサービスが経営しています。
 イルカショー、アシカショー、巨大水槽内で行われるラッコ、ペンギン、アザラシの給餌ショーなどを楽しむ事ができます。海に入ってイルカに触ったり、一緒に泳ぐこともできます。
 この水族館ではイルカとのふれあいがメインテーマになっていて、「ドルフィンビーチ」、「ドルフィンフィーディング」、「ふれあい感動スノーケリング体験」の3体験が用意されています。



了仙寺
りょうせんじ
静岡県下田市3−12ー12
Tel 0558-22-0657
 法順山了仙寺は、日蓮宗のお寺で、日米下田条約が締結された日本開国の国指定史跡です。
 了仙寺は寛永12年(1635)、第2代下田奉行であった今村伝四郎正長によって創建されました。目を病んだ徳川家康が身延山久遠寺に病気平癒の願をかけ、祈願成就で創建されたお寺なのです。
 嘉永7年(1854)、日米和親条約が締結され、ペリー艦隊が開港された下田に入港すると、了仙寺はペリー一行の応接所兼幕府との交渉場所となりました。
 そして、同年、日本全権林大学頭らとペリー提督との間に日米和親条約の付属条約である細かい取り決めの下田条約がここで結ばれました。
 下田条約は正確には日米和親条約付則13ヶ条と呼ばれています。この中で、アメリカ人は下田の街中を自由に歩く権利、すなわち「遊歩権」などが与えられました。これは一種の交流権です。
 黒船のアメリカ人と下田の町民たちはそこここで異文化の交流を体験しました。了仙寺では、下田の町民たちを対象としたコンサートがアメリカ海軍の軍楽隊によって開かれたそうです。

 境内には了仙寺宝物館が隣接しています。 ペリー・黒船・異文化交流をテーマとした黒船コレクションが有名です。絵巻物や肉筆画、版画など江戸時代初期から明治時代にかけての日本および海外の3000点を超える資料が所蔵、展示されています。
了仙寺宝物館
 境内裏に了仙寺横穴遺跡の洞窟があります。今から約1300〜1400年程前の古墳時代に墓として利用されていたようです。人骨とともに、幻玉や水晶製の腕輪や耳飾りなどの装身具、土師器などが出土しました。これらは死者とともに埋められた福葬品で、その質や量からみてこの地域に有力者の墓と考えられています。
了仙寺横穴遺跡



欠乏所跡
けつぼうしょあと
静岡県下田市3ー1
 欠乏所は欠乏品を入港してくる外国船に供給するところでした。嘉永7年(1854)日米和親条約により下田が開港され、下田条約が締結されました。幕府は貿易を認めませんでした。しかし航海上必要な薪、炭、水、食料などの欠乏品の供給を是認しました。
 「必要な品物その他相叶うべき事は、双方談判の上、取り決め候事」 (第6条) とのあいまいな条文だったために実質上の貿易が欠乏品の名目で行われていたのです。貝細工 ・ 塗料 ・ 瀬戸物 ・ 小間物 ・ 反物なども欠乏所で売られました。



長楽寺
ちょうらくじ
静岡県下田市3−13ー19
Tel 0558-22-0731
 大浦山長楽寺は真言宗のお寺で、弘治元年(1555)創建と伝わっています。安政元年(1854)このお寺で日本全権筒井政憲、川路聖謨等とロシア使節プチャーチンとの間で日露和親条約が調印されました。
 安政2年(1855)には日本側応接掛井戸対馬守等とアメリカ使節アダムス中佐との間で、先に締結された日米和親条約批准書が交換された寺でもあります。
 長楽寺は伊豆七福神めぐりの寺で弁財天を祀っています。伊豆七福神は、霊験あらたかな幸運の神として知られ、さまざまな願いに人々の根強い信仰を集めています。南伊豆町の海蔵寺(布袋尊天)、善福寺(福禄寿尊天)、西林寺(毘沙門天)、普照寺(寿老尊天)、下田の長楽寺(弁財天)、大安寺(大黒天)、向陽寺(恵比寿天)です。
 長楽寺の梵鐘は、伊豆八景の一つ「長楽寺の漏鐘」と称され、江戸期には「時の鐘」として下田港の出船入船や町民に親しまれました。
 宝物館ではお吉観音や悲恋のおすみ弁天などを拝観できます。またロシアとのゆかりから旧ソ連から送られた人形や絵葉書などが展示されています。



下田開国博物館
しもだかいこくはくぶつかん
静岡県下田市4−8−13
Tel 0558-23-2500
 下田開国博物館は「なまこ壁」の外観が印象的な博物館です。1号館と2号館、2棟に分かれています。下田の開港に関する歴史資料約1000点を中心に展示しています。
 ペリーの写真や唐人お吉の肖像画、黒船の模型、ロシア使節のプチャーチンが使っていたグラス、蒸気船の錦絵、お台場の見取り図、老中松平定信の伊豆視察などの記録、下岡蓮杖の写真などが見られます。



宝福寺
ほうふくじ
静岡県下田市1ー18ー26
Tel 0558-22-0960
 八幡山宝福寺は浄土真宗本願寺派のお寺で、永禄2年(1559)了善によって創建されました。嘉永7年(1854)に締結された日米和親条約により下田開港となり、ここ宝福寺は日本全権の本陣になりました。
 そして新たに下田奉行所が設置されました、都筑駿河守が奉行に赴任し、宝福寺は宿舎、仮奉行所となりました。
 文久3年(1863)、第15代土佐藩主、山内容堂を乗せた「大鵬丸」が上洛途上、嵐に見舞われ、風待ちの為に下田港へ一時避難し、一行は宝福寺に逗留をしていました。そこに勝海舟の率いる幕船「順同丸」がやはり嵐のため、下田港へ入港してきました。
 海舟入港の知らせを聞いた容堂は酒席へ招きました。この席で海舟は土佐藩を脱藩し自分の船にいる坂本龍馬ら脱藩浪士の罪の許しを嘆願しました。「鯨海酔候」と自称するほど酒好きの容堂は酒を飲めない海舟に瓢箪から盃になみなみと酒を注ぎました。
 そして飲み干したら、願いを聞くと言ったのです。海舟はその酒をすべて飲み干しました。そして赦免の証拠に瓢箪をもらいうけたいと願いました。すると容堂は白い扇に瓢箪の絵を描き、「歳酔三百六十回 鯨海酔候」と著名して海舟に手渡したそうです。この時の盃は宝福寺の寺宝になっているそうです。
 宝福寺境内にはハリスのもとで待妾として仕えたお吉の墓があります。敷地内にはお吉記念館があり、お吉が使ったかんざしや当時の覚え書きなどを展示しています。



弓ヶ浜海岸
ゆみがはまかいがん
静岡県賀茂郡南伊豆町湊
Tel 0558-62-0141 南伊豆町観光協会
 弓ヶ浜海岸は弓ヶ浜温泉とともに南伊豆町の代表的観光地で、その名の通り弓のように湾曲した白砂が1.3kmも続いています。南に伊豆七島が、東は爪木崎、西は石廊崎へ続く海岸線を見わたす事ができます。
 弓ヶ浜海岸は、「日本の渚百選」に選ばれています。湾の両側に岬があるため遠浅で波も穏やかで、景色も美しいため人気が高い海水浴場です。
 弓ヶ浜海岸は、今井浜、白浜と並び「 伊豆三大美浜」の一つにも数えられています。弓ヶ浜海岸には、毎年アカウミガメが産卵に訪れます。



下賀茂熱帯植物園
しもかもねったいしょくぶつえん
静岡県賀茂郡南伊豆町下賀茂255
Tel 0558-62-0057
 下賀茂熱帯植物園は南伊豆町にある下賀茂温泉の豊富な温泉熱を利用した植物園です。
 温室内には、南国の花や樹木、果樹、サボテンなど、約2000種以上を栽培しています。アライグマも出迎えてくれます。
 園内にはハイビスカス・ブーゲンビリア・カトレア・デンドロビューム・ブーゲンビリア・アメリカジャスミン・洋ランなどが咲き誇り、バナナ・パパイヤ・マンゴ・パイナップルが実っているトロピカルパラダイスです。
 限られた地域の熱帯雨林にしか自生していない「ヒスイカズラ」もあります。古代のイヤリングに似ていることから、「女王の耳飾り」とも呼ばれます。色がヒスイのようで翡翠葛(ヒスイカズラ)と名付けられたそうです。
 南国ムードたっぷりのレストラン「ハワイアンルーム」ではトロピカルフルーツやポリネシア料理が味わえます。すっぱいものが甘く感じる不思議な「ミラクルフルーツ体験」も人気です。
 鉢植えの販売もしています。デンドロビュームなどは一番人気だそうです。下賀茂温泉では、大正時代から温泉熱を利用してメロン栽培が行われていました。昭和30年に誕生した代表的なお菓子「メロン最中」はお土産に最適です。



石廊崎
いろうざき
静岡県賀茂郡南伊豆町石廊崎
Tel 0558-62-0141 南伊豆町観光協会
 石廊崎は相模灘と遠州灘を分ける伊豆半島の最南端にある岬です。海から高さ60mもある切り立った断崖から見渡せば、東に蓑掛岩(みのかけいわ)、西に神子元島(みこもとじま)が見えます。
 はるか先には伊豆7島が浮かび、青い海、褐色の岩、木々の緑が見事なコントラストを見せてくれます。
 石廊崎港からは石廊崎岬めぐり遊覧船が出ています。石廊崎の灯台や断崖を見上げながら海洋遊覧が楽しめます。奥石廊の大根島を回って折り返し、岩礁の美しいヒリゾ海岸を回って戻る25分のクルーズです。
 石廊崎港の近くには役の行者の銅像が建っています。7世紀末の伝説の山岳修行者で、修験道の開祖といわれています。石廊崎の先端、断崖のくぼみに立つ石室神社(いろうじんじゃ)ゆかりの人物です。
 石廊崎の岬の先端の断崖には白亜の石廊埼灯台が建っています。南国ムードがあふれるこの地は、数々の伝説が残る謎めいた場所でもあります。




石廊埼灯台
いろうざきとうだい
静岡県賀茂郡南伊豆町石廊崎
Tel 0558-62-0141 南伊豆町観光協会
 石廊埼灯台は、伊豆半島の最南端、石廊崎に立つ、白亜の塔形をした中型灯台です。「日本の灯台50選」にも選ばれています。
 石廊崎の海抜60mの断崖上に立つこの灯台は、明治4年(1871)に日本の灯台の父」と呼ばれた英国人リチャード・ヘンリー・ブラントンにより建設されました。当時は木造の八角形の洋式灯台で、日本では10番目に古い灯台でした。
 昭和7年(1932)11月14日の暴風で倒壊するまで60年以上海の安全を守り続けました。現在の灯台はその翌年に再建されたものを原型としています。平成5年(1993)2月に外壁をタイル張りとしています。
 石廊埼灯台の高さは11.38m、標高は59.54mです。16秒に1回、光を放っています。18海里(33km)まで到達するそうです。この灯台に行くには平成15年(2003)に閉園となった「ジャングルパーク」の廃墟の中を通っていくことになります。



石室神社・熊野神社
いろうじんじゃ・くまのじんじゃ
静岡県賀茂郡南伊豆町石廊崎
Tel 0558-62-0141 南伊豆町観光協会
 石室神社は石廊崎の先端、断崖のくぼみに危うげに建っています。そして50mほど離れた岬の最突端には熊野神社の小さな祠が鎮座しています。
 石室神社は大宝元年(701)創建といわれています。現在の社殿は明治34年(1901)に建てられました。石廊権現(いろうごんげん)や石廊崎権現とも呼ばれ、古くは伊波例命神社(いはれのみことじんじゃ)とも呼ばれたそうです。
石室神社
 石室神社は観音像と第六天神を安置していましたが、役小角が神託を受けて伊波例命を祀り、現在でも祭神は海上の安全を守る伊波例命です。長さ4間ほどの太い千石船の帆柱が床を支えています。この社殿は、伊豆七不思議の一つで、伝説が残されています。
石室神社
 昔、播州から塩運搬の千石船が、石廊崎の沖で嵐に遭い難破しそうになりました。神頼みに千石船の帆柱を石廊権現に奉納すると誓って祈ると、嵐はおさまり、無事に江戸に着く事ができました。
 帆柱奉納の事などすっかり忘れて帰路につき、石室神社の沖で船が進まず、暴風雨になりました。往路の誓いを思い出し、千石船の帆柱を奉納するために斧で切倒しました。すると帆柱は波に乗って社殿まで到達し、床の土台になったそうです。そして帆のない船は無事に播州へ戻ったそうです。

 石室神社から50m先にある熊野神社には、縁結びの神が祀られています。風が強く祠が飛ばないように屋根に石が乗せられています。熊野神社にも昔からの言い伝えが残されています。
熊野神社
 長津呂(石廊崎)に住む名主の娘・お静が、漁師の幸吉と恋に落ちました。身分の違いからその恋は許されず、幸吉は神子元島(みこもとしま)に離されました。幸吉を想いお静は、毎晩、石廊崎の先端で火を焚き、神子元島の幸吉と愛を火によって確かめあっていました。
熊野神社
 ある晩、神子元島からの火が見えないので心配したお静は、小船を出して神子元島に向かいました。波は高く船は思うままに進みません。一心不乱に神に祈り、その甲斐あって神子元島にたどり着き、再会した二人は結ばれました。親も許すこととなり、末長く幸せに暮らしたそうです。
 お静が火を焚いたところに熊野権現の祠が祀られ、以来縁結びの神として知られることとなりました。明治初期の神仏分離により熊野神社と称するようになったそうです。



奥石廊崎
おくいろうざき
静岡県賀茂郡南伊豆町石廊崎
Tel 0558-62-0141 南伊豆町観光協会
 奥石廊崎は石廊崎の西に位置しています。奥石廊海岸は、安山岩質集塊岩でできています。連なる断崖絶壁に押し寄せた波が激しく断崖にぶつかり、地響きを立てて砕け散っています。
 「あいあい岬」という愛称で呼ばれる展望スポットは、石廊崎と並ぶ南伊豆の景勝地です。点在する大小の島の岩場をおおう緑と真っ青な海を眺望できます。眼前の大根島(おおねじま)は野猿の生息地として知られています。
 奥石廊崎は富士箱根伊豆国立公園の中にあり名勝伊豆西南海岸の指定を受けています。大根島の右手には君掛根が見渡せます。
 岩礁が連続する男性的で雄大な景色も、夕方になると、夕日が空や海、断崖を茜色に染め、大小さまざまな島をシルエットにした静かな景色に変貌します。



