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曼荼羅寺
まんだらじ
愛知県江南市前飛保町寺町202
Tel 0587-55-1695


 日輪山曼陀羅寺は西山浄土宗に属するお寺で、通称「飛保(ひぼ)の曼陀羅寺」と呼ばれています。正中元年(1324)、後醍醐天皇が、天真乗運上人に命じて、建武中興の成就と国家鎮護を祈願する道場として創建した古刹です。
 天真乗運上人は藤原師継の8男で、後醍醐天皇の母の檀天門院の弟にあたり、学識が高く、後醍醐天皇は深く帰依したそうです。藤原師継の所領である村久野庄に正堂を紫宸殿に、中門を擬して多くの伽藍を創建したのです。、
 天文10年(1541)、後奈良天皇の勅願寺となり、6檀林の一つとなりました。始めは月綸山円福寺と称しましたが、寛正3年(1462)空光(くうこう)上人の時、日輪山曼陀羅寺という現在の寺号に改めました。それには言い伝えが残されています。
 藤原鎌足を祖に持ち、孝謙天皇に召された中将姫が美濃の願成寺の観音に参詣の際、病にかかりました。観音様に一心に祈ると快癒し、礼として一本の桜を植え、一幅の曼陀羅を奉納しました。長く寺の宝物とされていましたが、その曼陀羅が寛正3年(1462)に飛保の円福寺に飛んでいってしまったそうです。円福寺では、東の空から日輪が出ると同時に曼陀羅が飛んできたというので、日輪山曼陀羅寺と改めたそうです。
 寛永9年(1632)、地元出身で後に徳島藩祖となった蜂須賀家政が、幼いときに曼陀羅寺の塔頭・本誓院で学んだ縁により正堂を再建寄進しました。また、尾張徳川藩からは寺領231石余りを寄進されていました。正堂と書院は国の重要文化財、地蔵堂は県の重要文化財に指定されています。
 正堂を中心に庫裏、大書院、小書院、曼陀羅堂、地蔵堂、鐘楼、宝蔵、中門、南門(矢来門)が建立し、境内には本誓院、世尊院、修造院、光明院、常照院、寛立院、慈光院、霊鷲院という8院の塔頭寺院があり、曼陀羅寺公園が続いています。

 曼陀羅寺の正堂は桁行5間、梁間5間、1重、入母屋造り、向拝1間、軒唐破風付き、檜皮葺きです。寛永9年(1632)、蜂須賀家政によって寄進されたもので、本尊の阿弥陀三尊を安置しています。御所の紫宸殿を模して造られたといわれ、昭和32年(1957)に国の重要文化財に指定されています。
曼陀羅寺正堂
 曼陀羅寺書院は文禄元年(1592)の建立といわれていますが、寛文3年(1663)から延宝2年(1674)の頃に建てられたと推察されています。桁行1.23m、梁間11.4m、1重、寄棟造の銅版葺きの建物です。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦の際、徳川方の池田輝政らが、岐阜城攻略にあたり、軍議を開いた所です。昭和37年(1962)に国の重要文化財に指定されています。
曼陀羅寺書院
 曼陀羅寺の地蔵堂はもとは曼陀羅堂だったものです。正堂と同じ寛永9年(1632)に建てられたと推定されています。文政10年(1827)に、現在の位置へ移築されたようです。桁行3間、梁間3間、1重、寄棟造り、檜皮葺きです。本尊は後醍醐天皇の母・檀天門院藤原忠子の念持仏であった地蔵菩薩です。愛知県の文化財に指定されています。
曼陀羅寺地蔵堂
 曼陀羅寺の曼陀羅堂は桁行5間、梁間4間、1重、入母屋造り、向拝1間、本瓦葺きで、周りに縁、高欄を巡らしています。弘化年間(1844-1847)の建立で、江南市の文化財に指定されています。内部は外陣、中陣、内陣に分かれ、内陣中央の須弥壇には曼荼羅を入れる厨子が置かれています。
曼陀羅寺曼陀羅堂



真清田神社
ますみだじんじゃ
愛知県一宮市真清田1ー2ー1
Tel 0586-73-5196


 真清田神社は延喜式神名帳に「眞墨田神社」として記載され、名神大社に列している尾張国の一宮です。祭神の天火明命(あめのほあかりのみこと)は、尾張開拓の祖で、尾張国の産土神(うぶすながみ)です。
 境内は約3万平方mあり、その周囲には古来、土塀をめぐらしていました。古い御社殿は特有の尾張造りの形式を備えた神社でしたが、昭和20年(1945)の戦災で焼失しました。昭和32年(1957)に本殿をはじめとする諸社殿、同36年(1961)に楼門が再興されました。
 鎌倉時代、順徳天皇は真清田神社を崇敬され、多数の舞楽面を奉納しました。その舞楽面は、現在も、国の重要文化財「木造舞楽面12面」として真清田神社に保存されています。
 戦国武将でのちに森家の家臣となった関成政は、織田信長から正倉院の名香蘭奢待の破片を拝領し、真清田神社に奉納しています。江戸時代には、尾張藩主徳川義直が、寛永8年(1631)社殿の大修理を行い、寛永16年(1639)には神領として、朱印領333石を寄進しています。
 現在は、正面参道の楼門を入って正面に拝殿、祭文殿、渡殿、本殿が続き、連接した新しい真清田造りの華麗雄大な社殿が蘇っています。本殿・渡殿は平成18年(2006)に国の登録有形文化財に指定されました。

 真清田神社本殿に向かって右に摂社・服織(はとり)神社が昭和40年(1965)造営されています。天火明命の母神、地場産業である織物の神を祀っています。7月の第4日曜を中心に行われる織物感謝祭は「一宮七夕まつり」として有名です。最近は、出会いを求める若い女性に人気がある神社になっています。
摂社・服織神社



田縣神社
たがたじんじゃ
愛知県小牧市田県町152
Tel 0568-76-2906


 田縣神社は延長5年(927)に編纂された「延喜式」に記載されている古社です。貞治3年(1364)の「尾張国内神名牒」にも、従三位上田方天神と書かれていて、古くから格式の高い神社であったようです。
 祭神は素戔嗚尊の孫である農業を司る「御歳神」と子宝・安産の守護神である「玉姫神」です。子宝繁栄と五穀豊穣をもたらす古い土着信仰に基づいた、珍しい神社で、毎年3月15日に行われる豊年祭は天下の奇祭として有名です。
 この祭は直径60cm、長さ2mあまりの大男茎形(男性の性器)を毎年新しく檜で造り、それを厄男達が御輿に担いで、御旅所から行列で田縣神社に奉納し、五穀豊穣、万物育成、子孫繁栄を祈願する祭です。
 田縣神社から少し離れた犬山市楽田にある「大縣神社」は田縣神社の対の神社です。姫の宮とも呼ばれ、子宝安産のシンボルとして、女性器を型どった巨石などが置かれています。こちらの豊年祭は3月15日の直前の日曜日に行われています。祭神の大縣大神は尾張国開拓の祖神といわれているそうです。



定光寺
じょうこうじ
愛知県瀬戸市定光寺町373
Tel 0561-48-5319


 応夢山定光寺は臨済宗妙心寺派のお寺で、尾張徳川家の菩提寺です。左甚五郎作と伝えられる彫刻のある尾張藩初代藩主義直の廟所と室町時代後期の建築である本堂「無為殿」はともに国の重要文化財に指定されています。
 建武3年(1336)、蘭渓道隆の孫弟子である覚源禅師が村の住人藤内大夫らの帰依を受けて開山しました。暦応元年(1338)に一宇を建立して無為殿と名付け、暦応4年(1341)、庫裏、方丈を建立し、臨済宗建長寺派のお寺として始まりました。
 江戸時代に入り尾張徳川の保護を受けることになり、慶安2年(1649)、喝堂全用が妙心寺派のお寺に改めました。尾張藩祖である徳川義直は狩りのために瀬戸水野方面によく出かけ、その時に立ち寄った定光寺に惹かれ、そこを自らの廟所にすると決めました。
 慶安3年(1650)、義直は江戸で亡くなりました。その遺命によってこの地に葬られました。翌年、源敬候廟と石標を造立しまし、その次の年に祠堂、築地塀、門などが造営されています。