旧岩科学校
きゅういわしながっこう
静岡県賀茂郡松崎町岩科北側442
Tel 0558-42-2675
 旧岩科学校は、 地元・岩科村の大工棟梁・菊地丑太郎と高木久五郎の設計施工により、 明治12年(1879)4月に着工し、翌年の明治13年(1880)9月に完成されました。総工費2630円66銭は村の共有金と各戸からの寄付が主たるものだったそうです。
 和洋折衷の建物で、建物の面積は441.16平方m(134.5坪)です。中央に日本風の2階建てがあり、その前面左右に副舎が1棟ずつコの字型に張り出しています。
 唐破風に取り付けられた懸魚など、全体的に和風ですが、正面部分のバルコニーのような形や、アーチ型の小窓などには洋風の意匠が見られます。外壁はなまこ壁になっています。
 校舎の2階西の和室の欄間には入江長八(いりえちょうはち)による千羽鶴の鏝絵(こてえ)があり、鶴の間と呼ばれています。鏝絵とは、日本で発展した漆喰を用いて作られるレリーフのことです。千羽鶴の鏝絵は日の出を表現した紅色の床の間をめざして飛翔する鶴を描いています。
 正面玄関の扁額は、 時の太政大臣・三条実美(さんじょうさねとみ)の筆です。旧岩科学校は日本では明治8年(1875)に建てられた甲府の旧睦沢学校、明治9年(1876)に建てられた松本の旧開智学校などに次ぐ古い学校として知られています。
  平成4年(1992)11月に2年間の改修工事を終了し、明治13年の往時の姿に復元されました。旧岩科学校は伊豆地区最古の小学校として昭和50年(1975)に国の重要文化財に指定されています。



伊豆の長八美術館
いずのちょうはちびじゅつかん
静岡県賀茂郡松崎町松崎23
Tel 0558-42-2540
 昭和59年(1984)にオープンした「伊豆の長八美術館」は、文化12年(1815)伊豆国松崎村明地(現在の松崎町)に生まれた左官の名工・入江長八の作品を集めた美術館です。気仙沼の「リアス・アーク美術館」などの建築で知られる、石山修武(いしやまおさむ)が指揮を執り、日本左官業組合連合会が名工を全国から総動員して、現代左官技術の粋を集めて完成されました。
 入江長八は12歳で左官棟梁に弟子入りし、漆喰技術を身につけ、19歳で江戸へ出ました。狩野派の絵師である、「喜多武清」(きたぶせい)に弟子入りし、絵画の修行を積みながら、漆喰・左官技術との融合を試みました。
 やがて、全く新しい鏝絵(こてえ)を確立し、多くの作品を世に送り出しました。鏝絵とは、日本で発展した漆喰を用いて作られるレリーフのことです。長八の名が、広く世間に知られることとなったのは、26歳の時に描いた、日本橋茅場町の「薬師堂」の左右の御拝柱に踊った、一対の「龍」からでした。
 名工としての長八の名は知れわたり、その後、「浅草観音堂」、「目黒祐天寺」、「成田山新勝寺」、「高輪泉岳寺」などに、数々の長八作品が生まれていきました。
 入江長八の作品はこの美術館に50点、松崎町では浄感寺の「長八記念館」に約20点、岩科学校や、春城院に残されています。活躍した東京では戦災や震災でなくなってしまいましたが、高輪の泉岳寺、東品川の寄木神社、足立区の橋戸稲荷、千葉県の成田山新勝寺などに残っています。



長八記念館
ちょうはちきねんかん
静岡県賀茂郡松崎町松崎234−1
Tel 0558-42-0481
 長八記念館は浄感寺の本堂にあります。浄感寺は漆喰(しっくい)細工の名人とうたわれた左官の名工・入江長八の菩提寺です。境内には長八の墓があり、胸像、記念碑もあります。
 長八は鏝絵(こてえ)という漆喰を用いて作られるレリーフを確立し、多くの作品を世に送り出しました。浄感寺には、長八が残した名作20点を所蔵しています。天井に描かれた長八の代表作品「八方にらみの龍」は宝珠を持つ白龍で、狩野派の画法で描かれています。
 左右の欄間にある色鮮やかな鏝絵「飛天」や「望富岳於伊豆之奈島図」、「群鶴の図」など、驚嘆すべき作品が残されています。



近藤平三郎生家
こんどうへいざぶろうせいか
静岡県賀茂郡松崎町松崎211
Tel 0558-42-0745 松崎町観光協会
 松崎町にはなまこ壁通りと呼ばれる一角があります。壁面に四角い平瓦を打ちつけ、瓦の継ぎ目を漆喰でかまぼこ状に盛り上げてつなぐ建築技法です。江戸時代に防火・防湿建築として普及したもので、伊豆各地で見ることができますが、ことに松崎には数多く残されています。
 なまこ壁通りの角に江戸末期に建築され薬問屋を営んでいた近藤平三郎の生家があります。多数のアルカロイドを発見して、昭和33年(1958)文化勲章を受章しています。
 平三郎は東京帝国大学薬学科を卒業し、明治40年(1907)にドイツに留学しました。その後、東京帝国大学薬学主任教授となり、アルカロイドの研究に大きな足跡を残しました。世界で初めて麻酔を作ったり、キューリ夫人とも面識がありました。



明治商家・中瀬邸
めいじしょうか・なかせてい
静岡県賀茂郡松崎町松崎315−1
Tel 0558-43-0587
 松崎町のなまこ壁通りに町営の資料館である明治商家の中瀬邸があります。中瀬は屋号で、明治時代に依田直吉が絹織物を中心とする呉服から、綿や麻織物まで手広く衣料商を営んだ呉服商家です。
 なまこ壁造りのたたずまいの中は、太い柱や梁、贅沢な素材や細工を施してあります。依田家はわずか数代の間に財を成した大地主で、現代では考えられない程贅沢な建築方法で、明治時代の木造建築の粋を集めて建てられています。
 主屋には、調度品や帳場の様子などが当時のまま再現されています。当時の商家の道具や町の歴史的資料も展示しています。地元出身の入江長八が完成させた鏝絵(こてえ)の実演見学も時折開催されます。奥の座敷には喫茶コーナーもあり、抹茶と桜餅のセットなどが味わえます。



時計塔
とけいとう
静岡県賀茂郡松崎町松崎315
Tel 0558-42-0745 松崎町観光協会
 松崎町のなまこ壁通りの明治商家・中瀬邸の前に時計塔があります。大正13年(1924)、後の昭和天皇ご成婚を記念して地元の青年団により建設されました。昭和13年(1938)の水害により水没したものを、昭和62年(1987)町興しの一環として復元したものです。
 時計塔の前にある「ときわ大橋」は、那賀川に架けられた橋です。松崎特有のなまこ壁で30m欄干を桜の花、空を飛ぶツバメなど漆喰で装飾しためずらしい橋です。昭和60年(1985)に周囲にマッチするように施工されました。
 時計塔には文字盤に円からはみ出して「13時」が印されています。塔の頂にある鳥を型どったモチーフや、鉄柱の先で光る丸い電球など、とてもかわいらしいデザインです。この時計塔は「世界の中心で愛を叫ぶ」のロケで使われたそうです。



堂ヶ島
どうがしま
静岡県賀茂郡西伊豆町仁科
Tel 0558-52-0013 堂ヶ島マリン


 堂ヶ島は西伊豆町にある景勝地です。浮石質凝灰岩が駿河湾の荒波により侵食され、断崖絶壁となったもので、その美しさから「伊豆の松島」と称えられています。
 リアス式の変化に富んだ海岸や奇岩、干潮時には陸続きになる堂ヶ島のシンボル・三四郎島など、自然の魅力にあふれています。昭和37年(1962)に温泉が出て、国道136号線に沿って堂ヶ島温泉の旅館・民宿が点在しています。
 堂ヶ島温泉ホテルの正面にある三つの島、象島、中ノ島、高島は三四郎島と呼ばれています。海の干満の差により陸と地続きになるトンボロ現象が起きる不思議な島です。
 干潮時に幅30mほどの磯が出現して道となり、歩いて渡れるようになります。島の裏側に回りこんだ波が両側から押し寄せる形となって、海岸と島の間に砂や礫を堆積させるのです。干満の差が激しい大潮の日ならば、2時間ほど石州ができます。
 三四郎島には小雪伝説が伝えられています。伊豆の三四郎という源氏の若武者が、平氏の目を逃れてこの島に隠れ住んでいました。恋仲の瀬尾行信の娘・小雪は、この海の道を渡って数時間の逢瀬を重ねていました。そこへ源氏再興の兵を挙げる源頼朝の書状が、行信の元に届きます。
 小雪は、その書状を届けようと三四郎の許へと急ぎます。折悪しく上げ潮で、この道は現れていません。無理を承知で島へ渡ろうとした小雪でしたが、容赦ない怒濤にのまれその姿を消してしまったという悲恋の伝説です。
 この三四郎島には長い年月の海触によりできた天窓洞があります。中央の天井が抜け落ちていて昭和10年(1935)に天然記念物指定されています。堂ヶ島マリンの遊覧船で中に入ることもできます。
 ここには昭和10年(1935)与謝野鉄幹・晶子夫妻が訪れ、その時に鉄幹は「島の洞 御堂に似たりて 舟にして 友の法師よ 参れ心経」、晶子は「堂ヶ島 天窓洞の 天窓を 光りてくだる 春の雨かな」と詠み、記念の歌碑が建てられています。



加山雄三ミュージアム
かやまゆうぞうみゅーじあむ
静岡県賀茂郡西伊豆町仁科2048−1
Tel 0558-52-1122
 加山雄三ミュージアムは俳優、歌手、作曲家、マルチタレントとして活躍する加山雄三の博物館で平成10年(1998)にオープンしました。東宝からデビューし、主役の若大将シリーズは全17作を数えました。音楽でも活躍し、弾厚作の名前で作曲した「君といつまでも」は大ヒットしました。
 特別に愛着を持っている「光進丸」という船は加山雄三自身が設計した全長30mの大型船です。現在の光進丸は3代目で、西伊豆町の安良里(あらり)漁港に係留されています。これが縁でこの地にミュージアムが出来たそうです。
 若かりし頃の加山雄三の写真や秘蔵フィルム、映画のセットや愛用のギターなどが公開されています。また、鉄道模型のコーナーや、海や外国の風景を画題に、彼が描いた絵画などが展示されています。



黄金崎
こがねざき
静岡県賀茂郡西伊豆町宇久須3566
Tel 0558-55-1100 キャンプ黄金崎
 黄金崎は夕景の美しさで知られる西伊豆の景勝地です。夕陽を浴びた岩肌が、黄金色に輝き、駿河湾と富士山が見渡せる素晴らしい眺望が満喫できます。
 黄金崎付近の岩石はプロピライト(変朽安山岩)と呼ばれ、今から3500万年前の火山活動で安山岩の割れ目から熱水が侵入し生成された岩石です。炭酸ガスを含む溶液の作用で安山岩が変質するのです。
 長年の風化により緑、淡青色、黄色、黄褐色の現在の岩石色になっています。この黄褐色に変質した岩が夕陽を浴びると黄金色に輝くことから黄金崎と名づけられたそうです。
 岬全体が公園になっており、遊歩道も整備されています。「絶対彼氏」というドラマではロケ地になっています。遊歩道の一角に、赤い鳥居に小さなほこらの「黄金神社」があります。もとは金鉱山の安全祈願として祀られていましたが、現在は恋愛成就の神社として有名です。

 三島由紀夫は安良里に長く滞在し、小説「獣の戯れ」には黄金崎の様子が描かれています。黄金崎にはその一節を刻んだ文学碑が建っています。
 西伊豆海岸を舞台にして、美しい妻、廃人同様の夫と若い愛人が共に生活します。放心の微笑をたたえて妻と青年の情事を見つめる夫。死によって愛の共同体を作り上げるため、その夫を殺す青年という異常な愛情心理を追求した作品です。
 船首の左に、黄金崎の、代赭いろの裸かの断崖が見えはじめた。冲天の日光が断崖の真上からなだれ落ち、こまかい起伏は光りにことごとくまぶされて、平滑な一枚の黄金の板のやうに見える。
 「断崖の下の海は殊に碧い。異様な鋭い形の岩が身をすり合はせてそそり立ち、そのぐるりにふくらんで迫り上った水が、岩の角々から白い千筋の糸になって流れ落ちた。・・・獣の戯れからの黄金崎の描写の一節です。

 黄金崎の根合(ねあい)海岸の一画に、四季を通じて色々な花が咲き乱れる黄金崎コレクションガーデンがあります。菜の花、ヘメロカリス、カノコユリ、スカシユリ、ツワブキなどの約20種の花が季節ごとに咲き誇っています。
コレクションガーデン



恋人岬
こいびとみさき
静岡県伊豆市小下田3135−7
Tel 0558-99-0026 恋人岬事務局
 恋人岬は伊豆市(旧・土肥町)小下田(こしもだ)にある断崖状の岬で、年間23万人の観光客が訪れます。700m程の富士見遊歩道の先端に位置し、駿河湾越しに御前崎から富士山まで望める絶景ポイントです。
  恋人岬の展望台にはラブコールベル「愛の鐘」が設けられています。ラブコールベルを3回鳴らすと愛が叶うといわれています。1回目は「自らの身を清め」、2回目は「相手の心を呼び」、3回目は「二人の愛を誓います」
 恋人岬は廻り崎と呼ばれる場所でした。昭和58年(1983)にイメージアップを図るべく改称されました。平成元年(1989)にはグァム恋人岬との姉妹提携調印式が行われました。
 金の鐘「幸せの鐘」 は、グアムの恋人岬と提携関係を結んだ際に設置された鐘です。グァム恋人岬にある銀の鐘とともに鳴らすと至上なる幸せが訪れるそうです。
 恋人岬と名付けられた由来が残されています。それは廻り崎に語り継がれた民話です。土肥金山が最盛期だった遠い昔の話です。
 土肥の屋形に、福太郎という漁師がいました。年老いた両親をかかえ、小舟で朝夕漁に出て生活していました。小下田の米崎には、およねという娘がいて、小さな畑を耕して年老いた両親の面倒をみていました。
 二人は土肥の朝市で知り合い恋に落ちました。しかし福太郎の住む土肥から、米崎までの道のりは遠く、険しく、老いた親をかかえる身でもあったので、二人はなかなか逢えないでいました。
 およねは近くの神社で、毎日、福太郎との恋の願掛けを行いました。ある日、およねが目を開けると、願いが通じ、2つの鐘が置かれていました。神さまの慈悲と信じ、およねは、鐘を福太郎のもと届けました。およねの話を聞いた福太郎は何ひとつ疑わず鐘を受け取り、小舟のへさきに取りつけました。
 朝とタ、福太郎はおよねのいる米崎沖を通って黄金崎まで漁に出ました。およねは毎日岬に立って、鐘を三度鳴らしました。それにこたえて福太郎もへさきの鐘を三度鳴らし、互いの愛を伝え合ったのでした。
 いつしか二人の恋物語は、米崎の村人の間でも評判となっていきました。そして二人は、村人の協力もあってついには結ばれ、仲睦まじく、いつまでも幸せに暮らしたということです。



松原公園
まつばらこうえん
静岡県伊豆市土肥
Tel 0558-98-1212 土肥町商工会
 松原公園は土肥海水浴場の砂浜に続く松林の自然公園です。周りには土肥温泉があります。金山の坑道からお湯が湧き出したのが始まりといわれる温泉で、慶長16年(1611)安楽寺境内で湧出しました。
 松原公園の中には土肥温泉を使った足湯・手湯「黄金の湯」が無料で利用できます。長さ23cm、幅80cm、深さ38pの足湯が2つあり、約42度の温泉が毎分14.4リットル出ています。ホテルや旅館以外にも、土肥の集落内には共同浴場で温泉に入ることができます。足場の後ろには温泉モニュメントの温泉噴塔が建てられています。
 松原公園には世界一の花時計 があります。時計は直径31m、長針の長さ12.5m、短針の長さ8.8mです。世界最大の文字盤としてギネスブックに登録されています。
 外周は大小の石でパネル化され、はだしで歩く健康歩道となっていて、様々な種類の天然石が敷かれています。指の付け根にあたるよう歩き、足の痛い箇所を看板でチェックして健康状態を確かめられるそうです。
 温泉噴塔の横にあるモニュメント「波濤を超えて」は女性から飛び立とうとしている鳩の像です。これは平成16年(2004)、土肥の恋人岬とグアム恋人岬が姉妹岬として提携し、15周年を記念して建てられました。鳩はつがいの絆が強く、一生その相手を変える事がありません。純愛の象徴として、愛の理想形として、また姉妹岬の強い結びつきを表すシンボルとしてこの像は設置されたそうです。
波濤を超えて
 花時計から50m程海岸寄りの松原大橋付近に若山牧水の像が建てられています。生前、何度も土肥温泉を訪れた牧水はいくつかの歌を残しています。牧水は大正7年(1918)頃に土肥を訪れ、「伊豆の春」「土肥温泉にて」という近代文学に土肥を紹介しました。それを読んだ文学者や文学青年達が土肥を訪れ牧水の痕跡を辿る者が急増したそうです。
若山牧水像
 「花のころに 来慣れてよしと 思へりし 土肥に来て見つ その梅の実を」
 牧水が土肥の地名を歌に残した歌です。平成11年(1999)に牧水の胸像とともに設置されました。
 牧水の他にも島木赤彦、大場美夜子の歌碑、地元彫刻家による数多くの彫刻像が林立し文学芸術的ムードがあふれています。松原公園から約650mの所には駿河湾フェリーの乗船所があります。雄大な富士山を眺めながら、65分で清水港まで行くことができます。



土肥金山
といきんざん
静岡県伊豆市土肥2726
Tel 0558-98-0800
 土肥金山の歴史は古く、12世紀後期平安時代にはすでに金鉱床が発見されていたといわれています。建徳・文中・天授(1370年代)の時代、足利幕府直轄の金山奉行が土肥を支配し、金を掘っていたようです。天正5年(1577)土肥の大横谷、日向洞、楠山、柿山、鍛冶山などの5ヶ所が開発され、金が本格的に採掘されるようになりました。
 天正5年(1577)にはいくつかの新鉱脈も発見され、北条家により本格的に採掘され軍資金になっていました。北条滅亡後、徳川家康はここを直轄地として、三島代官の彦坂小刑部元成に管理させました。
 慶長11年(1606)伊豆金山奉行になった大久保石見守長安は新しく導入した新技術によって生産量を飛躍的に増大させ、隆盛を極め第一期黄金時代を築きました。慶長18年(1613)長安は不正蓄財や幕府転覆の嫌疑が掛けられ、子供共々死罪に処せられました。
 その後、土肥の金山は衰退し、寛永2年(1625)には休山となってしまいました。明治39年(1906)神戸の実業家長谷川_五郎がヨーロッパの技術者を招き探鉱を行い成功し、第2期黄金時代を築きました。
  長谷川氏が亡くなると、土肥金山は住友鉱業(株)の資本を導入しました。昭和17年(1942)土肥鉱業(株)となったりしましたが、昭和40年(1965)には鉱量が枯渇し閉山しました。閉山までの掘削坑道の総延長は約100km、深さは海面下180mに及びました。
 昭和47年(1972)から土肥マリン観光(株)が観光鉱山として営業しています。金山には観光坑道とともに資料館「黄金館」や「砂金館」が併設され世界最大の250kgの金塊などで観光客の人気を博しています。



旅人岬
たびびとみさき
静岡県伊豆市小土肥9−6
Tel 0558-98-1212 土肥町商工会
 旅人岬は平成10年(1998)にできた新名所です。駿河湾越しに南アルプスが見える開放的な眺望です。展望台には「家族」と銘されたブロンズ像とこの岬の名付け親でもある直木賞作家笹倉明氏の小説「旅人岬」の石碑があります。
 小説「旅人岬」は土肥の旅館に生まれた姉妹の恋や人生の葛藤の物語です。土肥と小土肥の間にある小さな岬が整備され、「旅人岬」と名付けられたのです。
 太陽がまぶしい光の刺を落としながら、夕日に変わる準備をはじめている。大きな湾がひとつの鏡となって上空の円い炎をうつし、目を射るほどに輝いていた。・・・・
 小説 旅人岬の一節が刻まれています。



宝泉寺
ほうせんじ
静岡県沼津市戸田449
Tel 0558-94-2560
 林光山宝泉寺はロシア使節のプチャーチン提督及び皇族アレキサンドル・スリゲート殿下などの宿所となったお寺です。境内には滞在中に病死した若きロシア水兵の墓碑があります。
 嘉永7年(1854)、プチャーチン提督以下500名は日露交渉のため下田港に碇泊中、安政の大地震にあい、軍艦ディアナ号は津波で大破しました。
 ディアナ号修理のため、戸田湾に曳航を開始しましたが、駿河湾に沈んでしまいました。このため、戸田で代わりの船を建造することになりました。完成まで105日間滞在したのがここ宝泉寺です。



富士山
ふじさん
静岡県富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡小山町
山梨県富士吉田市、南都留郡鳴沢村
 富士山は標高3776mの日本最高峰の山で、日本三名山(三霊山)、日本百名山、日本の地質百選に選定されています。富士箱根伊豆国立公園に指定され、昭和27年(1952)には特別名勝に指定されています。
 古来より霊峰と呼ばれ、本朝世紀によれば、富士山を開いたのは富士山修験道の開祖とされる富士上人であると記されています。また修験道の開祖として知られる役小角は、流刑された伊豆大島から毎晩密かに逃げ出して、信仰の山である富士山へ登ったという伝説が残り、「富士山開山の祖」ともいわれています。
 富士山の噴火の歴史は延暦19年(800)の延暦噴火、貞観6年(864)の貞観噴火、そして宝永4年(1707)の宝永大噴火があったことが記録に残されています。かつては休火山といわれていましたが、現在では「活火山以外の火山」に入り、噴火活動が活発になる可能性もあります。
 富士山は長い時間の経過の中で噴火を繰り返し行い、その都度溶岩や火砕物が積み重なってできた成層火山です。富士山の土台にあたる小御岳火山は十数万年前に出来たと思われます。
 小御岳火山は噴火活動を続け隆起し、約8万年前あたりで活動を止まり死火山となりました。その山の南側より古富士火山が誕生し噴火活動し、約15000年前まで活発に噴火活動を行い、標高3000mまで成長し、死火山となりました。
 約14000年前より古富士火山の山頂付近で新富士火山の噴火活動が開始しました。この新富士火山の噴火により現在見られる富士山の形が形成された考えられています。
 垂仁天皇3年(bc27)、富士山の噴火を鎮めるため、富士山本宮浅間大社が創建されています。富士山8合目より山頂までの約385万平方mの土地は富士山本宮浅間大社の境内になっています。「本宮境内」に対して、富士山頂部(8合目以上)は「奥宮境内」と呼ばれています。



白糸の滝
しらいとのたき
静岡県富士宮市原上井出
Tel 0544-27-5240 富士宮市観光協会
 白糸の滝は白糸の名の通り絹糸を幾筋も垂らしているような繊細で女性的な優美な滝です。高さ20m、幅200mの湾曲した絶壁から、大小数百の滝が流れ落ちています。滝壺近くに立つと、三方が水のアーチとなって幻想的な世界を見せてくれます。
 白糸の滝の水は富士山の雪解け水が、上部の水を通す地層である新富士火山層と下部の水を通さない地層である古富士火山層の境の絶壁から湧き出したものです。伏流水の為、毎秒1.5トンという比較的安定した水量と水温(平均水温は11度)を保っています。
 白糸の滝付近は日本3大仇討ちの1つ「曽我兄弟の仇討ち」の舞台です。「曽我の隠れ岩」、「工藤祐経の墓」などがあります。白糸の滝のすぐ上には岩窟があり、「お鬢水(おびんみず)」という水が湧いています。この水で源頼朝は髪のほつれを直し、「この上に いかなる姫や おはすらん おだまき流す」という詠を残しています。 
 白糸の滝は昭和11年(1936)に「白糸ノ滝」として国の名勝及び天然記念物に指定されました。昭和25年(1950)には「観光百選滝の部」の1位にランクされました。平成2年(1990) 「日本の滝百選」に選定されています。



音止の滝
おとどめのたき
静岡県富士宮市上井出
Tel 0544-27-5240 富士宮市観光協会
 音止めの滝は芝川本流にかかる滝で、白糸の滝の南東約250mのところにあります。白糸の滝とともに日本の滝百選に選ばれています。
 音止めの滝は白糸の滝とは対照的で男性的で豪快な滝です。水量は豊富で落差約25mあり、上の岩場から一気に落ちていきます。下の方には虹が出ていました。
 鎌倉時代、ここで曽我兄弟が父の仇である工藤祐経を討とうと密議をしていました。しかし滝の轟音で話が聞き取れません。そこで神に念じたところ、たちどころに滝の音が止んだそうです。そのために音止の滝という名が付けられています。



富士山本宮浅間大社
ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ
静岡県富士宮市宮町1−1
Tel 0544-27-2002
 富士山本宮浅間大社は、浅間大神(あさまのおおかみ)を祀る全国1300余りの浅間神社の総本宮です。創建は垂仁天皇3年(bc27)、富士山の噴火を鎮めるため、勅命により富士山の分霊である浅間大神を勧請したのが始まりと伝えられています。
 大同元年(806)、平城天皇の命により坂上田村麻呂が富士宮市の現在の場所に社殿を建立し、浅間大神を富士山麓から現在地に遷座し、社殿を造営しています。
 朝廷からも崇敬され、仁寿3年(853)に編纂された文徳実録では従三位に列しています。貞観元年(859)には正三位、延喜7年(907)には従二位、永治元年(1141)には正一位を授けられています。
 延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳では名神大社として記載され、その後、駿河国一宮として駿河国の祭祀を司っています。
 文治4年(1188)、源頼朝は社領を寄進し、建久4年(1193)の巻狩の際には流鏑馬を奉納しています。貞応2年(1223)執権北条義時は社殿造営を行っています。室町時代に入ると守護職今川家に、戦国時代には武田信玄、勝頼などに庇護されました。
 豊臣秀吉は社領1070石を寄進、徳川家康は境内の社殿30余棟を再建しました。寛永18年(1642)、3代将軍徳川家光は朱印領として1129石3斗6升を安堵し、以後歴代将軍がこれを追認しました。江戸中期には富士講などができ繁栄しました。富士山本宮浅間大社を参拝した後、富士山登拝することが流行りました。
 明治の神仏分離令により仏式が廃されました。清泰院、閼伽井坊、乗蓮坊、金蔵坊、法泉坊、蓮蔵坊、大圓坊、大蓮寺などは神社又は神社関連施設へと姿を変えました。明治4年(1871)に国幣中社に列し、明治29年(1896)に官幣大社に昇格しました。
 富士山本宮浅間大社は富士山8合目より山頂までの約385万平方mの土地を境内としています。「本宮境内」に対して、富士山頂部(8合目以上)は「奥宮境内」と呼ばれています。

 本殿は慶長9年(1604)、徳川家康が造営したもので浅間造りと呼ばれる2重楼閣造りになっています。桁行5間、梁間4間の社殿の上に三間社流造り、三間向拝付きの社殿を重層させています。 ともに桧皮葺きです。国の重要文化財に指定されています。
富士山本宮浅間大社本殿
 幣殿・拝殿は本殿と同じく家康の造営です。屋根は本殿と同じ檜皮葺きです。外側・内側は丹塗で、極彩色は蟇股・虹梁彫刻などに限られています。幣殿は、本殿と拝殿をつなぐ「作合」と呼ばれた部分です。拝殿は、間口5間、奥行5間で、床が幣殿より2段高くなっています。正面が入母屋造り、背面が切妻造りです。正面に向拝が1間出ています。正面に扉があり、正面左右には濡縁を巡らせてあります。県の文化財に指定されています。
拝殿・幣殿
 楼門は、間口4間、奥行2間半、高さ6間半の2階入母屋造りです。正面・左右脇に扉が付いています。楼門の左右には随身が安置してあり背銘に慶長19年(1614)の年号があります。楼門に掲げる扁額は聖護院入道盈仁親王の筆で文政2年(1819)に掲げられました。楼門は県の文化財に指定されています。
楼門
 東脇門を出ると平安朝の歌人平兼盛が「つかうべきかずにをとらん浅間なる御手洗川のそこにわく玉」と詠じた湧玉池があります。この池は富士山の雪解け水が何層にもなった溶岩の間を通り湧出するもので、特別天然記念物に指定されています。
湧玉池
 湧玉池の清水の湧出する水源の岩上には朱塗優雅な水屋神社があります。富士山登山者はこの霊水に禊ぎをして登山する古くからの習わしがあります。
水屋神社
 表参道の道のど真ん中に鉾立石と呼ばれる平たい石があります。4月と11月の大祭で山宮神幸が行なわれ、その時に神鉾をこの石の上に立てて休むところです。
鉾立石
 富士山本宮浅間大社の境内には源頼朝の像が建てられています。建久4年(1193)頼朝は富士の裾野で巻狩をした際に武運長久・天下泰平を祈って流鏑馬を奉納しました。このことから毎年5月上旬に伝統行事の「流鏑馬祭り」を行っています。
源頼朝の像



清見寺
せいけんじ
静岡県静岡市清水区興津清見寺町418−1
Tel 054-369-0028
 巨鼇山(こごうさん)清見寺(せいけんじ)は、臨済宗妙心寺派のお寺です。この付近は清見潟と呼ばれ、三保の松原とならぶ駿河の名所でした。清見潟には古くから関所が設けられました。奈良時代、その脇に関守として仏堂が建てられたのが清見寺の始めです。
 足利尊氏は、官寺として清見寺を保護し、今川義元も庇護しました。幼少時代に今川氏の人質だった徳川家康は、人質だった幼少の折りに清見寺の住職太原雪斎に師事し、ここで学問を修めています。
 豊臣秀吉は小田原攻めにあたって清見寺に3日も泊まったそうです。江戸時代には、朝鮮通信使や琉球使の接待がこの寺で行われました。広島県福山市の福禅寺、岡山県瀬戸内市の本蓮寺と共に朝鮮通信使遺跡として国の史跡に指定されています。

 正和3年(1312)鋳造された清見寺の梵鐘は、謡曲三井寺に出てきます。天正18年(1590)豊臣秀吉に韮山城攻めの際には陣鐘に用いました。高さ140.2cm、口径は80.7cmです。県の文化財に指定されています。
梵鐘
 明治時代には夏目漱石や高山樗牛、島崎藤村が訪れています。境内には高山樗牛「清見寺鐘声」の碑文があります。
 鐘の音はわがおもひを追うて幾度かひびきぬ。うるはしきかな、山や水や、僞りなく、そねみなく、憎みなく、爭ひなし。人は生死のちまたに迷ひ、世は興亡のわだちを廻る。・・・(略)・・・鐘の音はまたいくたびかひゞきわたりぬ。わがおもひいよ深うなりつ
高山樗牛碑文

 徳川家康手植えの「臥龍梅」や、家康「手習の間」などの遺構が残されており、国の名勝に指定されている清見寺庭園もあります。家康の3女静照院殿よりは、仏殿の本尊釋迦弁尼仏と大方丈の大玄関の寄進を受けています。与謝野晶子は「龍臥して法の教へをきくほどに梅花の開らく身となりにけり」と詠んでいます。 
臥龍梅