 無為殿は仏殿で定光寺の本堂です。桁行3間、梁間3間、1重もこし付き、入母屋造り、こけら葺きです。明応9年(1500)再建され、永生7年(1510)に地震のため大破、天文3年(1534)に修理された建物です。大正15年(1926)に国の重要文化財に指定されています。禅宗様式の建築で本尊の延命地蔵願王菩薩、千体他地蔵などを祀っています。
定光寺無為殿
 無為殿の中にある須弥壇上の宮殿(くうでん)は、1間宮殿、入母屋造り、本瓦葺きの唐様で、室町時代の様式手法を残しています。昭和31年(1956)に付き指定になっています。
定光寺無為殿
 源敬候廟(げんけいこうびょう)は尾張藩祖徳川義直候の廟所です。源敬候は義直の諡(おくりな)です。廟は一段高い壇上に円形墳丘を築き、石標を建て、前に1間1戸、銅瓦葺きの平唐門を配置しています。昭和12年(1937)に国の重要文化財に指定されています。
源敬候廟
 焼香殿は桁行3間、梁間2間、1重、寄棟造り、銅瓦葺きです。焼香殿の床には、瀬戸焼の施釉タイルが敷き詰められています。廟所は儒学者で帰化明人の陳元贇(ちんげんぴん)による設計で、獅子の門や竜の門、宝蔵、墓などとともに国の重要文化財に指定されています。
焼香殿



岩屋堂公園
いわやどうこうえん
愛知県瀬戸市岩屋町28
Tel 0561-85-2730 瀬戸市観光協会


 岩屋堂公園は岩屋堂を中心とする自然公園です。鳥原(とりはら)川の渓流沿いの景勝地で、奇岩・怪岩・洞窟・滝などの名所です。ハイキング散策コースが整備され、バンガロー村やプールまであります。春の桜、秋の紅葉と憩いの空間になっています。
 岩屋堂の名は、天然の大きな岩の中につくられた祠から出たものです。紳亀2年(725)名僧行基がここで草庵を結び、この岩窟内で3体の仏像を彫刻し、時の聖武天皇の病気平癒を祈願した霊跡です。
 一体の薬師瑠璃光如来を本尊として、岩屋山薬師堂が建立され、諸堂が整備されて信仰を集めました。岩屋堂の中には、1体の薬師石仏と12体の観音石仏が祀られています。
 急な石段を登ると、注連縄がかけられ、遊行庵と書かれた神社があり、大和信貴山御分霊「毘沙門天王」と刻まれた石柱があります。
 暁明ケ滝(ぎょうみょうがたき)は岩屋堂の名前の由来となっている岩屋の横を流れる渓谷沿いにある落差10m程の滝です。修行僧がこの滝に打たれたことでしょう。
暁明ケ滝



瀬戸市美術館
せとしびじゅつかん
愛知県瀬戸市西茨町113−3
Tel 0561-84-1811


 瀬戸市美術館は昭和58年(1983)にオープンした瀬戸市文化センター内にある美術館です。館内は吹き抜けホールを中心に常設展示室1室、企画展示室3室からなっています。
 加藤唐九郎、加藤土師萌、北川民次、藤井達吉らをはじめとした瀬戸市にゆかりの深い作家を中心に、陶芸・絵画・彫刻等約800点を収蔵しています。



間々観音(龍音寺)
ままかんのん(りゅうおんじ)
愛知県小牧市間々本町152
Tel 0568-73-6173


 間々観音は、正式には飛車山龍音寺という浄土宗のお寺です。本尊の千手観音像には授乳の願いに御利益があるとされていて、日本唯一の「お乳のお寺」として知られています。
 創建は明応元年(1492)といわれ、小牧山にありましたが、小牧山城築城のため、織田信長の命令で現在地に移されたとされています。山門は尾張徳川家の菩提寺である建中寺から移築されたものといわれています。
 境内には、女性の巨大な乳房をかたどった手水舎・線香立てが設置されています。 像の前に立つとセンサーでお乳が流れる観音様もあります。観音堂横には女性の乳房をかたどった絵馬がたくさん置かれています。



小牧山城(小牧市歴史館)
こまきやまじょう(こまきしれきしかん)
愛知県小牧市堀の内1ー1
Tel 0568-72-0712


 小牧山城(小牧市歴史館)は小牧山の頂上にある模擬天守閣です。館内は小牧市の郷土資料が展示され、小牧の歴史や民俗などを紹介しています。4階は展望室となっています。名古屋市の実業家平松茂氏により、昭和43年(1968)に完成し小牧市に寄付されています。
 小牧山は、濃尾平野の東部にある標高85.9mの小さな山です。小牧山城は織田信長が永禄6年(1563)、美濃攻めの拠点として築城し、清洲城から移り、約3年間居城しました。
 織田軍は小牧山城から美濃への侵攻を繰り返し、永禄10年(1567)、美濃稲葉山城を落としました。信長は稲葉山城を岐阜城と改めて移住し、小牧山城は役目を終え、廃城となりました。
 天正12年(1584)、小牧山は徳川家康・織田信雄と豊臣秀吉が戦った小牧・長久手の戦いで家康の本陣になりました。この時、信長の築いた城跡の土塁、空堀などに大規模な改修が施され、強固な陣地が築かれました。戦いは信雄の離脱で大義名分がなくなり、家康有利のうちに講和に至りました。
 小牧山と城跡は、江戸時代、尾張徳川家の領地として保護され、明治維新後も尾張徳川家の所有でした。昭和2年(1927)に、徳川義親によって国に寄付され、同年、国の史跡に指定されました。



尾張大国霊神社(国府宮神社)
おわりおおくにたまじんじゃ(こうのみやじんじゃ)
愛知県稲沢市国府宮1ー1ー1
Tel 0587-23-2121


 尾張大国霊神社は平安時代の延喜式神名張に載り、建仁元年(1201)には正一位を贈られた古社で尾張の惣社です。近くに尾張国の国衙(国府)があったことから、一般には国府宮(こうのみや)と呼ばれています。惣社とは国中の神社の御祭神を国府近くに勧請し、国司自らが祭祀する神社のことです。国司が祭祀した神社であることから「国府宮」と呼ばれるようになったようです。
 熱田神宮、千代保稲荷神社、津島神社、針綱神社とともに、尾張5社の一つに数えられ、天下の奇祭「はだか祭」が開催される神社として広く世間に知られています。この祭りは正式には「儺追神事(なおいしんじ)」といい、旧暦正月13日(新暦の2月初旬)に行われています。
 はだか祭は、神護景雲元年(767)、称徳天皇の勅令で悪疫退散の祈祷が全国の国分寺で行われた際、尾張の国司がこの神社でも祈願したのがはじまりだと伝えられています。神男に触れれば厄落としができるとの信仰から、祈祷と神籤によって選ばれた1人の儺負人(神男)を巡って数万のふんどし姿の裸男たちが揉みあいを繰り広げます。
 祭神の尾張大国霊神は、尾張地方の国霊神(くにたまのかみ)であり、尾張人の祖先がこの地に移住開拓し、その日その日を生きていく糧を生み出す根源である国土の偉大なる霊力を神と崇めたものとされています。
 豊臣秀吉は社領105石を寄進し、松平氏も45石寄せています。約2万7千平方mの広い境内には本殿・拝殿・渡殿・祭文殿・東西の廻廊・神興舎・楼門などがあり、楼門、拝殿、本殿の配置が一直線上になく、尾張の古い様式の「く」の字状になっています。

 足利初期に建立された尾張大国霊神社の楼門は昭和30年(1955)に国の重要文化財に指定されています。三間一戸の入母屋造りで屋根は桧皮葺きです。正保3年(1646)の解体大修理の際、上層部を大改造し、2階の材料はほとんどがこの時のものだということです。
尾張大国霊神社楼門
 尾張大国霊神社の拝殿は桁行5間、梁間3間、1重、切妻造り、桧皮葺きで、江戸時代初期に建立されたと推察されています。軒や内部の小組天井、内側に柱が並立しているなど、格式のある拝殿様式を示しています。昭和30年(1955)に楼門とともに国の重要文化財に指定されています。
尾張大国霊神社拝殿