 境内には島崎藤村の「桜の実の熟する時」の最後の場面に登場する五百羅漢石像があります。釈迦如来の弟子で仏典の編集護持に功績のあった人々の像で、江戸時代中期に彫造されています。
五百羅漢石像

 榎本武揚が揮毫した「人之食を食む者は、人之事に死す」と書かれた咸臨丸碑があります。人の世話になった者は、その人の為に死ぬという意味です。幕府軍と新政府軍の争いの際の幕府軍の戦没者を祀るため、清水の次郎長、榎本武揚が建立しています。
咸臨丸碑
 官軍に追われ函館五稜郭を目指す旧幕府軍の一隻「咸臨丸」、途中嵐に遭い、清水湊に入ります。多勢に無勢で多くの旧幕府軍は殺害され海に投げ出されたままでした。官軍の怒りを買うことを恐れた住民は葬ることも出来ませんでした。清水の次郎長は「死者に官軍も賊軍もない。皆、仏だ」と言って手厚く葬ったそうです。
咸臨丸碑



三保の松原
みほのまつばら
静岡県静岡市清水区三保
Tel 054-221-1105
 三保の松原は、約7kmの海岸線に5万4千本の松が茂り、三大松原のひとつに数えられています。羽衣の伝説がある白砂青松の景勝地で、ここから仰ぐ富士は日本新三景の一つに選ばれています。
 近くには、三保の松原に舞い降りた天女の羽衣伝説ゆかりの御穂神社があります。この神社には、天女の羽衣の切れ端が保存されているそうです。境内には、10もの社があります。子安神社は、大国主命の両親である須佐之男命と稲田姫命が祭神で、安産子育ての神として知られています。
御穂神社
 日本書紀にも残る古社御穂神社は「三保の明神さん」と親しまれ、「羽衣の舞」は奉納の舞いとして伝承されています。また左甚五郎の作といわれる神馬が奉られています。安永2年(1773)駿府大火の時、静岡浅間神社の2頭の神馬が御穂神社に逃げ込んだうちの1頭だといわれています。
御穂神社
 御穂神社から羽衣の松まで、海に向かって真っ直ぐのびる一直線の長い松並木は、神木として「神の道」と呼ばれています。
神の道

 天女が舞い降りて羽衣をかけたと伝えられる「羽衣の松」は樹齢約650年の古松です。天女が衣を枝にかけて水浴びしている時、漁師が衣を取りあげ、返す代わりに天女の舞を披露してもらったという天女の羽衣伝説で知られています。
 松の右手には謡曲「羽衣」を舞踊化したフランスのバレリーナ、エレーヌ・ジュグラリスの碑が立っています。
 毎年元旦の朝には大勢の人々が集い、この場所から、伊豆半島の山々から昇る初日の出を拝みます。



梅蔭禅寺
ばいいんぜんじ
静岡県静岡市清水区清水南岡町3−8
Tel 054-352-0995
 梅蔭禅寺は臨済宗妙心寺派の禅寺で、明応元年(1492)天倫通明和尚の開山創建と伝えられています。当初は、梅蔭庵と号し永禄年間(1558-1569)武田家の御朱印地となり、その後梅蔭寺と改めました。慶長年間(1596-1614)に火災により諸堂及び宝物を失い、安政2年(1855)の安政の大地震では堂宇が倒壊しました。
 梅蔭禅寺は侠客・清水次郎長の菩提寺として有名です。次郎長をはじめ、大政・小政・増川仙右エ門、お蝶夫人の墓があります。境内に立つ次郎長像の向いには次郎長遺物館があります。次郎長愛用の着衣や煙官、大政の特大の胴着、小政愛用の木刀などを展示しています。
次郎長像
 「侠客次郎長の墓」は榎本武揚の揮毫です。武揚は江戸幕末の海軍のトップになり、箱館湾海戦で新政府軍に敗れました。その後、明治政府の郵政大臣を務めるなど、海軍中将、子爵まで上り詰めました。咸臨丸で殺された旧幕府兵士の遺体を次郎長が丁重に葬ったことから榎本武揚や山岡鉄舟らと親交が生まれました。
清水次郎長の墓
 清水の次郎長(1820-1893)こと山本長五郎は文政3年(1820)清水市美濃輪の船持ち船頭の三男に生まれ、母の弟の米商「甲田屋」山本次郎八の養子となりました。家出してやくざの世界に入り、諸国を旅して修行を積み清水港に一家を構えました。
小政、仙右ェ門の墓
 慶応4年(1868)、東征大総督府から駿府町差配役に任命され、静岡県の駿河、遠江、愛知県三河の地域の治安維持に貢献しました。この年に旧幕府軍の一隻「咸臨丸」が清水湊に入り、官軍からの攻撃で乗船していた旧幕府軍兵士が殺害される事件が起きました。
大政の墓
 海に投げ出されたままになっていた遺体は、官軍の怒りを買うことを恐れ、誰も葬ることをしませんでした。次郎長は「死者に官軍も賊軍もない。皆、仏だ」と言って手厚く葬ったのです。そして静岡藩大判事の任にあった旧幕臣の山岡鉄舟らと親交ができ、世のため人のために生きるようになったそうです。
旅姿三人男の碑
 博打を止めた次郎長は清水港開港に尽力し、英語教師を招いて青年に英語を教え、晩年は開墾事業に没頭し、三保・日本平・富士市裾野大開墾など幾多の社会公益の為に尽くしました。
お蝶弁天



龍華寺
りゅうげじ
静岡県静岡市清水区村松2085
Tel 054-334-2858
 観富山(かんぷさん)龍華寺(りゅうげじ)は日蓮宗の名刹で、寛文10年(1670)身延山第21世の日遠上人の弟子である日近(にちごん)上人が開きました。寺の名は、日近上人を非常に祟敬していた東山天皇が命名され、皇室の勅願所としたそうです。
 甲州身延の大野山本遠寺第4世だった日近上人は、霊峰富士の信奉者でした。「この地から観る富士の姿が最も荘厳である」と隠居地として龍華寺を建立したのです。そして「大野別院」と称しました。
 創立の際には、徳川家康の側室で水戸光圀の祖母である養珠院お萬の方の援助を受けたそうです。龍華寺にはお萬の方の肖像画が残されています。お萬の方は10男徳川頼宣(紀伊徳川家)、11男徳川頼房(水戸徳川家) の母にあたります。
 須弥山(しゅみせん)式といわれる日本最古の造園法で造られた庭園「観富園」は、池を駿河湾に、本堂の屋根を富士山に見立てて造られました。駿河湾越しに望む富士の絶景を縮図としたものです。
 株まわり5.3m、高さ3.7mの日本最古の大ソテツは、日本一の大きさで国の天然記念物に指定されています。大阪府堺市の妙国寺、静岡市吉田町の能満寺のソテツとともに「日本三大ソテツ」に数えられています。
 境内には江戸時代初期にブームだったという大サボテンもあります。根元は既に木化しています。推定300年で国の天然記念物に指定されています。龍華寺のサボテンは大きな刃の様子をしている事から大宝剣と呼ばれています。

 晩年日蓮宗に帰依し、この眺望を愛した明治の文豪、高山樗牛(ちょぎゅう)の墓があります。樗牛は明治4年(1871)山形県鶴岡に生まれ、仙台二高を経て、帝国大学哲学科を卒業しました。仙台二高教授、帝大講師、雑誌「太陽」の主筆等を歴任。帝大在学中歴史小説「滝口入道」を書いて名声を得ました。日本主義、ニーチェ主義、日蓮主義と短い生涯の中で思想を変えています。日本近代化の思想の悲劇を象徴した文学でした。日本美術史で文学博士号を得ました。ヨーロッパ留学を目前に結核のため病没しました。
高山樗牛像と墓碑
 「世のかゞみ てらす心の 友垣や 富士の高山 月の姉崎」
 高山樗牛と姉崎嘲風の心友歌碑です。世界の文壇に知られた2人の友情美談を明治日蓮教学の大斗田中智学が教育勅語の「朋友相信シ」の鑑であるとして咏ぜられた歌です。
高山樗牛心友歌碑



久能山東照宮
くのうざんとうしょうぐう
静岡県静岡市駿河区根古屋390
Tel 054-237-2438
 元和2年(1616)、徳川家康は75歳の生涯を閉じました。遺言により、遺骸は久能山に移され、侍臣・榊原照久を斎主として神道の式により葬られました。
 家康の廟所となったことで久能山にあった久能山城は廃城となりました。この城は山梨県の岩殿城、群馬県の岩櫃城とともに武田の3名城でした。家康は、大御所として駿府にいた頃、「久能山城は駿府城の本丸と思う」と、久能山の重要性を説いていたそうです。
 2代将軍徳川秀忠は久能山に家康を祀る神社を造営することになります。1159段のつづら折りの石段を登りつめた山頂に壮麗な社殿が造られました。これが久能山東照宮です。
 家康の10男で、当時、駿河領主であった頼将(のちの初代紀州藩主頼宣)が総奉行となり、中井大和守清次が大工の棟梁となりました。元和2年(1616)5月に着工され、翌年の12月までの 1年7ヶ月という短期間でこれだけの建物群を造り上げました。
 社殿は当時最高の建築技術・芸術が結集された「権現造」の様式で、桃山時代から江戸時代の美術の粋を集め造られました。日光東照宮を始め全国に多数造営された東照宮は久能山東照宮が原型となっています。
 中井大和守正清は名古屋城、仁和寺、二条城などの国宝、重要文化財に指定されている建物を手掛けています。久能山東照宮も社殿の壮麗さと、駿河湾を見おろす風光の美しさで全国に知れ渡りました。
 祭神は、もちろん徳川家康で、「東照神君」として平和・開運・学問・厄除の神として祀られています。さらに相殿として、豊臣秀吉、織田信長が祀られています。
 家康の遺骸は、「一周忌を過ぎた頃に日光山に小堂を建てて移霊せよ」という遺言により、元和3年(1617)4月4日、日光東照宮に改葬されました。しかし、その後も徳川家の宗廟として日光と並び称せられ、篤い崇敬をうけました。
 昭和30年(1955)には、本殿、拝殿、唐門、神廟、神楽殿、鼓楼、神厩、楼門などの創建当時の建造物が重要文化財に指定されました。昭和34年(1959)、久能山全域が国の史跡に指定され、平成22年(2010)年12月には「本殿、石の間、拝殿」が国宝に指定されました。
 社殿の後方には家康の眠る廟所があります。また、境内には、久能山東照宮博物館があり、家康公が愛用した宝物類2000点あまりを保存展示してあります。

 一ノ門は駿河湾側から登る石段を登りきった909段の所にある門です。家康のお墓までが1159段です。門衛所が奥にあります。ここからの眺望は駿河湾が見渡せ、絶景です。
一ノ門
 門衛所は一ノ門をくぐったところにあります。江戸時代には久能山東照宮の参拝には制限がかけられ、当時の警察官である与力がこの門衛所に詰めて警衛の任に就いていました。
門衛所
 久能山城時代の井戸が残っていて、「勘助井戸」という名がついています。軍師、山本勘助が掘ったと伝わる井戸で久能山城を語る貴重な文化財です。
勘介井戸
 楼門(ろうもん)は元和3年(1617)に建てられた3間1戸の8脚楼門です。入母屋造りで銅瓦葺きです。この門をくぐって東照宮詣でが始まります。楼門前にある狛犬は宮内を向いています。
楼門
 2階部分には後水尾天皇の宸筆(天皇御自ら書かれた書)である「東照大権現」の扁額(へんがく)が掲げてあり、勅額御門ともいわれています。極彩色、漆塗りの楼門は国の重要文化財に指定されています。
楼門

 元和3年(1617)に建てられた神厩(しんきゅう)です。神厩とは馬屋のことで、神に仕える馬を飼う建物のことです。馬は神の使いとされ、日光東照宮や伊勢神宮などでは本物の馬を飼っています。桁行3間、梁間2間の厩舎で、国の重要文化財に指定されています。
神厩
 その昔、愛馬は夜になると家康の神廟の脇で休み、朝になると厩舎で餌を食べていたそうです。ある朝、馬が厩舎に戻らなかったため神廟を確認したところ、静かに眠ったままの姿で見つかりました。その話を聞きつけた名工、左甚五郎が愛馬そっくりに彫刻し、この厩舎に納めたと伝えられています。馬の眼球には当時大変貴重であったギヤマン(ガラス)が使用されています。
神厩

 鼓楼は元和3年(1617)に建てられた鐘楼です。袴腰付きの桁行3間、梁間2間、、切妻造り、妻入の本瓦葺きの建物で国の重要文化財に指定されています。
鼓楼
 明治の神仏分離の際、鐘楼は仏教施設であるということから中身を太鼓に替え、「鼓楼」となりました。太鼓は明治6年(1873)に旧幕臣であった小島勝直氏が江戸城にあった太鼓を奉納したそうです。
鼓楼

 五重塔は廃仏毀釈の時に取り壊されてしまい、その跡の石碑が残されています。久能山東照宮の主要建築物の中で唯一残存できなかった堂宇で、残念でたまりません。仏教的要素が強すぎるとの理由だったそうです。
五重塔跡

 神饌所は正保4年(1647)の建築で、国の重要文化財に指定されています。平面は、桁行5間、梁間3間、入母屋造り、銅瓦葺きです。内部は、神饌を調える2部屋を配しています。
神饌所

 神庫は奈良、正倉院と同じ校倉造りの建物です。桁行5間、梁間3間、寄棟造り、本瓦葺きの建物で元和3年(1617)に建てられました。東照宮への奉納品をここに納めたと伝わっています。国の重要文化財に指定されています。
神庫

 神楽殿は元和3年(1617)に建てられた桁行5間、梁間3間の建物で、国の重要文化財に指定されています。神楽殿という名称が付いていますがこの建物では神楽は行われず、武家奉納の絵馬を掲げたと伝わっています。
神楽殿

 日枝神社は桁行3間、梁間3間、向拝一間がある入母屋造り、銅瓦葺きの建物です。御祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)です。元和3年(1617)に建てられた建物で、国の重要文化財に指定されています。
日枝神社
 日枝神社は、昔は、御本地堂といわれ東照公の御本地仏とする薬師如来像を安置していました。神仏分離令を受けて明治3年(1870)12月に仏像を大正寺に遷し、山中にあった山王社の御神体を納めたと伝わっています。
日枝神社

 東門は日枝神社から拝殿の間にある朱塗りの棟門です。元和3年(1617)に建てられた門で国の重要文化財に指定されています。 
東門

 唐門は四方唐破風造りの門で元和3年(1617)に建てられています。下の鳥居から見ると、正面の一段高い所に見えます。唐門と透塀が取り囲む形で拝殿、本殿は建てられています。唐戸棟桁下羽目板などで細部にわたって豊富な彫刻色漆金箔などを使って豪華絢爛な美観を現しています。
唐門
 唐門は四脚平唐門、前後軒唐破風付、銅瓦葺きの門で透塀とともに国の重要文化財に指定されています。 透塀とは、中ほどを連子(れんじ)、透かし彫りなどにして、内部が透けて見える塀のことをいいます。
唐門

 元和3年(1617)に建立された本殿、石の間、拝殿は、いわゆる権現造の形式をもつ複合社殿で平成22年(2010)年12月に国宝に指定されました。本殿・拝殿を石の間で接続していて、建設当時最高の建築技術・芸術が結集されています。要所に彫刻や錺金具などを用いて荘厳化をはかり、江戸幕府草創期における質の高い建築技術や工芸技術を伝えています。
社殿(本殿・石ノ間・拝殿)
 本殿は桁行3間、梁間3間、一重、入母屋造りの銅瓦葺きです。石の間は桁行1間、梁間1間、一重、両下造、銅瓦葺きです。拝殿は桁行5間、梁間2間、一重、入母屋造りで正面に千鳥破風を付け、向拝3間がある銅瓦葺きの建物です。伝統様式である和様を基調とし、複雑な構成になる立面や軒廻りなどを巧みにまとめており、細部も整った意匠をもっています。
社殿(本殿・石ノ間・拝殿)

 渡廊は本殿前面の石の間と階段下にある神饌所を結んでいます。元和3年(1617)に建てられた22間の建物で国の重要文化財に指定されています。
渡廊

 久能山東照宮の廟門(びょうもん)は社殿の後方にある家康の眠る廟所の入口です。向唐破風造りの四脚門で銅瓦葺きです。元和3年(1617)に建てられた門で国の重要文化財に指定されています。
廟門

 廟所(びょうしょ)参道は廟門から御神廟までの間をつなぐ参道です。左右には家康に仕えた武将たちが奉納した石灯籠が並んでいて、厳かな雰囲気が漂っています。
廟所参道

 廟所(びょうしょ)参道の石段の奥に家康が眠る「神廟(しんびょう)」の石造宝塔があります。当初、この地には小さな祠(ほこら)が建てられていましたが、三代将軍徳川家光によって高さ5.5m、まわり8mの石塔が建てられました。家康公の遺命に従い、西向きに建てられています。神廟は国の重要文化財に指定されています。
神廟
 久能山東照宮廟所にある玉垣(たまがき)も国の重要文化財に指定されています。玉垣とは、神社・神域の周囲にめぐらされる垣のことです。瑞垣(みずがき)ともいわれます。
東照宮廟所玉垣

 久能山東照宮博物館は、昭和40年に設置されました。国宝の備前(岡山)太刀の真恒(さねつね)は平安末期から鎌倉初期に作られた名刀です。スペイン製枕時計は家康の愛用品で我が国で現存する機械時計では最古のものです。この他、家康の遺品である、鉛筆、コンパス、眼鏡や甲冑、刀剣など2000点ちかくの文化財を収蔵しています。
久能山東照宮博物館



日本平
にほんだいら
静岡県静岡市清水区草薙597−8
Tel 054-334-2026 日本平ロープウェイ
 日本平は、日本武尊が東征の際、草薙の原で野火の難にあい賊を平定した後、この山の頂上に登り四方を眺めたところから名付けられたそうです。日本平は静岡市の清水区から駿河区の間に位置する標高308mの丘陵地です。
 日本平は国の名勝に指定されていて、昭和55年(1980)の日本観光地百選コンクールで第1位となっている景勝地です。日本平と標高270mの久能山までを結ぶ、全長1065mの日本平ロープウェイがあります。
 南アルプスと霊峰富士山の眺望、梅園、、茶園、みかん畑などが見えます。眼下には切り立った絶壁が連なる屏風谷、遠くには駿河湾の景色が広がります。



登呂遺跡
とろいせき
静岡県静岡市駿河区登呂5−10−5
Tel 054-285-0476 登呂博物館
 登呂遺跡は、弥生時代の集落・水田遺跡で、昭和27年(1952)に国の特別史跡に指定され、現在は「登呂遺跡公園」として保存されています。総面積は7万平方mで、そのうち6万平方mが特別史跡に指定されています。弥生時代後期に属し、1世紀ごろの集落跡と推定されています。
 戦時中の昭和18年(1943)軍需工場、住友金属工場の建設工事中に発見されました。戦時中のため、そのまま埋め立てられ、戦後間もない昭和22年(1947)に考古学・人類学・地質学など各分野の学者が加わり、日本で初めての総合的な発掘調査が行われました。
 遺跡の面積は33万平方mあり、地下1mの所に、水田、集落、森林などの遺跡が発見されました。8万平方メートルを超える水田跡や井戸の跡、竪穴式住居・高床式倉庫の遺構が見つかりました。この他にも、農耕や狩猟、漁労のための木製道具や火起しなども発見されました。
 平成11年(1999)から5カ年計画で再発掘調査が行われ、新たに銅釧や漆が塗られた琴、祭殿跡などが出土しています。祭祀で使われたと思われる琴は、共鳴箱があり船をかたどった槽(そう)づくりといわれる種類です。漆が塗られた琴の出土は、日本初になります。
 竪穴式住居は地面を数十センチ掘り下げ、その面を床とする半地下構造の家です。登呂遺跡のものは小判型の土塁で床は地表そのままです。中央に炉を作ってあります。四隅に四本柱が立ち、内側は、木のはめ板、外側に杭を2列にならべて、その間に土を入れて埋めていきます。
竪穴式住居
 屋根は茅葺きの切妻の棟をのせた円錐形の上屋をかぶせてある「平地式住居」でした。しっかりとした骨組みになっていて風雨にも耐えたようです。
竪穴式住居
 復元住居は、故・関野克東大教授が発掘した遺構や銅鐸・土器に描かれた絵などを参考に設計し、昭和60年(1985)頃に造られました。高さ約5m、平面の広さ約70平方mで、4本の柱の上に梁(はり)と桁(けた)をかけ、垂木(たるき)をもたせかけています。
竪穴式住居
 住居の近くで発見された高床式倉庫は水害や他の動物から穀物などを守る高床式になっています。柱は6本又は8本で校倉(あぜくら)造りです。四方を厚い板で囲った切妻、茅葺きの建物です。
高床式倉庫
 倉庫の穀物を鼠や蛇などに狙われないように、地面から1.2mくらいの所に「鼠返し」が付けてあります。昇り降りする梯子は一本の厚い板に足をかける切れ込みがついていて、これにも鼠返しが付いています。
高床式倉庫
 住居跡の東南に幅250m、長さ約400mの範囲に約8ヘクタールの水田跡があります。水田の外側は沼地になっていたようです。田んぼの面に水を蓄えるために、土地の低い側に矢板を打ち並べ、高い側に杭を打ちこんであぜを守っていました。このように区画された田面の数は約40〜50枚あったと考えられています。
水田跡

 平成22年(2010)10月に、登呂遺跡公園内にある登呂博物館がリニューアルオープンしました。登呂博物館では発掘された土器や農耕具が展示されています。参加体験ミュージアムでは、見学者自身が、登呂の村に入り、くらしに用いた道具を作ったり、火熾しなどの体験ができます。弥生時代の服を着て弥生時代の体験ができます。
登呂博物館



駿府公園
すんぷこうえん
静岡県静岡市葵区駿府公園1−1
Tel 054-221-1121
 静岡市は、駿府の町といわれ、徳川家ゆかりの城下町として発展しました。二重の堀と美しい石垣に囲まれた駿府公園は、駿府城の跡地です。駿府城の中堀の内側の旧本丸・二の丸が整備されています。現在は東御門と巽櫓が復元されています。
 駿府城は徳川家康が築城し、余生を送った城です。園内には家康の銅像が建っているほか、天然記念物に指定されている家康お手植えのミカンの木も残されています。また約1万本のツツジが色とりどり咲き揃う5月は、また格別で、ひと際鮮やかな公園です。
 徳川家康は三河岡崎城で生まれました。幼名竹千代といい駿府の今川義元の人質として少年時代の12年間を駿府で過ごしました。駿府は今川、武田に領国化されていました、天正10年(1582)、織田・徳川連合軍により武田氏は滅亡し、甲斐・駿河は三河の家康が領有しました。天正13年(1585)に駿府城は近世城郭として築城し直され、この時に初めて天守が築造されました。
 その後、天正18年(1590)、豊臣政権による北条氏滅亡に伴う家康の関東移封がなされました。徳川領国と接する駿府城には豊臣系大名の中村一氏が入封しました。関が原の戦いで勝利した家康は、戦国乱世から天下統一させました。
 家康は若干27歳の三男の徳川秀忠に将軍職を譲り、大御所となって江戸から駿府城に移り住みました。駿府城は大修築され、ほぼ現在の形である3重の堀を持つ輪郭式平城が成立しました。天守台は、石垣天端で約55m×48mという城郭史上最大の天守台だったそうです。
 しかし、慶長12年(1607)城内からの失火により、完成直後の天守や本丸御殿などが焼失しました。再建されたものの、天守曲輪は、7階の天守が中央に建つ大型天守台の外周を隅櫓・多聞櫓などが囲む特異な構造となりました。
 元和2年(1616)、駿府城で家康が没するまでの大御所政治時代、駿府は江戸と並ぶ政治・経済の中心地として大いに繁栄しました。2代将軍秀忠は家康の遺言により、久能山東照宮を造営し、家康の遺骸を葬りました。
 家康が在城中の慶長14年(1609) 家康の第10子・徳川頼宣が駿府城主になっていましたが、元和5年(1619) 頼宣は和歌山に移封して、紀伊徳川家初代藩主になりました。
 寛永元年(1624) 徳川秀忠の第2子・徳川忠長が駿府城主となりましたが、寛永8年(1631) 乱心との理由で、兄である徳川家光に改易と甲府幽閉を命じられ、寛永9年(1632)忠長は高崎城で自刃させられてしまいました。
 忠長以後、駿府城に城主は置かれず、城代が任命されました。寛永12年(1635)城下の火災が城に延焼し、大半を焼失してしまいました。
 慶応4年 (1868年) 江戸城開城に伴い徳川慶喜は退隠。養嗣子の田安亀之助 (徳川家達) が駿府藩主となり駿府城に入りましたが、数年後、廃藩置県により、建造物は民間に払い下げられました。明治29年(1896) 歩兵第34連隊の基地になり、本丸堀(内堀)は埋められ、城郭施設は凡て取り壊されました。



静岡浅間神社
しずおかせんげんじんじ
静岡県静岡市葵区宮ヶ崎町102ー1
Tel 054-245-1820
 賎機山(しずはたやま)の麓にある静岡浅間神社は神部神社、浅間神社、大歳御祖神社の総称です。通称おせんげんさまと呼ばれ、3社はいずれも独立の神社として祭祀を執り行っています。
 3社は鎮座以来独立の神社として扱われ、江戸時代まではそれぞれ別の社家が奉仕してきました。明治21年(1888)、3社別々に国幣小社に昇格しました。境内には麓山神社・八千戈神社・少彦名神社・玉鉾神社があります。
 また、神部神社と浅間神社共通の本殿、2棟の中門、3棟の透塀、大拝殿、舞殿、楼門、2棟の回廊、総門、神厩舎、宝蔵などが建立されていて、他の各々の神社の本殿、中門、透塀などほとんどが国の重要文化財に指定され、東海の日光といわれています。
 静岡浅間神社は浅間神社が富士宮の浅間神社を勧請した新宮でしたが、平安時代の末頃には3社を合わせて惣社といわれたそうです。鎮座以来、朝廷をはじめ、鎌倉将軍家、今川、武田、織田、豊臣、徳川など各氏から庇護、寄進、社領の安堵がなされてきました。
 徳川家康は、弘治元年(1555)、14歳の時、ここで元服式を行いました。賤機山に築かれていた武田氏の城塞を攻略するため、勝利の際は壮麗な社殿を再建するとの誓いを立てた上で社殿を焼き払いました。そして、天正10年(1582)現在と同じ規模の社殿を建造しました。
 現在の社殿は江戸時代後期を代表する漆塗極彩色が施された壮麗なものです。文化元年(1804)より60年の歳月と約10万両の巨費を投じて建造されたもので、26棟が国の重要文化財に指定されています。繊細な花鳥霊獣は信州諏訪の立川和四郎富昌ほか門弟達によって彫られたものです。
 駿府藩主・徳川秀忠の第2子・徳川忠長は、この賤機山で猿狩りを行いました。この神社の神の使いである猿を狩ったことで、兄である将軍・徳川家光の逆鱗に触れました。寛永8年(1631) 乱心との理由で、改易と甲府幽閉を命じられ、翌年、高崎城で自刃させられてしまいました。


神部神社
 神部神社(かんべじんじゃ)は、駿河国開拓の祖神大己貴命(おおなむちのみこと)を祀っています。他にも瓊々杵命、栲幡千々姫命、東照宮を祀っています。国府が定められてからは国司崇敬の神社となり、平安時代より駿河国の総社とされています。
 第10代崇神天皇代(約2100年前)の鎮座とも伝えられ登呂遺跡の時代からこの地方ではもっとも古い神社であり延喜式内社です。少彦名神社の祭神とともに、この国土の経営にあたられました。その神徳により、延命長寿・縁結び・除災招福の神として信仰されています。


浅間神社
 浅間神社は、木之花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)を祀っています。延喜元年(901)、醍醐天皇の勅願により富士山本宮浅間大社より総社神部神社の隣に勧請され、以来冨士新宮として崇敬されてきました。
 木之花咲耶姫命は女神で、木の花が舞うように美しい女性として、古事記にも登場しています。火の神または山を鎮める水徳の神として、富士山に鎮座して、広く東日本一帯を守護しており、家庭円満・安産・火難消除などの神として崇められています。


神部神社・浅間神社
 神部神社と浅間神社の総門です。桁行12.4m、梁間10.9m、2階建てで切妻造り、鉄板葺きです。文化14年((1817)に建てられた門で、国の重要文化財に指定されています。
総門
 楼門は桁行3間、梁間3間、入母屋造りです。文化12年(1815)に起工され翌年、竣工されています。総漆塗りで彫物には「水飲み龍」「虎の子渡し」などがあります。2層部分に「當國總社・冨士新宮」の扁額が揚げられています。楼門・回廊ともに国の重要文化財に指定されています。
楼門
 楼門上にある龍の彫刻は、左甚五郎作と伝えられるものです。安永2年(1773)の安永の火災の時、池に下りて水を吐いて御殿にかけたといわれています。「水飲み龍」と呼ばれ、伝説は浅間神社の七不思議に数えられています。
水飲み龍
 大拝殿前に建つ舞殿 (ぶでん)は文化14年(1817)に起工され文政3年(1820)に竣工されました。桁行16m、梁間16m、切妻造り、妻入の建物です。静岡浅間神社の社殿の中で唯一の素木造りです。信州諏訪の立川流の彫刻も素木で彫られています。舞殿も国の重要文化財に指定されています。
舞殿 (ぶでん)
 風姿花伝によれば能楽の始祖観阿弥は、今川氏の氏神である静岡浅間神社に能を奉納し、この地で亡くなったそうです。舞殿は観阿弥終焉の舞台としても知られ、境内には26世宗家観世清和氏による顕彰碑が建てられています。
舞殿 (ぶでん)
 大拝殿は神部神社と浅間神社の楼閣造の拝殿です。浅間造りの代表的なもので、文化2年(1805)に起工され、文化11年(1814)に竣工されています。高さは25mあり、木造神社建築としては、出雲大社本殿(約24メートル)より高く、まさに日本一の威容を誇っています。
大拝殿
 内部は132畳敷の広さがあります。天井は十間の合天井となっています。その各間に狩野栄信・狩野寛信の「八方睨みの龍」「迦陵頻伽」「天人」などの天井絵が描かれています。大拝殿は国の重要文化財に指定されています。
大拝殿
 大拝殿の背後には本殿が建てられています。向かって左に浅間神社の中門、右に神部神社の中門があり、その奥が本殿です。本殿・中門は文化10年(1813)に建立されました。本殿は比翼三間社流造り、本瓦形銅板葺きです。2棟の中門は桁行1間、梁間1間、向唐門、本瓦形銅板葺きです。本殿、中門とも国の重要文化財に指定されています。
本殿・中門
 神厩舎(しんきゅうしゃ)です。神厩とは馬屋のことで、神に仕える馬を飼う建物のことです。馬は神の使いとされ、日光東照宮や伊勢神宮などでは本物の馬を飼っています万延2年(1861)に建てられた住吉造り、檜皮葺きの厩舎で、国の重要文化財に指定されています。
神厩舎
  神部神社と浅間神社の宝蔵です。嘉永7年(1854)に建てられた宝蔵は桁行3間、梁間2間、袴腰付、入母屋造り、本瓦葺きです。平成11年2月に神廐舎とともに国の重要文化財に指定されました。
宝蔵
 神部神社と浅間神社の回廊は国の重要文化財に指定されています。南回廊と北回廊があり、文化10年(1813)に完成しています。
回廊
 神部神社と浅間神社の透塀(すきべい)は国の重要文化財に指定されています。南透塀、中透塀、北透塀があります。文化10年(1813)に完成しています。透塀は社殿周囲を囲む塀のことで、中ほどを連子(れんじ)・透かし彫りなどにして、内部が透けて見えるようにしています。
透塀