清洲城
きよすじょう
愛知県清須市朝日城屋敷1−1
Tel 052-409-7330 清洲城管理事務所


 清洲城は戦国時代、織田信長が城主となったことで知られる城です。現在ある清洲城天主閣は平成元年(1989)に再建された建物で、ふれあい郷土館として資料などを公開しています。慶長15年(1610)の名古屋遷都(清洲越し)により廃城され、石垣の基礎が残される程度で遺構はほとんどありません。
 清洲城は、室町時代前期の応永12年(1405)頃、尾張・遠江・越前の守護職の管領・斯波義重によって、守護所・下津城の別郭として築かれました。文明8年(1476)に守護代織田家の内紛により下津城が焼失、文明10年(1478)守護所が清洲に移され、尾張国の中心地となりました。
 弘治元年(1555)、織田信長が那古野城から入城し、大改修を加えた後、本拠として居城しました。信長は、この城から桶狭間の戦いに出陣するなど、約10年間清洲を居城とした。永禄5年(1562)には信長と徳川家康との間で清洲同盟がこの城で結ばれました。
 その後、信長は嫡男の信忠に清洲城を譲り、岐阜城に移りました。天正10年(1582)、本能寺の変で信長が殺された後、清洲城にて清洲会議が行われ、城主は次男の織田信雄となり、大天守・小天守・三重の堀を構える大修築を行いました。
 信雄の改易後、城主は、豊臣秀次,、福島正則と続き、関が原合戦後は、家康の4男・松平忠吉、家康9男・徳川義直と続き清洲藩の本拠となりました。慶長14年(1609),、家康により、清洲から名古屋への遷府が指令されました。
 慶長15年(1610)より清洲城下町は名古屋城下に移転され(清洲越し)、清洲城も名古屋城築城の際の資材として利用されました。慶長18年(1613)名古屋城の完成と城下町の移転が完了したことにより清洲城は廃城となりました。



甚目寺
じもくじ
愛知県あま市甚目寺東門前24
Tel 052-442-3076


 鳳凰山甚目寺(じもくじ)は、あま市(旧甚目寺町)にある真言宗智山派のお寺で、甚目寺観音と呼ばれ、尾張4観音(笠寺、荒子、竜泉寺)の一つに数えられています。約9000平方mの広い境内には、本堂、釈迦堂、六角堂、不動堂、三重塔、南大門、東門、鐘楼などが建立しています。
 推古天皇5年(597)、伊勢の漁師・甚目(はだめ)龍磨(たつまろ)が海中から観音様を拾い、その観音像を近くの砂浜にお堂をたててお祀りしたのが甚目寺の始まりだといわれています。
 天智天皇が病気になり、甚目寺で祈祷したところ、快癒したことから、勅願寺となり、天武天皇7年(679)、堂宇が造営され、鳳凰山の山号の勅額を下賜されました。康和5年(1103)には、藤原連長や僧智能、大江重房らが堂宇が修復されました。
 天治元年(1124)、地震で倒壊しましたが、大治元年(1126)に、大江為道らが再建しています。鎌倉時代の建仁7年(1196)には聖観(しょうかん)上人が広く浄財を募って諸伽藍を再建、造営しています。
 天正11年(1583)織田信雄が寺領として30町歩を寄進、文禄4年(1595)、豊臣秀吉が寺領300石を寄進しています。元和6年(1620)には藩祖・徳川義直が寺領300石を寄せています。
 江戸時代には、尾張4観音の第1位として、身分の上下にかかわらず信仰を集め、宿坊も36を数え寺運も栄えました。本尊の聖観音は高さ1尺1寸5分の秘仏で、50年に1回開帳されます。前立である十一面観音の胎内仏です。

 甚目寺の南大門は3間1戸の楼門で入母屋造り、こけら葺きです。仁王門ともいわれ、安置されている仁王(金剛力士)像は、慶長2年(1597)、地元出身の福島正則が寄進したものです。建久7年(1196)に再建された門で、明治33年(1900)に国の重要文化財に指定されています。
甚目寺南大門
 甚目寺の三重塔は寛永4年(1627)に吉田半十郎の寄進によって再建されたもので、昭和28年(1953)に国の重要文化財に指定されています。3間3重塔婆で本瓦葺きです。高さは25mで日本有数の高さを誇っています。本尊の愛染明王は縁結びと耳の遠い人に御利益があるそうです。
甚目寺三重塔
 甚目寺の東門は切妻造り、銅板葺きの四脚門です。桃山時代の様式を随所に残しており、昭和28年(1953)に国の重要文化財に指定されています。昭和31年(1956)に行われた解体修理で墨書銘が発見され、寛永11年(1634)の建立であることがわかりました。
甚目寺東門
 甚目寺本堂は平成4年(1992)に再建された建物です。本尊は聖観世音菩薩です。三国伝来の聖観音を十一面観音の胎内仏として祀っています。堂内には、子宝に恵まれる霊験のある「おさる様」を奉っています。家内安全、厄除けのご利益があり、節分の日は多くの参拝客で賑わいます。
甚目寺本堂
 甚目寺の六角堂の本尊は地蔵菩薩です。千体の地蔵様が祀られています。子供の育成を加護し、学業成就、身体健康に御利益があるそうです。
甚目寺六角堂
 甚目寺の秋葉堂の本尊は、秋葉三尺坊大権現です。秋葉様は火防守護の御利益があります。脇には開祖役行者(えんのぎょうじゃ)を奉っています。毎年12月第2日曜日に縁日が開かれます。
甚目寺秋葉堂
 甚目寺の釈迦堂の本尊は釈迦如来です。右に薬師如来、左に御狙様(おそそさま)を祀っています。御狙様は女性の肌荒れ、赤ちゃんの痣(あざ)に効能があるそうです。
甚目寺釈迦堂
 甚目寺鐘楼とそこに釣られている鐘は戦後のものです。別の所にある小ぶりの梵鐘は織田信長が永禄10年頃に寄進した建武4年鋳造銘があり、県の文化財に指定されています。近江西念寺にあったのを甚目寺の大鐘と取り替えた鐘と伝えられています。
甚目寺鐘楼
 甚目寺にある法花院(ほっけいん)は古来より出世法印の由緒地と称せられ、出世幸福の御利益が得られるそうです。本尊は聖観世音菩薩です。塔頭成就院の文聖観音(国指定重要文化財)も祀っています。
甚目寺法花院



天王川公園
てんのうがわこうえん
愛知県津島市宮川町
Tel 0567-24-1111 津島市役所産業振興課


 緑の並木道に囲まれた「天王川公園」は、江戸時代に天王川をせき止めて造られた大きな池のある広大なスケールの公園です。大永6年(1526)に書かれた「宗長日記」には、「天王橋は三町、橋は瀬田の長橋より長く、河は琵琶湖のように広い」と紹介されていたところです。
 天王川公園には、天王川8景といわれる四季それぞれを代表する景観があります。春の桜、初夏のスイレン、疎水に映る藤、そして日本の三大川祭りの一つ絢爛豪華な「尾張津島天王祭」がここで催されます。
 「尾張津島天王祭」は津島神社の祭礼として500年の伝統を誇り、全国の数ある夏まつりの中でも最も華麗なものといわれています。かつて、旧暦で行われていましたが、現在は7月の第4土曜日とその翌日に開催されています。宵祭りと翌朝の朝祭りがあります。
 朝祭は、市江車を先頭に6艘の車楽船が能の出し物をかたどった置物を飾り、楽を奏でながら漕ぎ進みます。先頭の市江車から10人の鉾持が布鉾を持って水中に飛び込みます。昭和55年(1980)に「尾張津島天王祭の車楽船行事」が国の重要無形民俗文化財に、昭和59年(1984)に「尾張津島天王祭の車楽」が県の有形民俗文化財にそれぞれ指定されています。



津島神社
つしまじんじゃ
愛知県津島市神明町1
Tel 0567-26-3216


 津島神社は、旧国幣小社で、東海地方を中心に全国に3000社あるという津島神社の総本社です。牛頭天王信仰の総本社であり、現在も「津島の天王さま」として、尾張地方はもちろん中部地方をはじめ、遠く東北や関東の人々にも「津島さん」「天王さま」と親しまれ崇敬されています。
 「西の八坂神社、東の津島神社」と並び称せられ、疾病災難避け、授福の神として厚い信仰を受けています。約3万平方mの広い境内には老木が茂り、国の重要文化財に指定されている本殿、楼門が建っています。
 古くは津島牛頭天王社と称し、祭神・建速須佐之男命が、欽明天皇元年(540)、対馬より当地へ来臨したため、津島というようになったそうです。弘仁元年(810)、朝廷から正一位と日本惣社の号を、正暦年間(990-995)に、天王社の号を賜わったそうです。
 祭神は、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)で、相殿には須佐之男命のみ子である大穴牟遅命(おおなむちのみこと・大国主命)が祀られています。
 津島神社は、織田、豊臣、徳川から格別の崇敬を受けました。「本殿」は徳川家康の四男で清洲城主・松平忠吉の妻女の寄進であり、「朱塗りの楼門」は豊臣秀吉の寄進、県指定文化財の「南門」は、豊臣秀頼が寄進しています。尾張藩祖徳川義直は社領1293石を寄進しています。
 中世以後、神仏混淆になり、牛王神宮寺を別当寺とし、実相院、明星院、宝寿院、観音坊などを置いて栄えました。江戸時代には、「津島参らにゃ片参り」といわれ、お伊勢参りの折りに、津島神社に参拝することが慣わしとされていました。しかし、明治の神仏分離で諸坊は廃されました。