玉鉾神社
 玉鉾神社(たまほこじんじゃ)は、明治9年(1876)官許を得て創祀された神社です。社殿は伊勢神宮の御古材で昭和51年(1976)に再建された祠です。国学の四大人といわれる羽倉東麿・岡部真淵・本居宣長・平田篤胤の四柱を祀っていて、受験、学問の神と仰がれているそうです。
玉鉾神社


大歳御祖神社
 大歳御祖神社(おおとしみおやじんじゃ)は、応神天皇の時代(270-310)の創建されたと伝えられています。古くは奈古屋神社といわれたそうです。祭神の大歳御祖命( おおとしみおやのみこと)は大年神(おおとし)の母神という意味で、本名は神大市比売命(かむおおいちひめ)といいます。浅間通りに面して建つ赤鳥居をくぐると、大歳御租神社の神門があります。。
大歳御祖神社神門
 奈良時代には今の呉服町から七間町にかけて安倍の市(古代の市場)が開かれていました。大歳御祖神社は守護神として安倍の市の中にあったそうです。市の衰退とともにこの地に遷座されたと思われます。
大歳御祖神社拝殿
 大歳御祖神社は神門、拝殿、唐門、本殿と続いています。本殿は文政4年(1821)に起工され、天保7年(1836)に完成しています。三間社流造りで神部神社・浅間神社の本殿に比べると簡素なたたずまいです。組物・彫刻には極彩色を施しています。
大歳御祖神社拝殿
 大歳御祖神社には、天保7年(1836)竣工の拝殿と天保8年(1837)竣工の楼門がありましたが、第2次世界大戦により焼失しました。鉄筋コンクリート造りの拝殿と神門が再建されています。本殿、中門、透塀が国の重要文化財に指定されています。
大歳御祖神社拝殿


麓山神社
 麓山神社(はやまじんじゃ)は昔は賤機山の上に鎮座し、「山宮」といわれました。主神は浅間神社の木之花咲耶姫命の父である大山祇命を主神とし、日本武尊を配祀しています。そして宮元8ヶ町の氏神でもあります。
麓山神社拝殿
 浅間神社の別宮とされ、従来4本社の1つに列し独立の神社でした。明治12年(1879)郷社に列し、境内社となりました。社殿は本殿・拝殿・唐門・透塀を備え、神部神社、浅間神社、大歳御祖神社と同規模の壮麗な建築です。細部に立川流の彫刻を置き、漆塗り極彩色を施しています。
麓山神社拝殿・本殿

 麓山神社の拝殿は文政7年(1824)に建てられました。桁行11間、梁間2間、一重、東面入母屋造り、西面切妻造り、本瓦葺きの建物です。国の重要文化財に指定されています。
麓山神社拝殿
 麓山神社の中門は文政5年(1822)に建てられています。桁行5間、梁間2間、一重、西面は入母屋造り、東面は切妻造り、本瓦葺きの建物です。国の重要文化財に指定されています。
麓山神社中門
 麓山神社の透塀(すきべい)は社殿周囲を囲む塀のことで、文政5年(1822)に建てられました。中ほどを連子(れんじ)・透かし彫りなどにして、内部が透けて見えるようにしています。石造桁橋及び石造高舞台、木造高欄付の透塀は国の重要文化財に指定されています。
麓山神社透塀
 麓山神社の本殿は文政5年(1822)に建てられました。黒を基調とした上に繊細な花鳥霊獣が彫られています。本殿は四脚門、切妻造り、本瓦葺きの建物で国の重要文化財に指定されています。
麓山神社本殿


八千戈神社
 八千戈神社(やちほこじんじゃ)は、八千戈命(大国主命)を祀り、相殿に明治6年(1873)以降合祭された18社13柱の神々(浅間神社末社9社・大歳社末社3社・麓山神社末社3社・旧安倍郡城内鎮座稲荷神社・旧安倍郡明屋敷村鎮座国分天神、騎射御霊)を祀っています。
八千戈神社
 八千戈神社は明治の神仏分離以前は摩利支天社というお寺でした。徳川家康の念持仏であった摩利支天像を安置するために造営されました。徳川家をはじめ幕府が殊に崇敬を尽くし、社殿も本社に次いで造営され壮麗です。摩利支天は今川家菩提寺の臨済寺に移されています。
八千戈神社

 八千戈神社の中門は天保9年(1838)に建てられた四脚門で、切妻造り、本瓦葺きです。中門は国の重要文化財に指定されています。
八千戈神社中門
 八千戈神社の透塀は中門をはさんで南透塀と北透塀が建てられています。連子(れんじ)・透かし彫りなどにして、内部が透けて見える造りです。天保9年(1838)に完成しています。八千戈神社透塀は国の重要文化財に指定されています。
八千戈神社透塀
 天保9年(1838)に建立された八千戈神社の本殿は、国の重要文化財に指定されています。五間社流造りの入母屋造り、銅瓦葺きで、朱塗極彩色を施してあります。造営は本社に次いで行われ、本殿中、両社本殿に次ぐ大きさです。蟇股には二十四孝を題材とした彫刻が付けられ、立川流の円熟した技を見ることが出来ます。
八千戈神社本殿


少彦名神社
 少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)は、少彦名命を主神とし、神部神社末社14社の神々を相殿に祀っています。明治の神仏分離以前は神宮寺薬師社といい、薬師如来・十二神将を安置していました。それらは臨済寺に遷され少彦名神社となっています。医薬の神として薬業関係者や病気平癒を祈る人々の参詣が絶えないそうです。
少彦名神社
 少彦名神社本殿は嘉永3年(1850)に建てられました。 桁行3間、梁間2間、校倉、入母屋造り、銅瓦葺きです。極彩色を施し、蟇股には立川流干支彫刻がつけられていて、十二支の彫刻が有名です。本殿は国の重要文化財に指定されています。
少彦名神社本殿



臨済寺
りんざいじ
静岡県静岡市葵区大岩町7−1
Tel 054-245-2740
 大龍山臨済寺は臨済宗妙心寺派のお寺で、妙心寺派の専門道場です。駿河の戦国大名・今川氏の菩提寺でもあり、徳川家康が今川家の人質となっていた幼少の頃、学問を学んだことで知られるお寺です。
 臨済寺の前身である善得院は、今川氏親が出家した子・栴岳承芳(後の今川義元)のために、母・北川殿(今川義忠・室、伊勢宗瑞・姉)の別邸跡に享禄年間(1528-1531)に建立したお寺です。
 天文5年(1536)、義元の兄である今川氏輝が24歳の若さで急逝しました。今川氏の家督をめぐって「花倉の乱」が起こり、弟の玄広恵探を退けて世俗した今川義元が跡を継ぎました。同年、氏輝を善得院に葬むり、法名の臨済寺殿用山玄公の文字をとって「臨済寺」と改めました。
 この時に、京都妙心寺の大休宗休(だいきゅうそうきゅう)を招いて開山し、弟子の太源崇孚(たいげんすうふ)雪斎(せっさい)が2世となって住持しました。この時今川氏4代の寺々は臨済寺に統合されました。そのため氏輝・義元らの墓所があるとともに、歴代今川当主の位牌が安置されています。
 永禄11年(1568)、今川・北条との甲相駿三国同盟を破棄した武田信玄は駿河に侵攻しました。駿府城下に火が懸けられ、臨済寺も灰燼に帰しました。
 天正10年(1582)の武田氏滅亡後に駿河を領有した徳川家康が正親町天皇の勅命によって復興・整備を進め、現在の本堂などを再建し、盛時の姿を取り戻しました。
 雪斎は、臨済寺を駿河の勅願寺に昇格させ、「歴代序略」臨済寺雪斎書院刊を出版し、臨済宗を広げ、寺勢は大いに興隆しました。さらに雪斎は、住職でありながら、戦国大名の今川氏の軍師として、義元の下で政治・軍事・外交に秀でた手腕を発揮して義元を補佐しました。
 徳川家康は駿府での今川氏の人質時代、この臨済寺の「お手習いの間」で幼年時代を過ごし、雪斎から多くのことを学んだのです。臨済寺は明治の神仏分離で静岡浅間神社の摩利支天社にあった摩利支天像を譲り受け安置しています。この像は徳川家康の念持仏でした。

 臨済寺の山門には神仏分離により浅間神社から移された仁王像が安置されています。江戸時代にはこの場所には中門として四脚門がありましたが、安政の大地震で被害を受けました。仁王像を納めるにふさわしい山門をと、明治時代に建立されました。「大龍山」の額は、徳川慶喜の揮毫によるものです。
臨済寺山門
 臨済寺の本堂(大方丈)は桁行11間、梁間8間半南西隅に唐破風の玄関がある建物で国の重要文化財に指定されています。江戸時代前期の建立で、入母屋造り、こけら葺きで、方丈形式の平面をもつ本堂です。駿河の勅願寺であったことを示す「勅東海最初禅林」の額が掲げられています。本堂裏の庭園は国の名勝に指定されています。
臨済寺本堂



吐月峰柴屋寺
とげっぽうさいおくじ
静岡県静岡市駿河区丸子3316
Tel 054-259-3686
 静岡市内、東海道五十三次「丸子の宿」のはずれに名刹吐月峯柴屋寺があります。今川氏に仕えた連歌師宗長が永正元年(1504))に草庵「喜見庵(きみあん)」を結んだところです。、
 竹林と緑に囲まれた閑静風雅な庭園は、月見石を中心にして名月が見られることから吐月峰と名付けられました。 京都の銀閣寺の庭を模して連歌師宗長の手によって造られました。 東海の名園として知られ、古くから月の名所、竹の寺として知られています。
 「下職の者の子ながら、十八にて法師になる」、宗長は寛正6年(1465)に出家しました。後に今川義忠に仕え、義忠が亡くなると上洛して、大徳寺の一休や宗祇に師事して連歌を学びました。明応5年(1496)、駿河に戻り今川氏親に仕えました。
 文亀2年(1502)、宗祇が箱根湯本で倒れたときその最期を看取り、連歌界の指導者となりました。また宗長は、文芸面だけではなく、今川氏親の命で甲斐の武田信虎との講和を成立させるなど外交面でも才能を見せました。
 有力な武将や公家との交際が広く三条西実隆や細川高国、大内義興、上杉房能とも交流を持ちました。「武士(もののふ)のやばせの舟は早くとも急がば廻れ瀬田の長橋」という宗長の歌からことわざ「急がば回れ」が生まれています。



蓬莱橋
ほうらいばし
静岡県島田市南
Tel 0547-37-1241 島田駅前観光案内所
 蓬莱橋は島田宿の南東、大井川に架かる木造橋です。明治12年(1879)に作られたもので、全長897.4m、幅2.4mの橋で、「世界一長い木造歩道橋」としてギネスブックに認定されています。
 現在の橋は2代目で昭和40年(1965)に架けられたものです。この時に橋脚がコンクリートパイル化されています。平成12年(2000)9月、平成15年(2003)8月、平成19年(2007)7月に台風によって被害を受けましたが復旧されています。
 明治維新によって川越制度がなくなり、島田金谷両宿の川越人足が失職しました。この当時、徳川将軍慶喜は駿府で謹慎していて、家臣の多くが町にあふれいました。勝海舟、山岡鉄舟の計らいで、大井川西の台地・牧の原の開拓を行い、茶の栽培を始めました。
 川越人足達も牧の原一角の谷口原へ入植し開墾したのです。大井川を越して、開拓地へ行くのは大変なことでした。嘆願の末、明治12年(1879)に架橋することができたのです。牧之原台地の開拓農民から出資させたため、関係者以外からは現在も通行料金を取っています。



智満寺
ちまんじ
静岡県島田市千葉254
Tel 0547-35-6819
 千葉山智満寺は、宝亀2年(771)開創といわれる天台宗の古刹です。鑑真の法孫にあたる広智という高僧が開山したといわれています。光仁天皇より智満寺の勅額を得て勅願寺となりました。
 平安時代中期以降は、修験道の霊場である山岳寺院として栄えたようです。源頼朝が源氏再興を祈願して果たし、千葉介常胤に命じて、伽藍を造営させたといわれています。
 出世と開運の観音として有名で、今川氏や徳川氏などの名門武将に手厚く信仰されました。徳川家康は天正17年(1589)現在の本堂の再建に着手し、翌年に完成させています。
 急な階段を上ると茅葺きの仁王門があります。慶長年間(1596-1614)に家康によって建立されています。左右に木造金剛力士像が安置されています。さらに33段の階段を上ると中門があります。
 仁王門とともに県の文化財に指定されている中門は茅葺きで延文年間(1356-1360)に今川範氏が銭千貫を寄進して建立したものです。
 中門の奥には本堂があります。本堂の南西には県の文化財の薬師堂が建てられています。家康が本堂を改築の時に建立させたものです。
 智満寺の本堂は桃山文化の影響を受けたとされる壮大な茅葺き屋根の建物で、国の重要文化財に指定されています。木造入母屋造り流向排付で、杉材を用いた木割りは太く、内部は中間で格子により内陣と外陣に仕切られています。
智満寺本堂
 本堂の内陣正面に安置されている「本尊千手観音厨子」は入母屋三方造本瓦葺様、三手先斗拱、二重軒です。蛙股などは桃山時代の様式も用いています。外面は金箔を用いずに極彩色を施し、左右の両羽目は全体に薬草を浮き彫りにしてあります。厨子は棟札とともに本堂付属の国の重要文化財に指定されています。
智満寺本堂