 津島神社の楼門は3間1戸の檜皮葺きの門で、天正20年(1592)に建てられました。豊臣秀吉の寄進といわれています。細部は和様が用いられ、初重内部の蟇股などにすぐれた意匠を施しています。昭和33年(1958)に国の重要文化財に指定されています。
津島神社楼門
 津島神社の本殿は慶長10年(1605)の建立で、拝殿の奥にあります。3間社流造り、檜皮葺きです。装飾は華麗で、細部の蟇股の彫刻は桃山期の立体写生と、室町末期の平面文様とが混在しています。大正9年(1920)に国の重要文化財に指定されています。
津島神社拝殿
 津島神社の大イチョウは、幹の周囲・5.3m、樹高約25mで樹齢は600年と推定されています。津島神社のイチョウとして県の天然記念物に指定されています。
大イチョウ



津島の大椋
つしまのおおむく
愛知県津島市城之越町


 幹囲7.1m、樹高28m、樹齢約600年の国の天然記念物・津島の大椋の巨木がありましたが、平成5年(1993)に倒れてしまいました。この辺りは、江戸時代初期、尾張藩祖・徳川義直の屋敷「津島御殿」があったと伝えられています。 
 昔、川祭りに使う船を運ぶために、この大椋に綱を巻きつけました。その後、その仕事をした人達は災難にあいました。津島神社の御師にうらなってもらったところ、大椋の幹を傷つけ神様の怒りに触れたと告げました。人々は津島神社にお参りして許してもらったそうです。



名古屋城
名古屋市中区本丸1-1
 名古屋の地は古くは那古野と呼ばれ、室町時代には足利幕府管領、斯波氏の領地でした。応仁の乱で斯波氏の勢力が衰えると、駿河守護の今川一族がこの地に侵入し、今川氏親が今の名古屋城二之丸あたりに大永年間(1521〜1528)の間に「柳ノ丸」を築きました。そして弟の今川氏豊を城主としたようです。これが名古屋城の前身といわれています。
 「柳ノ丸」は亨禄5年(1532)3月に織田信秀に奪われ、信秀はその子、信長を城主とし那古野城と称しました。天文2年(1553)、信長は居城を清州城に移しました。那古屋城は叔父の織田信光が入りましたが、その後廃城となりました。
 慶長5年(1600)関ヶ原の合戦の功績で、家康四男松平忠吉が清須城六十二万石の城主となりました。慶長12年3月に忠吉死去、続いて4月には次男結城秀康も死去しました。家康は嘆き悲しみました。忠吉の後は九男義直が城主となりましたが、家康は徳川家が清須城では手狭で水攻めに弱いとの判断から名古屋城の構築を決意しました。
 慶長14年(1609)江戸幕府の東海道の要所として、また大坂(大阪)への備えとして清州(清須)から名古屋へ遷府を決定しました。慶長15年(1610)、前田・加藤・福島・細川・黒田等の豊臣系大名に助役を命じた天下普請で築かれました。その動員数は20万人にも達したということです。
 五重の天守閣の尾張徳川の名古屋城天守閣は慶長17年(1610)にほぼ完成したようです。慶長19年、義直は清洲城から名古屋城に入城しました。 名古屋城は、徳川義直以後、御三家(尾張・紀伊・水戸)筆頭尾張徳川家61万石の居城として、16代義宣まで代々続きました。そして明治維新を迎えます。
 明治維新後も、天守閣は本丸御殿とともに破却されることなく保存されていました。しかし、太平洋戦争の最中の昭和20年(1945)、名古屋空襲の際、焼夷弾に被弾して「大・小天守閣」、「本丸御殿」をはじめ建物のほとんどを焼失してしまいました。
 幸いにも焼失を免れた三つの櫓(西北・西南・東南)、三つの門(表二之門・旧二之丸東二之門・二之丸大手二之門)と、本丸御殿障壁画の大部分は、重要文化財として現在に伝えられています。
 戦後、昭和34年(1959年)、金のシャチをいただく五層の大天守閣(48m)と小天守閣(24m)が再建されたのです。
 金の鯱(シャチホコ)は火除けのまじないとして作られましたが、城主の権威の象徴となりました。「尾張名古屋は城でもつ」とか「天下の名城」とまで言われ、名古屋のシンボルになっている名古屋城は近世大名の完成度の高い居城の典型として高い評価を受けています。



建中寺
けんちゅうじ
愛知県名古屋市東区筒井1丁目7ー57
Tel 052-935-3845


 徳興山建中寺は浄土宗のお寺です。慶安4年(1651)第2代尾張藩主・徳川光友(みつとも)が父である藩祖・徳川義直の菩堤を弔うために建立しました。茨城県結城市の弘経寺の成誉廊呑上人が招請されて開山されました。
 以来、尾張徳川家の菩提寺になり、500石の供養料を受けました。元禄13年(1700)、光友は76歳で歿し、建中寺に葬られました。翌年、廟・御霊屋が建立されています。
 第4代吉通、第5代五郎太、第6代徳川継友、第8代宗勝、第7代宗春、第9代宗睦、第11代斉温、第12代斉荘、第13代慶臧、第10代斉朝の廟や御霊屋が建立されました。明治まで4棟の霊廟があったそうですが、今は光友の御霊屋(県文化財)1つ残されているだけです。
 創建時は周囲は石垣と堀で囲まれていて、4万8千坪の敷地に本堂を始め、諸堂数十棟が建立されました。天明5年(1785)の大火災で総門・三門などを除く多くの堂宇が焼失しましたが、天明7年(1787)に再建されました。

 建中寺の三門は慶安4年(1651)創建当時の建築物で、総檜造り三間薬医門です。両脇築地塀付で、3間1戸2重門、入母屋造り、本瓦葺きです。三門とは、空門・無相門・無願門の三解脱門の意味を持っていて、佛教の覚りの境地を表しています。
建中寺三門
 上層には、釈迦牟尼仏を中心として16羅漢の像が祀られています。建中寺の三門は建中寺公園の前(南側)にあり、昭和60年(1985)に名古屋市の文化財に指定されています。
建中寺三門
 建中寺の本堂は天明7年(1787)の大火の後に再建された建物です。間口15間(27m)奥行14間(25.2m)、入母屋造り、本瓦葺きです。建坪210坪(700u)という巨大な木造建築で、現在名古屋市内の木造建築物では最大のもので格調高く古式を保っています。
建中寺本堂
 本堂にある本尊の阿弥陀如像は、開山廓呑上人が結城弘経寺から招来したもので、止利仏師作と伝えられています。渡来系の仏師・止利仏師は鞍作止利(くらつくりのとり)といい、飛鳥時代を代表する仏師で、法隆寺金堂本尊銅造釈迦三尊像を造ったとされています。本堂は名古屋市の文化財に指定されています。
建中寺本堂
 建中寺の書院は客殿でもあります。昭和39年(1964)に再建されたまだ新しい建物です。名工大竹利左衛門の設計による壮麗な建築です。
建中寺書院
 建中寺の不動堂は明王殿とも呼ばれています。昭和44年(1969)の再建で、本尊不動明王は、江戸時代から尾張徳川家戦勝祈願の秘仏です。前立て本尊が正面に安置してあり、その奥に秘仏が安置されています。厄除け、開運、家内安全、交通安全、病即消滅、商売繁盛などに霊験があらたかで、地域の信仰を集めています。
建中寺不動堂
 建中寺開山堂は火災の後、天明5年(1786)に再建された建物です。寄棟造り、桟瓦(さんがわら)葺きの総欅造りで、大工棟梁・斎谷小一郎藤原長虎(さいやこいちろうふじわらながとら)によって造られています。平成12年(2000)に名古屋市の文化財に指定されています。
建中寺開山堂
 建中寺鐘楼は天明7年(1788)に再建されています。入母屋造り、本瓦葺き、台形の袴腰つきの建築様式で、昭和60年(1985)に名古屋市の文化財に指定されています。500貫の(1923s)の梵鐘がつるされています。梵鐘には林道春(羅山)の銘が刻まれていたため、戦時中の供出を免れたといわれています。
建中寺鐘楼
 建中寺の経蔵は一重もこし付、宝形造り、本瓦葺きの、全国でも珍しい総漆喰の建物で、文政11年(1828)に建てられています。内部には13宗の開山の御木像を周囲に、中央には5800巻の一切経を奉安する塔があります。平成11年(1999)に名古屋市の文化財に指定されています。
建中寺経蔵
 建中寺の御成門は唐破風造りの四脚平唐門です。本瓦葺きの屋根に鯱をいただき葵の紋所で飾られた門です。伊勢湾台風で屋根が破損し、修復中に屋根裏から棟札書きが発見され、正徳4年(1714)建立のものと判明しました。昭和60年(1985)に名古屋市の文化財に指定されています。
建中寺御成門



徳川園
とくがわえん
愛知県名古屋市東区徳川町1001
Tel 052-935-8988 徳川園管理事務所


 徳川園は平成17年(2005)に築造された龍仙湖を中心とした池泉廻遊式の大名庭園です。もとは尾張藩2代藩主・徳川光友の隠居所の大曽根御屋敷跡地でした。敷地は約1万3000坪で、隣には徳川美術館、名古屋市蓬左文庫があります。
 光友は元禄8年(1695)に自ら造営した隠居所である大曽根屋敷に移り住みました。当時の敷地は約13万坪(約44ヘクタール)という広大さで、庭園内の泉水には16挺立の舟を浮かべたそうです。
 光友の没後、この地は尾張藩家老職の成瀬、石河、渡邊の3家に譲られましたが、明治22年(1889)に返上され尾張徳川家の邸宅となりました。昭和6年(1931)、19代徳川義親から別邸建物と庭園7000坪を名古屋市に寄付され、翌年、徳川園として公開されました。
 空襲により表門を残し焼失し、戦後、葵公園と名前を変え、野球場、プール、結婚式場、東図書館などになりました。その後、武家文化の拠点として整備され、徳川園が完成しました。園内には龍門の瀧が再現されています。尾張藩江戸下屋敷戸山荘跡から発掘された龍門の瀧の遺構を移設したものです。
龍門の瀧



徳川美術館
とくがわびじゅつかん
愛知県名古屋市東区徳川町1017
Tel 052-935-6262


 徳川美術館は、徳川園内にある、財団法人徳川黎明会が運営する私立美術館で、昭和10年(1935)に開設されました。この場所は第2代尾張家藩主・徳川光友の隠居所の大曽根御屋敷跡地で、隣には徳川園、名古屋市蓬左文庫があります。
  昭和6年(1931)、第19代尾張家・徳川義親は美術館建設を決めると同時に名古屋別邸を名古屋市に寄贈しました。尾張徳川家は御三家の筆頭で徳川家康の9男・徳川義直(1600-1650)を祖としています。別邸当時の建物は正門と脇長屋を残し、昭和20年(1945)の戦災で全焼しました。
 徳川義親(1886-1976)は徳川家康の遺品、初代義直以下代々の遺愛品や、その家族が実際に使用した物ばかり1万数千件におよぶ重宝、いわゆる「大名道具」をそっくりそのまま寄付して、徳川黎明会を設立しました。
  国宝「源氏物語絵巻」をはじめ、国宝9件、重要文化財、重要美術品多数を含み、武家の表道具である刀剣、武具類や家康の遺品、華麗な婚礼調度をはじめとする調度類、服飾品、茶道具、書画など多岐にわたっています。



名古屋市蓬左文庫
なごやしほうさぶんこ
愛知県名古屋市東区徳川町1001
Tel 052-935-2173


 名古屋市蓬左文庫は徳川園の中にあります。尾張徳川家の旧蔵書を中心に和漢の優れた古典籍を所蔵する文庫です。昭和25年(1950)、財団法人徳川黎明会から名古屋市に移管され、昭和53年(1978)から名古屋市博物館の分館になり、平成16年(2004)、リニュアルオープンしています。
 蓬左とは名古屋の呼称です。総数約11万点の収蔵資料は、徳川家康の旧蔵書である駿河御譲本約2千点を中心とする尾張徳川家旧蔵書からなっています。家康の死去により第9子・尾張徳川義直に約3千冊の蔵書(駿河御譲本)が分与されました。
 これらは名古屋城内に創設された「御文庫」に収蔵され、尾張藩歴代藩主によって蔵書の拡充がなされ、幕末には約5万点と、日本屈指の大名文庫が形成されました。しかし、明治維新後にはおよそ3分の1が流出したそうです。
 中国・朝鮮の書物には優れたものが多く、すでに本国では失われてしまったものもあります。「河内本源氏物語」、「金沢文庫本続日本紀」など、7件154点が重要文化財に指定されています。本居宣長も「古事記伝」執筆の際、閲覧利用したそうです。



日泰寺
にったいじ
愛知県名古屋市千種区法王町1−1
Tel 052-751-2121


 覚王山(かくおうざん)日泰寺は日本の仏教徒全体の宝という意味合いから特定の宗派には属さないお寺です。19の宗派の管長が3年交代で住職を務めています。当初は日暹寺(にっせんじ、暹とはシャムの事)でしたが、昭和7年(1932)にシャムがタイとなったので昭和16年(1941)、日泰寺と改称されました。
 日泰寺は明治33年(1900)にシャムのチュラーロンコーン国王から贈られた仏舎利(釈迦の遺骨)と金銅の仏像を安置するため、明治37年(1904)に創建されました。仏舎利は英領インドピプラーワーでイギリス人が発見したもので、仏教王国だったシャム国に寄贈されたものでした。
 15万平方mの広大な境内には遺骨を安置するガンダーラ様式の高さ15mの奉安塔、八相園と呼ばれる庭園、チュラーロンコーン国王像、県指定の文化財・茶室草結庵などがあります。



興正寺
こうしょうじ
愛知県名古屋市昭和区八事本町78
Tel 052-832-2801


 八事山(やごとさん)興正寺は興正寺公園内にある高野山真言宗の別格本山です。尾張高野、八事観音と呼ばれ、本尊は大日如来です。江戸時代までは中門をはさんで東山(女人禁制)の遍照院と西山の普門院に分かれていました。
 東山には興正寺の総本尊大日如来を祀る大日堂を始め奥之院、弘法堂、不動堂などがあり、西山には、五重塔、本堂(阿弥陀堂)、観音堂、能満堂(虚空蔵堂)、念仏堂、鎮守社、行堂などが軒を連ねました。
 貞享3年(1686)、高野山において弘法大師の五鈷杵(ごこしょ)を授かった天瑞圓照がこの地に草庵を結びました。元禄元年(1688)尾張藩2代藩主・徳川光友の帰依を受け、現瑞寺の建物を移して興正寺を創建しました。
 大日堂に安置される丈六金銅大日如来は、光友の発願によって造られ、元禄10年(1697)に開眼されました。興正寺は戒律を重視した学問修行の寺として隆盛し、5代諦忍和尚の時、西山阿弥陀堂を建立して阿弥陀如来を祀り庶民のための信仰の地としました。
 諦忍は、華厳、律、法華、浄土念仏などを広く研究し、多くの独創的な書を著し、天下に知られ多くの僧が来山したそうです。その弟子真隆は一文講を発願して浄財を集め今の五重塔を建立しました。興正寺は徳川家の祈願寺であり、新西国八十八ケ所の結願寺としても繁栄しました。

 興正寺総門は西山の人口として、元禄10年(1697)に造られ、7世真隆和尚の時代に再建されました。木造り、一間棟門、本瓦葺きです。総門をくぐると、左手に七観音、右手に六地蔵があります。
興正寺総門
 中門は、両側に多くの祠が並んだ参道の先にあります。修行の場で女人禁制だった「東山」と、一般参詣者が入れた「西山」を分けていた門で、女人門と呼ばれていました。木造り、三間一戸、本瓦葺きです。女人禁制が解かれた明治時代になって現在地に移設されました。中門の奥には、五重塔があります。
興正寺中門
 興正寺五重の塔は文化5年(1808)、総門を再建した真隆和尚のときに建立されたものです。木造り、三間、本瓦葺きで、高さは30mあります。初重3.93m角の小規模な塔で、塔身が細長く相輪が短い点で江戸時代後期の塔の特徴をよく表わしています。尾張藩徳川家の祈願寺であることから、塔の扉には葵の紋が刻まれています。国の重要文化財に指定されていて、東海地方では唯一の木造五重塔です。
興正寺五重塔
 興正寺本堂は寛延3年(1750)、5世諦忍和尚が真言念仏の教えで大衆教化のため、西山阿弥陀堂として建立しました。本尊、阿弥陀如来をはじめ大隋求明王、不動明王、愛染明王、文珠菩薩、弘法大師、寿老人などが祀られています。
興正寺本堂
 本堂には尾張徳川家・7代藩主の宗春公直筆の「八事山」の掛け軸が掲げられています。総門、中門、五重塔、本堂が南北の軸線上に一列に並び、古代的な伽藍(がらん)配置になっています。
興正寺本堂
 興正寺観音堂は、開山した天瑞和尚が建立したものです。尾張徳川2代藩主・光友より寄進された秘仏の慈覚大師作正観世音菩薩を本尊として安置しています。安政4年(1857)に10世潭道和尚により再建され、その脇立の三十三観音像は、天瑞和尚の自作です。東海百観音、尾張三十三観音の札所霊場でもあります。
興正寺観音堂
 興正寺の能満堂(虚空蔵堂)は徳川家の祈願修法所として、享保2年(1717)に6代藩主・継友により建立されました。本尊は秘仏の虚空蔵菩薩です。ここからは墓地が広がっています。
興正寺能満堂
 興正寺圓照堂は興正寺の象徴である五重塔建立200年を迎えるにあたって、永代供養・納骨殿として平成15年(2003)に建立されました。桜の咲く時期にはライトアップされます。
興正寺圓照堂