応声教院
おおしょうきょういん
静岡県菊川市中内田915
Tel 0537-35-2633
 松風霊山応声教院(おおしょうきょういん)は、浄土宗のお寺で阿弥陀如来を本尊としています。斉衡2年(855)、比叡山の名僧茲覚大師により、文徳天皇の勅願所とする天台宗天岳院として創建されました。
 嘉応元年(1169)、比叡山功徳院に住み、その弟子3000人といわれた高僧・皇円阿闍梨が弥勒菩薩の出現を願って、遠江桜ヶ池(浜岡町)の竜神になったと伝えられています。その弟子で浄土宗を開宗した法念上人が桜ケ池を訪れた帰途に天岳院に入りました。
 承安5年(1175)、法念は歯吹如来像を安置し、浄土宗に改宗させ、応声教院と改名しました。このようないきさつから皇円阿闍梨菩薩所、桜ヶ池奥ノ院と呼ばれ、阿闍梨の杖や笠、うろこ、阿闍梨伝説の縁起書が寺宝として伝わっています。
 一歩境内に入ると、異様な雰囲気になります。境内のいたるところに変わった石仏や置物が置かれています。高さ6.2mの大地蔵、ワンカップを持ったのんべえ地蔵、蛙の像、妙な河童、韓国のチャンスン、日本一の大きさと思われる水子地蔵やおびただしい水子地蔵群などなどです。

 応声教院の山門は石段を上がった入口にそびえ立つ朱塗りの門です。間口7.80m、奥行3.60m、切妻造りの8脚門は、昭和29年(1954)に国の重要文化財に指定された建物です。
応声教院山門
 この山門は寛永3年(1628)2代将軍・徳川秀忠が亡くなった母の供養にするため静岡市の名刹「宝台院」に築造された大門でした。大正4年(1915)に応声教院がゆずり受け、大正7年(1918)この応声教院に移築されました。安土桃山時代のやさしい上品な味わいがあり、東海第一の山門と呼ばれています。
応声教院山門



黒田家代官屋敷
くろだけだいかんやしき
静岡県菊川市下平川862−1
Tel 0537-73-7270
 黒田家代官屋敷は、遠江国城東郡嶺田にあった代官屋敷です。昭和48年(1973)に、主屋と長屋門が「黒田家住宅」として重要文化財に指定されました。平成5年(1993)には米蔵、東蔵及び宅地(濠を含む)が重要文化財に追加指定され、屋敷構え全体が保存されることになりました。
 黒田家は代々武家で永禄年間(1558-1569)この地に移り江戸時代には4千石の旗本、本多日向守の代官でした。屋敷は正面に大規模な長屋門を構えています。周囲には堀をめぐらして城郭の面影を残し、広さは1ヘクタールあります。
 現在の主屋は、安政の大地震(1854)後の文久年間(1861-1863)に建てられたと考えられています。寄棟造り、桟瓦葺きで柱梁や指物など太い木割りで造られています。代官の住宅にふさわしく良質で丁寧な仕上げで、江戸末期の代官屋敷の様式を伝えています。平成9年(1997)に解体修理され元の姿に復元されています。
 長屋門は主屋よりもさらに古い、18世紀中頃の建築と思われます。置千木を11本も置く寄棟造りで、桁行き68尺(21m)の大規模な門です。茅葺き屋根は2千石の格式がある様相を呈しています。昭和51年(1976)解体修理され元の姿に復元されています。

 長屋門前の菊川市代官屋敷資料館では、黒田家ゆかりの矢屏風・月琴・蒔絵重箱・金蒔絵文箱などの蔵品を展示しています。
菊川市代官屋敷資料館



掛川城
かけがわじょう
静岡県掛川市掛川1138−24
Tel 0537-22-1146 掛川城管理事務所
 掛川城は標高65mの天王山頂に文明年間(1469-1486)駿河守護職今川義忠(よしただ)が遠江支配の拠点として、重臣朝比奈備中守泰熙(やすひろ)に命じて根城を築かせたのがはじまりです。
 そして朝比奈氏は3代に渡って城代を務めました。泰熙の孫・泰朝(やすとも)の代に、南西 約500mの地点に位置する竜頭山に掛川城を築き、永正10年(1513)、そこに移りました。
 永禄11年(1568)、武田信玄に駿河を追われた今川氏真は掛川城に逃げ込みました。そして今度は徳川家康に城を包囲されることになりました。しかし難攻不落な掛川城は5ヶ月間落ちませんでした。家康は密約をもって講和せざるをえませんでした。
 泰朝は氏真の身の安全を家康に認めさせ、永禄12年(1569)小田原城へ退去し、掛川城には家康の重臣・石川家成・康通親子が入りました。駿河国に入った武田信玄は家康と対峙し、掛川城に近い場所で激しい攻防戦になりましたが掛川城は武田氏滅亡まで徳川氏が領有し続けました。
 天正18年(1590)、家康が東海から関東に移封されると、掛川城には豊臣秀吉の直臣であった山内一豊が5万1千石で入りました。一豊は掛川城の大規模な城郭拡張を行ないました。天守閣、大手門の建設と共に城下町の整備により、東海の名城と呼ばれました。
 その後、一豊は高知城に移封し、松平、青山、北条、井伊、小笠原、太田氏が治めました。幕末の安政元年(1854)末に、安政東海地震が襲い、掛川城は大半の建物が倒壊しました。二ノ丸御殿は文久元年(1861)までに再建されましたが、天守は再建されませんでした。
 平成6年(1994)市民や地元企業などから10億円の募金を集めて、戦後初となる木造による天守を再建しました。城内では鎧兜や装身具などを展示され、最上階の天守台からは周囲が一望できます。



可睡齋
かすいさい
静岡県袋井市久能2915−1
Tel 0538-42-2121
 萬松山(ばんしょうざん)可睡齋(かすいさい)は曹洞宗のお寺で、遠州三山の1つです。江戸時代には「東海大僧録」として三河国・遠江国・駿河国・伊豆国の曹洞宗寺院を支配下に収め、関三刹と同等の権威を持ちました。
 室町時代初期の応永8年(1401)、曹洞宗の開祖・道元の法孫、恕仲天ァ(にょちゅうてんぎん)禅師が東陽軒を開山しました。久能城主久能宗隆と、掛川藩主井伊直勝・直好が開基で名を連ねています。
 11世の仙麟等膳(せんりんとうぜん)は幼い家康を戦乱から救ったことがあり、後に浜松城主となった家康から報恩のために城に招かれました。その席上、家康の前で居眠りを始めたのです。その姿を見た家康は、和尚の安らかな親愛の心を悟り、和尚に「睡(ねむ)る可(べ)し」(睡っても無礼ではない)と言い「可睡和尚」といわれ、寺号も東洋軒から可睡斎と改めたそうです。駿河・遠江・伊豆・三河4ヶ国の僧録司(そうろくじ)となりました。
 可睡齋は福井の大本山永平寺と横浜の大本山總持寺を両大本山とし、總持寺の直末寺院です。聖観世音菩薩を本尊とし、仏祖単伝の正法に遵い只菅打坐(しかんたざ)、即心是仏(そくしんぜぶつ)を承当とする事を宗旨としています。
 只菅打坐とは静寂と研ぎ澄まされた緊張のなかで、坐禅に身を任せ、本当の自分にめぐりあう(邂逅)ことです。可睡齋には只菅打坐のための参禅修行の場があり希望に応じてもらえます。
 明治 6年(1873)に廃仏毀釈により秋葉山秋葉寺(あきばさんしゅうようじ)が廃寺となり取り壊される事になると、本尊の秋葉三尺坊が可睡斎に遷座されました。明治19年(1886)、有栖川宮幟仁(たるひと)親王により「秋葉総本殿」の勅額と菊の紋を賜り、秋葉総本殿可睡斎(あきばそうほんでんかすいさい)と称するようになりました。火防霊場となり、全国の火防守護の総本山になりました。
 10万坪という広い境内に本堂、書院、方丈、梵鐘、座禅堂、大黒堂、護国塔、御真殿、奥の院、弁天堂、放生池、出世六の字穴などがあります。花の寺としても有名で、春は牡丹、夏はサギ草、秋は菊と紅葉が堪能できます。

 本堂には可睡齋の本尊の聖観世音菩薩を正面の須弥壇に祀っています。
本堂
 御真殿は秋葉三尺坊大権現の御真体を祀っています。秋葉三尺坊大権現は、今から1300年前、越後蔵王権現堂の12坊の1つである三尺坊という僧坊で厳しい修行を重ねました。秘密奥義を極めて神通力を得、飛行自在の法力を得たそうです。衆生済度のため、失火延焼の難を逃すことを第一に、3大誓願をおこし火防の霊場を開いたそうです。
御真殿
 明治のはじめ、勝坂不動を可睡齋の奥の院へ遷座しました。不動明王は、大日如来が一切の悪魔を降伏せんがための使者となり、真言行者を守護するものといわれています。密教の五大明王の中尊像で、その功徳力は怨敵退散・災難即滅です。平成18年(2006)放火により奥の院は焼失し、現在は再建されています。
奥の院
 出世六の字穴と呼ばれる洞窟があります。家康は武田勢に追われて、このほら穴に隠れて命拾いしたそうです。天下人となった家康が出世の故事になぞらえて名付けたといわれています。六の字とは正観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、準胝観音、如意輪観音からきています。
出世六の字穴
 境内には掛川藩主 ・ 井伊直勝の墓があります。新しく掛川藩主になった井伊直好は、父・直勝が寛文22年(1662)7月に掛川城内で病死すると、父をこの可睡斎に葬りました。可睡斎は、直勝・直好親子を寺領寄進の功績があったということで、開基としています。
井伊直勝の墓



油山寺
ゆさんじ
静岡県袋井市村松1番地
Tel 0538-42-3633
 医王山薬王院油山寺(ゆさんじ)は、「油山(あぶらやま)」と呼ばれる真言宗智山派のお寺です。法多山尊永寺 (真言宗)、萬松山可睡斎 (曹洞宗)とともに、遠州三山の1つに数えられています。広い境内は紅葉の名所としても知られています。
油山寺入口
 大宝元年(701)頃に、行基が万民の無病息災など願い、一刀三礼薬師如来像を彫って奉安したことに始まると伝えられています。寺号の油山とは油が湧出したことに由来するそうです。
油山寺天狗杉
 天平勝宝元年(749)、孝謙天皇が眼病平癒を祈願して、この寺にある「るりの滝」で洗顔したところ全快し、勅願寺になりました。それ以来、今日まで諸病全快、特に目の守護、眼病平癒のお寺として、「目の霊山」の名で深く信仰されています。
油山寺厄除観音
 油山寺は朝廷や源頼朝、今川義元から庇護され、堂塔の寄進なども受けています。その後徳川家康、吉宗や遠州横須賀城主西尾隠岐守、掛川城主大田備中守らからも寄進などを受け繁栄しました。
油山寺鐘楼

 油山寺の山門は明治6年(1873)、かつての掛川藩主の太田備中守が眼病全快のお礼として寄進した掛川城の大手門です。 城郭造り、前後庇付入母屋造り、重層本瓦葺き、桁行9.3m、梁間4.6m、2階25畳、漆喰白壁です。角総欅材を使い、正面の大扉は楠の一枚板を使用しています。
油山寺山門
 この門は万治2年(1659)、掛川藩主の井伊直好が掛川城の大手二之門として建てられたものです。昭和45年(1970)大修理に着手し、翌年建立当初の姿に復元されています。二層片潜付城門は全国的にも珍しく、静岡県唯一の城郭文化財です。掛川城の遺構として、大変重要なもので、国の重要文化財に指定されています。
油山寺山門

 油山寺の方丈は静岡県指定有形文化財に指定されています。宝暦14年(1764)、遠州浅羽代官所より代官の仁科宇兵衛によって移築された建物です。
油山寺方丈

 天平勝宝元年(749)、行基菩薩が薬師如来に祈りを捧げ、「るりの滝」の水を汲み、孝謙天皇に献じたところ、天皇の眼病が治癒したといわれています。その頃はこの滝の水は油だったそうです。「るりの滝」にうたれて眼病に悩む多くの人々が全快したそうです。
油山寺・るりの滝

 油山寺の三重塔は、銅板葺き、1、2層は和様、3層は唐様で、屋根の反りや枡組が美しい塔です。建久元年(1190)源頼朝が眼病全快のお礼に建立したものです。その後、武田・今川の兵火にあい焼失しました。天正2年(1574)再建に着手、久野城主久野丹波守宗成の援助により、慶長16年(1611)に36年間を要して完成しました。
油山寺三重塔
 塔の高さは18.25m、相輪を含めた高さは23.88m。相輪は水煙でなく宝瓶の形をした珍しいもので、桃山期の姿を今に伝えています。滋賀県の長命寺、京都府の宝積寺の三重塔とともに桃山の三名塔の一つに数えられています。静岡県最古の塔で国の重要文化財に指定されています。
油山寺三重塔

 県指定有形文化財の本堂は元文3年(1738)、徳川吉宗の寄進により再建された堂宇です。以前の建物は源頼朝が寄進していました。本堂の中にある厨子は今川義元の寄進したもので、国の重要文化財に指定されています。
油山寺本堂
 本堂内陣の厨子に行基御作の薬師如来像が秘仏として安置されています。その左側に油山寺の守護神である軍善坊大権現が祀られています。足腰の病に霊験あらたかなことから、足の神様として崇拝され、目の神様と合わせ、全国から参拝者が訪れています。
油山寺本堂



法多山尊永寺
はったさんそんえいじ
静岡県袋井市豊沢2777
Tel 0538-43-3601
 法多山尊永寺は、高野山真言宗の別格本山です。寺号の「尊永寺」よりも山号の「法多山」「はったさん」と呼ばれ多くの人に親しまれています。医王山油山寺、萬松山可睡斎とともに、遠州三山の1つに数えられています。
法多山本坊
 法多山尊永寺は、明治9年(1876)、旧学頭正法院が寺号を許されました。古くは法多山法多寺と呼ばれていました。本尊聖観音菩薩は、俗に厄除観音として人々の信仰を集めてきています。正月の初詣では県内で1、2位を競う人出で賑わいます。
塔頭諸尊堂
 神亀2年(725)聖武天皇の勅命により行基上人が、この地に正観世音菩薩を安置したのが始まりと伝えられています。平安時代末期に全盛を極め、1山12坊の寺院集団を「法多山」と総称して「遠州の高野山」といわれたそうです。
太子堂
 白河法皇、後白河法皇の勅願寺で高野山釈迦文院の末寺として、地方の荘園領主から寄進された寺領11ヶ所、14町7反を持ち、経済力を蓄えていました。天正18年(1590)、豊臣秀吉は寺領として205石を安堵し、徳川時代にもこの石高は幕末まで安堵されました。
鐘楼

 寛永17年(1640)に建立された仁王門は国の重要文化財に指定されています。三間一戸(間口7.27m、奥行4.24m)の楼門(2層の門)で、入母屋造り、こけら葺きです。
尊永寺仁王門
 様式的には木鼻(きばな)を用いないなど、大変古風で江戸時代以前の室町後期から桃山時代の特徴を色濃く残しています。垂木や組物も大きく、全体としておおらかな力強い造りです。
尊永寺仁王門

 江戸時代後期の火災で伽藍は大半が焼失しました。現在の本堂は昭和58年(1983)に再建されたものです。本殿は間口3間、奥行4間の入母屋造り平入4本柱向拝付きで、正面に千鳥破風を据えています。本堂を中心に東西に翼殿を構えています。鉄骨鉄筋コンクリート造りです。
尊永寺本堂