熱田神宮
愛知県名古屋市熱田区神宮1-1-1
 「熱田さん」「みや」と呼び親しまれ古来、あつい信仰をあつめてきました。三種の神器のひとつ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を祀ることでも知られ、皇室との関係も深く警察官も常駐しています。
 第12代景行天皇の御代、日本武尊は神剣を尾張氏の本拠地・名古屋市緑区大高町火上山に留め置かれたまま三重県亀山市能褒野(のぼの)でなくなられました。尊のお妃である宮簀媛命は、神剣をここ熱田の地にお祀りになられました。
以来伊勢の神宮につぐ格別に尊いお宮として篤い崇敬をあつめ、延喜式名神大社・勅祭社に列せられ国家鎮護の神宮として特別のお取り扱いを受けています。
 三種の神器とは八咫鏡(ヤタノカガミ)・ 草薙の剣(クサナギノツルギ)・八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)の3つを指し、皇室継承のシンボルとされています。八咫鏡は伊勢神宮に祀られ、八尺瓊勾玉は宮中に収められています。
 草薙神剣は、スサノオノミコトが出雲で八岐の大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した際にその尻尾から出てきた宝の剣で、「天のむらくもの剣」とも呼ばれて伊勢神宮に祀られていたものでした。後にヤマトタケルノミコトがこれを使って難を逃れたのでした。
古くは尾張造でしたが、明治26年(1893年)神明造に改築しました。その後、戦火でその大半を焼失しました。昭和30年伊勢の神宮内宮古正殿を譲り受け御本殿とし、その他の社殿 も逐次再建されました。



ならずの梅
西楽所の北に、高さ3mほどの梅の木があり、江戸時代模写の享禄古図(室町時代の神宮)にも描かれている木で、花は咲くが身がつかない。したがってならずの梅といわれています。 『安永・天明頃の俗謡』「ひんやれ、宮の熱田のならずの梅はやれよいとやれよいと花はさけども実はならん、しょんがゑノ」などとさかんに謡われたようであります。

清雪門(せいせつもん)
 天智天皇7年(668)新羅の僧が神剣「草薙剣」を盗み出し、この門を通ったといわれ、以来不吉の門として忌まれたとも、神剣還座の際、門を閉ざして再び皇居へ還ることのないようにしたものとも伝えられています。

 約20万平方メートルにおよぶ神域はすっぽりと濃い緑におおわれ、長い参道の最奥に本宮がゆかしいたたずまいを見せています。樹齢千年を越える楠をはじめとする6万坪の境内は、古来「蓬莱島(ほうらいじま)」の名で知られ、大都会の中心にありながら、静寂(せいじゃく)で四季の装いあふれる市民のオアシスとして親しまれています。「大楠」は弘法大師お手植と伝えられています。



上知我麻神社
かみちかまじんじゃ
 本宮相殿(あいどの)に祀る宮簀媛命(みやすひめのみこと)の父君である尾張国造「乎止與命(おとよのみこと)」をお祀りしています。この社の脇に、大国主社(おおくにぬししゃ・大黒様)事代主社(ことしろぬししゃ・恵比寿様)をお祀りしていることから、広く「えびすさま」とも呼ばれています。
 「知恵の文殊(もんじゅ)さま」ともいいならわし、古くから知恵の神様として崇敬する人が多く、受験シーズンには若者で境内は賑わいます。
 この神社の「名氏子(なうじこ)」は特に信仰が篤く珍しいものです。
新生児の名前をつける際に、神託により名前の1字を神様から戴くというもので、命名(めいめい)祈祷を毎日受け付けてくれます。その文字を元に名付けをされた子供は、名氏子として氏名が永久保存され、毎年11月15日、無事成育を感謝する名氏子祭が行われるということです。
太郎庵椿(たろうあんつばき)
 別宮境内にある樹齢300年を越える淡紅の花をつけるやぶ椿の一種で、江戸中期古渡に住む高田太郎庵という茶人が、愛好したでこの名があります。 全国的に数少ない銘木で11月末から3月まで咲き、開花の時期が長いことでも知られます。全国的な茶所名古屋の熱田にふさわしい物語の椿です。



万松寺
ばんしょうじ
愛知県名古屋市中区大須3丁目29ー12
Tel 052-262-0735


 亀岳林(きがくりん)万松寺は大須にある曹洞宗のお寺で、大本山総持寺の末寺で十一面観世音菩薩を祀っています。身代わり不動とからくり人形が見られる寺としても知られています。
 天文9年(1540)、古渡城主・織田信秀が、現在の桜天神の地に、信秀の叔父である雲興寺8世・大雲永瑞和尚を開山に迎えて創建しました。天文21年(1552)信秀の葬儀の際、荒縄の帯姿の息子・信長が焼香の時に抹香を手づかみにして位牌に投げつけた事件はこの寺で起きています。
 慶長15年(1610)名古屋城築城にあたって、徳川家康の命により現在の地に移転しました。尾張徳川家朱印寺として篤く信仰され寺運も栄えました。藩祖・徳川義直の正室高原院の葬儀もこの寺で営まれ霊廟も建てられました。



白川公園
名古屋市中区栄
 終戦直後は進駐軍の基地でした。昭和42年に開園した都市公園です。園内にある科学館は天文・理工・生命館からなる科学の殿堂です。美術館はエコールド・パリ、メキシコ・ルネサンス、地元作家の優れた作品を収集、展示しています。



名古屋市科学館
名古屋市中区栄
 我が国でも屈指の9階建ての総合科学館です。プラネタリウムをメインとする天文館、科学の多分野にわたる原理・技術を紹介する理工館、今日の最先端分野である生命科学を扱う生命館からなっています。最上階の9階は遊びの広場となっています。



名古屋市美術館
名古屋市中区栄 2-17-25(白川公園内)
 建物は、地元出身の建築家黒川紀章のデザインによるものです。
 「郷土作家」、「エコールド・ド・パリ」、「メキシコ・ルネッサンス」、「現代美術」の四つの分野にわたって展示されています。
 エコール・ド・パリとは中世写本芸術の一派です。第二次大戦後の抽象主義芸術等、ある時期にパリを中心に活動した芸術家集団一般に対しても使われる呼称ですが、特に第一次大戦前後のパリに集まった一群の芸術家を指します。



大須観音
名古屋市中区大須2-21-47
 もともと尾張国長岡庄大須郷(現在の岐阜県羽島市大須)にあった寺を徳川家康がそのあらたかなる霊験ゆえに当地に移したということです。以後、門前に大須商店街が発展し、名古屋屈指の繁華街となりました。
 正式には北野山神福寺宝生院といい真言宗のお寺ですが観音様と呼ばれ親しまれています。たくさんの鳩が参拝者を歓迎してくれます。 本堂は戦災で焼失しましたが、昭和45年に再建されました。
 大須文庫には国宝の古事記写本などの和漢古書を1万5千冊所蔵しています。古事記 三帖(国宝)、漢書食貨志 一巻(国宝)、ちょう玉集 二巻(国宝)、翰林学士詩集 一巻(国宝)、将門記 (重文)など貴重な本が残っています。