浜松城公園
はままつじょうこうえん
静岡県浜松市中区元城町100−2
Tel 053-453-3872
 浜松城公園は、昭和25年(1950)子供博覧会の開催を契機に開設されました。現在の天守閣は、昭和33年(1958)に市民の浄財によって再建されました。昭和52年(1977)に昭和天皇在位50年記念公園として再整備され、浜松城を中心に、日本庭園や作左の森などを新たに完成させています。
 徳川家康の治世はここ浜松城から始まり、29歳から17年間在城しました。三方ヶ原、姉川、長篠、小牧、長久手など人生を左右する大事な戦をこの城とともに体験しました。天守閣には鎧や刀剣などが展示され、最上階の展望回廊からは浜松市内が一望できます。
 浜松城の前には曳馬城という今川臣下であった飯尾氏の居城がありました。遠江への勢力拡大を図る家康は、永禄11年(1568)に曳馬城を攻略します。翌年、遠江制圧すると曳馬城を改修して浜松城と命名して岡崎城からこの地に移りました。
 元亀3年(1573)、武田信玄との三方ヶ原の戦いがあり、家康は大敗を喫しました。天正10年(1582)頃、堅固な城固めのため拡張、改修を終えた後、天正14年(1586)、浜松から駿府に本拠を移しました。翌年、豊臣秀吉の命により関東へ移封となりました。
 浜松城はその後、秀吉の家臣である堀尾吉晴が入封、家康が天下を取ったのちは、松平(大給、本庄、大河内)、水野、高力、太田、青山氏が在城し、井上氏になって明治を迎えました。水野越前守忠邦のように、浜松城主から老中などの幕閣の要職に就くものが多く、出世城と呼ばれました。
 城郭は、南北約500m、東西約450mの縄張を持ち、三方が原台の斜面に沿い、西北にあたる最高所に天守曲輪、その東に本丸、二の丸を配し、さらに東南に三の丸とほぼ一線に並び、梯郭(ていかく)式と呼ばれるものです。

 浜松城の石垣は、自然石を上下に組み合わせて積み上げる野面積みです。表面に隙間があり、一見崩れやすく見えますが、奥が深く内側に小石や砂利を詰めてあるため、水はけも良く堅固です。現存する野面積みの石垣で有名なのは、彦根城・竹田城・安土城などです。
野面積み石垣
 直径1.3m、深さは現在1mほどの銀明水と呼ばれていた井戸があります。 浜松城には、天守台に一つ、天守曲輪の埋門のそばに一つ、本丸に一つ、二の丸に三つ、作左曲輪に四つ、計十本の井戸があったそうです。天守台の井戸は、再建の時に残し、今は天守閣の地下室にあります。
井戸銀明水
 家康お手植えのみかんの木が、本丸天守閣近くにあります。家康が駿府城に隠居されたおり、紀州より献上の鉢植えのみかんを「紅葉山庭園」に自ら移植したものと伝えられています。その木から接ぎ木したものを静岡市よりご寄贈されたものです。鎌倉時代に中国から入ったみかん(紀州みかん又はこみかん)の一種で、香りが強く、種のある小型の実を結ぶのが特徴です。
家康お手植えのみかん



龍潭寺
りょうたんじ
静岡県浜松市北区引佐町井伊谷1989
Tel 053-542-0480
 萬松山龍潭寺(りょうたんじ)は、臨済宗妙心寺派のお寺で、虚空蔵菩薩を本尊として祀っています。天平5年(733)行基菩薩により開創された古刹で、当初は地蔵寺と称していました。井伊家の菩提寺です。
 寛治7年(1093)に遠江国守・井伊共保が井伊谷(いいのや)で逝去され、法号から自浄寺と改められました。井伊谷は、古くは「井の国の大王」が聖水祭祀をつとめた「井の国」の中心でした。井伊氏はその後、約500年間、戦国時代中期までこの地方を治めました。
 井伊氏は保元の乱で源義朝に、鎌倉時代には源頼朝に仕え、南北朝時代では御醍醐天皇皇子、宗良親王を迎え北朝と戦い武勲をなしています。室町時代、今川氏に仕え「桶狭間の戦い」で戦死した井伊家22代直盛の戒名をとり自浄寺から龍潭寺へ寺号を変えました。
 戦国時代、24代直政が浜松城主徳川家康に仕えました。井伊の赤鬼と呼ばれるほど活躍し、徳川四天王の筆頭となり、彦根に出世しました。井伊谷の龍潭寺は井伊家元祖からの菩提寺として残され、歴代の殿様に深く、帰依されてきました。
 龍潭寺には幕末の大老、井伊直弼の位牌も祀られているそうです。1万坪あまりの境内には江戸時代に建立された県指定文化財の本堂、開山堂、総門、庫裏、霊屋などの建物が建ち並んでいます。
 本堂裏には国指定名勝の小堀遠州作、龍潭寺庭園があります。江戸時代初期に本堂北庭として築かれた池泉鑑賞式庭園です。中央に守護石、左右に仁王石、正面に礼拝石(座禅石)が配置されています。
 池の型が心というかたちになっていて寺院庭園として代表的な庭になっています。数多くの石で 瀧・渓谷が表現されていて、鶴亀も表現されています。明るく澄んだ庭園です。
 小堀遠州は、多才な武将で、本名は小堀遠江守政一という人物です。慶長13年(1608)に普請奉行として駿河城を築城した功で遠江守に任ぜられ、華道、銘物の鑑定などにも長けた人物でした。
 二条城、大阪城、江戸城西丸などの作事奉行としても活躍し、禁裏(皇居)の造営などにも活躍したそうです。桂離宮庭園や大徳寺狐蓬庵、大池寺庭園などが有名です。茶道は古田織部に学び、三大茶人と呼ばれました。遠州流茶道の創始者となり、三代将軍家光の茶道師範も務めたそうです。



井伊谷宮
いいのやぐう
静岡県浜松市北区引佐町井伊谷1991−1
Tel 053-542-0355
 井伊谷宮は明治の初めに宗良親王を祭神として建てられた神社です。この地は古代から井伊氏が治めていた場所で、延元元年(建武3年)(1336)、井伊道政が宗良親王をこの地に迎え入れ、井伊谷は東国における南朝の拠点の1つになりました。
 宗良親王は、後醍醐天皇と藤原為子(藤原定家の曾孫二条為世の子)の子で、元徳2年(1330)、20歳の時に天台座主となりました。元弘元年(1331)、元弘の乱で讃岐国に流されますが、元弘3年(1333)、鎌倉幕府が滅亡すると、再び天台座主となります。
 その後、南北朝の動乱の中で延元2年(1336)に還俗すると、井伊谷、越後寺泊、信濃大河原など、東国各地で南朝勢力を挽回するための活動を続けました。
 そして、弘和元年(1381)に完成した新葉和歌集の編者として名前が見えるのを最後に、確実な史料からは名前が見られなくなります。 没年は不詳ですが、「南朝紹運録」には元中2年(1385)8月10日に井伊城にて死去とあります。
 社殿の背後に宗良親王の陵墓があります。また、井伊谷宮の神域に、俳人として有名な、水原秋桜子の句碑が建っています。
 水無月の落葉とどめず神います
   秋桜子



竜ヶ岩洞
りゅうがしどう
静岡県浜松市北区引佐町田畑193
Tel 053-543-0108
 竜ヶ岩洞は竜の爪痕を残す大岩があるという伝説がある竜ケ石山にある洞窟です。 竜ケ石山は南北朝時代には隠し砦や狼煙台があったとも伝えられています。浜名湖の北東約8km、標高359mのところにあります。
 竜ヶ岩洞は総延長1046mのうち、400mが観光洞として一般公開されています。洞内は一年を通して、平均18度に保たれているそうです。
 洞内には、落差30mという黄金の大滝、天井から細いつらら石が何本も垂れ下がっている龍宮、びょうぶ岩、天恵の泉、鳳凰の間、シャンデリアの間、新雪の間、天女の鏡などいろいろな名前が付けられています。
 洞窟を形成する石灰岩は秩父古生層と呼ばれる2億5千万年前の地層で形成されています。竜ヶ石山の南麓に口を開ける東海地方最大の鍾乳洞です。
 鍾乳洞(石灰洞)は石灰岩の中に形成されます。海生動物の殻からなる石灰岩は、炭酸を含む地下水に溶けやすい特徴があります。この石灰岩層を流れる水が岩を容蝕し、洞窟を形成していくのです。
 洞窟の天井から滴り落ちる水が、空気に触れた時、水分が蒸発し残った炭酸カルシウムが造られます。天井にはつらら石、 そして下の床には石筍ができていくのです。
 竜ヶ岩洞の出口には竜ヶ岩洞洞窟資料館が併設されています。洞窟見学者以外でも無料で見学することができます。鍾乳洞や鍾乳石のでき方や竜ヶ岩洞の開発の様子を紹介しています。数多くの鍾乳石や化石、開発の様子を再現したジオラマなどが展示されています。
 竜ヶ岩洞には、洞窟探検訓練施設があります。大学のクラブ、同好会、民間の愛好家の多くが、この竜ヶ岩洞を訪れ、訓練していくそうです。



方広寺
ほうこうじ
静岡県浜松市北区引佐町奥山1577−1
Tel 053-543-0003
 深奥山方広寺(ほうこうじ)は、臨済宗方広寺派の本山で、方広萬寿禅寺と称します。東海地方の代表的な禅寺で、奥山半僧坊の名で知られています。創建は建徳2年(1371)、後醍醐天皇の皇子満良(みつよし)親王・無文元選禅師によってなされました。
 無文禅師は中国各地を巡拝しました。帰国する海上で難破の危機に遇い、禅師は無事を一心に祈りました。すると法衣を着て袈裟をまとった、鼻の高い一人の異人が現れて、海難を免れたそうです。
 禅師が方広寺を開山した時、再びその一異人が姿を現し、弟子にしてほしいと願い出ました。弟子になることを許され、禅師に仕え、修行に励みました。禅師が亡くなると、「わたしはこの山を護り、このお寺を護り、世の人々の苦しみや災難を除きましょう」といって姿を消したそうです。
 これが半僧坊権現といわれるもので、方広寺を護る鎮守として祀られ、世の人々の苦しみや災難を除く権現として、信仰をあつめました。本堂西側の神殿に半僧坊大権現が祀られており、厄除け、商売繁盛などを願って多くの人が参詣しています。
 無文禅師は宗良親王の弟です。宗良親王がこの地に埋葬された際には無文禅師が導師として奉仕されたと伝えられています。 60ヘクタールの境内には、山門、本堂、半僧坊真殿、三重の塔など60余りの建物が建っています。
 五百羅漢の立像、坐像が参道に並んでいます。拙巌(せつがん)和尚が、大蔵経(だいぞうきょう)を読んでいるとき、500人の羅漢が仏法を護り、伝えるという記述を読み、石像の安置を発願され、明和7年(1770)、500体の羅漢を安置したものです。
 方広寺は天正15年(1587)後陽成天皇の勅願所となり、江戸時代には江戸幕府から朱印状が与えられました。
 間口32m、奥行27mの大きな本堂の中央に掲げられた「深奥山」の大額は、幕末明治に活躍した山岡鉄舟の書です。
 明治時代以降、半僧坊信仰が急速に広まり、全国に広まりました。鎌倉建長寺の半僧坊は方広寺から明治23年(1890)に勧請されたものです。烏天狗がその象徴となっていて、奥山半僧坊や建長寺半僧坊にもその像が祀られています。
 七尊菩薩堂は方広寺境内にある鎌倉末期の様式を伝えた建物で、国の重要文化財に指定されています。間口90cm、奥行約150cm、こけら葺き、一間社流れ造り様式で建てられています。流れ造りとしては静岡県に残る最も古い木造建造物です。



摩訶耶寺
まかやじ
静岡県浜松市北区三ヶ日町摩訶耶421
Tel 053-525-0027
 大乗山摩訶耶寺(まかやじ)は高野山真言宗のお寺です。神亀3年(726)聖武天皇の祈願所として行基が創建しました。静岡県で最も古い鎌倉時代前期に造られた庭が有名です。
 摩訶耶寺庭園は平成20年(2008)米国の日本庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」日本庭園ランキングで10位にランクされました。お寺では1位でした。
 庭園は鎌倉時代初期のもので、東日本一の名園といわれています。平安時代の様式をもつ鎌倉時代の庭園で、池と芝生の中に点在する白い石の配置が絶妙で、金閣寺・菩提寺と並び賞されています。
  県下最古の池泉舟式蓬莱庭園で、出島・鶴島を配した池の型や三尊形式の石組は東日本では珍しいそうです。この池の底には、船遊びをしても水が濁らないように、石畳がしいてあるそうです。
 また摩訶耶寺は県下指定文化財中最古の「木造千手観音立像」(国指定重要文化財)と「木造不道明王立像」(同)を所蔵しています。



弁天島海浜公園
べんてんじまかいひんこうえん
静岡県浜松市西区舞阪町舞阪3775−2
Tel 053-592-0757 舞阪町観光協会
 弁天島海浜公園は弁天島温泉街の目の前に広がる公園で、弁天島手前の湖に立つ赤い大鳥居と大海原を見渡せる開放的な公園です。海に浮かぶ鳥居と今切口にかかる浜名大橋の景色は浜名八景の1つになっています。
 ヤシの木が立ち並び南国ムードあふれる遊歩道では、海辺の散策が楽しめます。遠浅で波の静かな、海水浴ができる海浜公園として整備されています。潮干狩りの時期には赤鳥居へ潮干狩りの渡船が出ますし、春から秋にかけては釣り船も運航されます。夏は児童プールもオープンします。
 浜名湖はもともと淡水湖でした。明応7年(1498)の大地震に伴う高潮で、海岸が決壊し、「今切口」と呼ばれる水路が生じて、遠州灘と繋がりました。弁天島は、このとき海岸と切り離され誕生したのです。宝永6年(1709)、今切渡船の航行安全を願い、辨天神社が勧請され、弁天島と呼ばれるようになったそうです。
 ここは江戸時代からの景勝地で、葛飾北斎の「富嶽三十六景」にも描かれています。海水浴場も明治22年(1889)、東海道線の開通時に誕生した歴史のある所です。毎年7月第1土曜日に行われる「弁天島温泉海開き花火大会」は、大正初期、辨天神社の祭礼の余興として奉納されたのが始めなのだそうです。今では仕掛け花火や2尺玉など約3千発が打ち上げられ、数十万人の見物客が訪れます。



新居関跡
あらいせきあと
静岡県湖西市新居1227−5
Tel 053-594-3615 新居関所史料館
 新居関跡は慶長5年(1600)、徳川家康によって、東海道の通行人を調べるために創設された関所の跡です。家康は、東海道、中山道、甲州道、奥州道、日光道などを整備しました。新居関は箱根の関とともに東海道の重要な関所でした。
 新居関はかつて東海道53次の31番目の宿場町、新居宿と舞坂宿(浜松市西区)の間にありました。新居宿は対岸の舞坂宿と「今切の渡し」と呼ばれる渡し舟で結ばれていて、東海道における交通の要所だったのです。
 当初は現在よりも東の向島に関所は建てられていました。元禄年間に津波のため移転、さらに宝永4年(1707)の地震のため建物が全壊し、翌年の宝永5年(1708)に現在地に移転したものです。そして明治2年(1869)に関所廃止令が出されるまでの間、存続しました。
 安政2年(1855)改築の面番所が残っています。現在、関所として残る建物は、この新居の関所だけであり、国の特別史跡に指定されています。併設して通行手形や女通行証文などの資料を展示する新居関所史料館があります。






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