大正琴発祥の地
 大正琴の発明者の森田吾郎(本名 川口仁三郎)は1874年(明治7年)に大須門前町の旅館「森田屋」の息子として生まれました。楽器製造業の傍ら一弦琴と明笛の奏者でもありました。日本と西洋音楽の音階を同時に出すために二弦琴にピアノキーを応用して作った大衆楽器の大正琴を作り出しました。後に三弦に改良しました。9月9日を大正琴の日として、毎年、多くの愛好者によって大正琴大祭が開催されています。



豊国神社
とよくにじんじゃ
愛知県名古屋市中村区中村町木下屋敷
Tel 052-411-0003


 豊国神社は中村公園の中にあり、豊臣秀吉の生誕地を記念して明治18年(1885)に建てられました。秀吉は天文5年(1536年)、木下弥右衛門の子として この地に生まれました。
 豊国神社は地元では「とよくにさん」と親しみを持って呼ばれ、京都市東山区、大阪市中央区、滋賀県長浜市の豊国神社と共に豊国4社と呼ばれているそうです。
 社殿自体は小さく質素なもので、拝殿に向かって右側に秀吉の絵姿が掲げられています。参道入口には昭和4年(1929)の名古屋市編入に際して立てられた「中村の大鳥居」が聳えています。



ノリタケの森
愛知県名古屋市西区則武新町3ー1−36
Tel 052-561-7290


 ノリタケの森は近代陶業発祥の地に陶磁器に関する複合施設として開設されました。この森は、広大な敷地に、文化と出会う、暮らしを楽しむ、歴史の息吹を感じるという3つのゾーンを配し、憩いの場としてリラクゼーションエリアを設けています。
 ノリタケカンパニーリミテドの前身である日本陶器合名会社は明治37年(1904)に森村市左衛門らによって設立されました。工場・本社が建設され食器の生産が行なわれていましたが、ここでの生産が終了し、赤レンガ製の工場などの建造物の活用が検討され、ノリタケの森が誕生しました。
 陶磁器製造工程の見学ができるクラフトセンターや、食器・食卓関連商品のアウトレットショップ、ノリタケ食器を使ったレストラン、カフェ、ミュージアムなどがあります。「緑の都市賞」・国土交通大臣賞や「名古屋市都市景観賞」などを受賞しています。
 オールドノリタケと呼ばれる戦前の陶磁器の名品なども見学したり、ノリタケカンパニーリミテド製の食器を使ったレストランで食事することもできます。シンボルの一つである煙突のクリスマスイルミネーションは知られるところとなりました。



鶴舞公園
つるまこうえん
名古屋市昭和区鶴舞1
 明治42年に、名古屋市営の第1号公園として誕生しました。フランス式の洋風庭園と日本庭園を併せ持ち、洋風庭園には岩組みのあるユニークな噴水塔、バラ園、花時計、奏楽堂など、日本庭園には菖蒲池、胡蝶池、竜ヶ池などがあり、1,200本の桜は「さくら名所百選」にも選ばれています。
 噴水塔は、明治43年、第10回関西府県連合共進会が現在の鶴舞公園を会場として開かれた時に、鈴木禎次の設計によって造られたものです。公園内の名古屋市公会堂、普選壇、とともに市指定文化財となっています。



東山動物公園
名古屋市千種区東山元町3-
 飼育する動物は約600種1万7000にも及びます。国内でも有数規模の動物園です。孫悟空のモデルになったともいわれるサル「キンシコウ」も親子で暮らしています。



名古屋ポートビル
名古屋市港区港町1
 帆船をイメージした港にふさわしい白い建物です。帆の先端にあたる地上53mの所に展望室があり、名古屋港を一望できます。この3階に港と船の博物館、名古屋海洋博物館があります。
 名古屋海洋博物館は、「名古屋港の姿」コーナー、「海と船舶」に関するコーナー、「海と船」のコーナー、名古屋港発展の様子を紹介する「港をつくる」コーナー等の部門に分けて展示しています。



名古屋港水族館
名古屋市港区港町1
 名古屋港ベイエリアに位置する最新技術を駆使した展示が魅力の水族館。メインは北館の長さ60m、幅30m、最大水深12mの巨大のプールです。周囲は3000名収容のスタンドになっていて、イルカのダイナミックなパフォーマンスが見られます。南館では日本から南極まで海域別に紹介しています。



南極観測船ふじ
名古屋市港区港町1
 昭和40年(1965)から18年間、日本初の砕氷船として南極の氷と闘ってきた「南極観測船ふじ」。昭和60年に現役を引退しました。現在は、名古屋港ガーデンふ頭に永久係留されており、外観、船内共に現役で活躍中の頃の姿をそのままに再現し紹介しています。
 船内は、現役で活躍していた当時の姿に再現されていて、南極観測の様子などを紹介しています。また、「南極の博物館」として南極の自然、歴史、昭和基地の暮らしなどを写真パネルやビデオで解説する展示室もあります。



INAXライブミュージアム
いなっくすらいぶみゅーじあむ
愛知県常滑市奥栄町1−130
Tel 0569-34-8282


 INAXライブミュージアムは「窯のある広場・資料館」「世界のタイル博物館」「陶楽工房」の既存の文化施設に、土に関わるワークショップや体験教室を開催する「土・どろんこ館」、ものづくりの未来形を追求する工房「ものづくり工房」が加わり、土からやきものまで、その歴史や文化、美しさや楽しさを体感・体験できる施設です。INAX創業の地、常滑市に平成18年(2006)にオープンしました。
 世界のタイル博物館は紀元前から近代の装飾タイルまで展示するINAXライブミュージアムの中核施設です。オリエント、イスラーム、 オランダ、イギリス、中国、日本など世界の特色あるタイル1000点を展示し、日本で唯一のタイル研究博物館です。
世界のタイル博物館
 タイル研究家故山本正之氏が収集したタイルコレクション6000点が常滑市に寄付され、その管理・研究・公開がINAXに委託されたことから「世界のタイル博物館」が平成9年(1997)にオープンしました。
世界のタイル博物館
 1階には5500年前のメソポタミアから現代に至る装飾空間を再現し、タイルについての基本的な知識を紹介しています。2階には山本コレクションによる7地域に分類したタイルを紹介し、歴史的な装飾タイルの数々を展示しています。
世界のタイル博物館
 れんが造りの大煙突は、日本6古窯の一つ常滑に大正10年(1921)に築かれたものです。大型の倒焔式石炭窯を持ち、かつては土管やタイルなどを焼いていました。昭和61年(1986)から産業遺産として公開しました。
窯のある広場・資料館
 資料館と煙突は平成9年(1997)に国の登録有形文化財に登録されました。平成18年(2006)、タイル製造に使用されていたトンネル窯(1972年築炉)が移築保存されました。建築装飾材「テラコッタ」をはじめ、明治から昭和初期に作られた染付古便器なども展示されています。
窯のある広場・資料館



恋の水神社
こいのみずじんじゃ
愛知県知多郡美浜町奥田中白沢92-91
Tel 0569-87-3133


 恋の水神社は清水「恋の水」が湧いているという恋愛成就の神社で、美都波能女命(みづはのめのかみ)が祀られています。田舎の道のはずれにポツンと建つ小さくて質素な神社です。
 「恋の水」は、延命の神水として万病に効くといわれていました。ここには「桜姫の悲恋物語」の伝説が残されています。大納言桜町成範の娘、桜姫は家臣の青町と恋に落ち駆け落ちしました。青町が病気にかかり、病に効く水があると聞いて、桜姫は、ここに訪れました。しかし水に辿りつけぬまま、息途絶えたそうです。
 この哀しいロマンスは語り継がれ、縁結び神様としても有名になったそうです。この水を酌んで紙コップに願いを書き、拝殿前の「恋の水」をひしゃくですくって、半分ほどそそぎ、神棚に供えると願いがかなうとされています。



野間大坊(大御堂寺)
のまだいぼう(おおみどうじ)
愛知県知多郡美浜町野間東畠ヶ50
Tel 0569-87-0050


 野間大坊は、正式には鶴林山無量寿院大御堂寺(かくりんざんむりょうじゅいんおおみどうじ)という真言宗のお寺です。本尊は阿弥陀如来です。源義朝の最期の地であり、境内には義朝の墓があります。
 大御堂寺縁起には、白鳳時代(645-710)に役行者(えんのぎょうじゃ)が建立、天平年間(729-749)に僧行基により中興され阿弥陀寺と称しました。大同年間(806-810)には空海(弘法大師)が滞在して一千座の護摩を炊き庶民の幸福を祈ったといわれています。
 承暦年間(1077-1081)に白河天皇の勅願寺となり、このとき大御堂寺と改称しています。平治元年(1159年)、平治の乱に敗れて東海道を下ってきた源義朝は、随行していた鎌田政清の舅であった長田忠致の許に身を寄せました。
 永暦元年(1160)、忠致・景致父子は湯殿で入浴中の義朝を欺し殺害しました。この時、義朝は「我れに木太刀の一本なりともあれば」と叫んだとされています。文治2年(1186)平康頼が寺領30町歩を寄進、義朝の供養、小堂を建てました。後に源頼朝は恩に思い、康頼を阿波国麻殖保(おえのほ)の保司に任じたそうです。
 建久年間(1190-1199)、源頼朝が諸堂宇を修営、高野山僧侶による大法会を営みました。文禄年間(1592-1596)、豊臣秀吉が寺領190石を寄進、慶長16年(1611)、徳川家康は寺領250石と山林数十町を寄進、尾張藩祖・徳川義直も堂宇を修営し、寺運は興隆しました。

 野間大坊の鐘楼は建長2年(1250)、鎌倉幕府5代将軍九条頼嗣から寄進されたものです。頼嗣は源氏嫡流による将軍が3代で滅びた後、幕府の実権を握る北条家によって置かれた傀儡将軍でした。同時に寄進された梵鐘は建長2年の銘があり、国の重要文化財に指定されています。
野間大坊鐘楼
 野間大坊の本堂は入母屋造り、瓦葺きで、宝暦4年(1754年)に建てられています。本尊は県指定重要文化財の阿弥陀三尊です。知多四国八十八箇所霊場の札所として、本堂が「大御堂寺」(50番札所)、客殿が「野間大坊」(51番札所)となっています。
野間大坊本堂
 野間大坊の客殿は入母屋造り、銅板葺き、平面は方丈形式で、江戸時代初期に建てられています。延命地蔵と称される地蔵菩薩像を安置しています。慶長3年、家康が伏見城の客殿を寄進しましたが、翌年焼失したため、寛永18年に再建されたもので愛知県の文化財に指定されています。
野間大坊客殿
 野間大坊の大門は源頼朝が寄進した門で、建久元年(1190)10月25日に建てられています。門の周りは柵で囲われていて、通り抜ける事はできません。
野間大坊大門
 野間大坊境内には源義朝の墓があります。義朝は平治の乱で敗れ、落ち延びた先の湯殿で家臣長田忠政に入浴中謀殺されました。「我に小太刀の一本なりともあれば」と悲痛な一言を残しました。その慰霊のために小太刀を献ずる習わしができ、小太刀を模した50cmほどの木片が山のように積まれています。
源義朝の墓
 野間大坊境内には平康頼の墓もあります。平康頼は尾張の国司の目代に任ぜられ、源義朝の墓が誰も顧みる者も無く荒れているのを見て、墓を修理して堂を立て供養しました。この噂は京にも聞こえ後白河上皇や清盛はじめ平家一門の人々からも、武士道の礼節をわきまえた人物として評判を得ました。後に鹿ケ谷の陰謀で俊寛・藤原成経と共に薩摩国鬼界ヶ島へ流されました。
平康頼の墓
 織田信長の3男・織田信孝の墓も建てられています。信長の死後、信孝は岐阜城主でしたが柴田勝家・滝川一益と結び、秀吉と対峙しました。兄・信雄によって、岐阜城が囲まれると、開城して秀吉に降伏しました。安養寺で自刃し、ここ野間大坊に葬られました。世辞「昔より主をうつみの野間なれば、報いをまてや羽柴ちくぜん」
織田信孝の墓
 池禅尼(いけのぜんに)の塚もあります。池禅尼は平忠盛の正室です。平清盛の継母に当たります。崇徳天皇の皇子重仁親王の乳母にもなりました。永暦元年(1160)源義朝の嫡子で13歳の頼朝が平宗清に捕えられました。この時、池禅尼は清盛に対して助命を嘆願したそうです。助命の為に断食をし始めたため、遂に折れて伊豆国への流罪へと減刑したといわれています。
池禅尼の塚



野間埼灯台
のまざきとうだい
愛知県知多郡美浜町小野浦岩成20ー1
Tel 0569-82-1111


 美浜町のシンボル野間埼灯台は、知多半島の野間崎に立つ中型灯台で、野間灯台ともいわれています。設置点灯されたのが大正10年(1921)3月10日で、愛知県内に設置されている40基を越す灯台の中で、最古の灯台です。
 地上から塔頂までは17.9m、標高は20mで、光度は1万5千カンデラ、光達距離は13.5海里(約25km)です。野間埼灯台は、白亜円形の灯台で、伊勢湾を望む風光明媚の地にあるのでデートスポットにもなっています。
 灯台の周りは鉄製の柵で囲まれています。この柵に恋人同士で南京錠を掛けると恋愛が成就するというジンクスを雑誌などが紹介しました。すると永遠の愛を誓って柵に南京錠を掛けるカップルが押しかけ、重みで柵が倒壊したそうです。平成23年(2011)、「絆の音色」というモニュメントが設置され、そこに南京錠が掛けられるようになりました。



三吉記念碑(聖書頌徳碑)
さんきちきねんひ(せいしょしょうとくひ)
愛知県知多郡美浜町小野浦
Tel 0569-82-1117 美浜町商工観光課


 小野浦海岸近くに三吉記念碑が建てられています。三吉とは岩吉、久吉、音吉のことです。天保3年(1832)小野浦を出航した宝順丸は遠州灘で遭難し14ヶ月太平洋を漂流。14人の乗組員のうち、岩吉、久吉、音吉が生き残り、北米のフラッタリー岬に漂着、アメリカ原住民マカ族に発見されました。
 ハドソン湾会社が彼らを引き取り、ロンドンに寄った後、マカオへ行き、ドイツ人宣教師チャールズ・ギュツラフに預けられました。そして世界で最初の邦訳聖書「ギュツラフ訳聖書」を完成させたのです。
 天保8年(1837)途中で乗り換えたモリソン号で日本へ向かいましたが砲撃されて引き返しました。その後、音吉はイギリス軍艦マリナー号で浦賀へ、日英交渉の時は長崎でスターリングの通訳を務め、シンガポールで亡くなりました。



羽豆神社(羽豆崎城跡)
はずじんじゃ(はずざきじょうせき)
愛知県知多郡南知多町師崎鳥東58ー3
Tel 0569-63-0790


 羽豆神社は知多半島の先端部である師崎の羽豆岬に建てられています。祭神は建稲種命(たけいなだねのみこと)で尾張氏の祖先とされている人物です。
 羽豆岬は日本武尊の東征に水軍として従った但馬連の拠点でした。東征の帰途、水軍を統率した建稲種命が水難に遭い、その衣服が岬に漂着しました。それを神として岬上に祀ったのが羽豆神社といわれています。
 「延喜式」にも知多三座の一つとして名を連ねています。社殿は小さく質素ですが祭典には勅使の奉幣があり、重要な官社としての待遇を受けていたようです。
 文和4年(1355)、親昌猶子昌能により修復寄進、応安3年(1370)、宗良親王より御奉幣、永享6年(1434)、加賀守盛貞により造営、明応9年(1500)、田原城主戸田憲光により造営されました。しかし、天正18年(1590)に豊臣秀吉の検地で所領を没収されてしまいました。
 その後、旧に戻され、慶長6年(1601)には尾張藩船奉行・千賀重親により社殿が造営されています。寛永18年(1641)には火災のため焼失し、宝暦10年(1760)に再建されています。「尾張名所図絵」にも記され、繁栄しました。
 三河守護の一色道範(みちのり)が、応永15年(1408)に自ら写経して寄贈した法華経八巻は室町時代写経の代表的な遺品で、羽豆神社が所蔵しており、県指定の文化財となっています。
 羽豆神社の社叢は国の天然記念物に指定されています。参道の両側にはウバメガシの群落があり、海風を受けて根や幹をたわめ、枝が交錯してトンネル状の珍しい景観を形づくっています。まさに暖地性常緑樹林の宝庫です。
羽豆神社社叢
 羽豆崎城は羽豆神社と同じ場所にありました。古くは日本武尊の東征の見張り所がありました。南北朝時代に熱田神官の大宮司千秋昌能が自ら南朝方につき、拠点として守ったそうです。足利勢に東海道を押さえられた後、海上で東国から吉野に入る中継地となりました。南朝が衰えると、足利一族の一色氏が支配し代官として佐治氏が入城しました。その後、千賀氏が佐治氏の陣代として入城しました。そして千賀氏の師崎水軍の活躍が始まりました。大阪の陣を終え、近くに屋敷を構えたため廃城になりました。
羽豆崎城跡


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