直線上に配置

更新日:  



あなたは

番目の訪問者です
(ogino作成共通カウント)



旅と歴史ホームページ

OGIさんのHP

信州上田ホームページ

信州長野ホームページ

真田一族のホームページ

Mr.ogino旅ホームページ

上田の旅と歴史HP

信州の旅HP

日本の旅

世界の旅HP



日本の旅
東尾張の旅          岡崎・吉良・豊川

桶狭間古戦場
愛知県豊明市桶狭間


 戦国時代に駿河、遠江、三河に強力な勢力をもつ今川義元が天下をめざして永禄3年(1560)5月19日に大軍を率いて京都に向って進撃中でした。織田信長は小勢をもって、桶狭間にいる今川の本陣を奇襲し、義元を討死させた戦場跡です。田楽狭間、または館狭間とも呼ばれていた場所でした。
 夕立の中、太子ヶ根にいた信長は、一挙に義元の本陣めがけて切り込みました。服部小平太が、槍で義元を刺し、毛利新助が首を取ったそうです。2時間という一瞬の戦いでした。ここで戦死した人は、今川軍2500人、織田軍830人ぐらいだったそうです。
 今川治部大輔義元の墓です。以前は塚だったそうです。 明和8年(1771)に建てられた今川義元、松井宗信のほか5人の武将の碑である「七石表」が残されています。文化6年(1809)には桶狭間弔古碑が建立されました。散在していた史跡を整備して昭和63年桶狭間古戦場公園として整備されました。



刈谷城址
亀城公園
愛知県刈谷市城町


 刈谷城は、天文2年(1533)年に、この地域の藩主であった水野下野守右衛門太夫忠政によって築かれました。水野氏は、今川方に属していましたが、忠政の跡を継いだ信元は、尾張で勢力を伸ばしつつあった織田氏に属しました。
 亀城公園は、旧刈谷城の本丸と2の丸の一部にあたります。刈谷城は亀城とも呼ばれ、徳川家康の生母「於大の方」の育った城なのです。
 桶狭間の戦ののち敗走する義元の重臣岡部元信により城は焼かれてしまいますが、慶長5年(1600)年に水野忠重により再建されました。その後、水野、松平、稲垣、阿部、本多、三浦と城主が代わりました。土井氏が2万3千石で廃藩置県まで在城し、取り壊されました。
 於大は初代城主水野忠政の娘として、14歳で岡崎城主松平広忠に嫁すまでの8年間をここで過ごしました。しかし、岡崎城で竹千代 ( 後の徳川家康 ) を生んだ後、水野氏が、今川方をから織田方についたため、今川方の松平氏とは絶縁となりました。
 天文13年(1544)、於大は刈谷に返されました。刈谷城の隣の椎の木屋敷というところに住み、桶狭間の戦い後まで竹千代とは会えませんでした。


刈谷市郷土資料館
刈谷市城町1丁目25
 刈谷城外郭にあります。旧亀城小学校の本館で、昭和初期に建てられた建物です。外観は鉄筋コンクリートなのに床や屋根は木造、瓦葺で、当時としてはめずらしい洋風建築で貴重な建物です。刈谷の文化遺産や考古・歴史民族資料が展示されています。



乾 坤 院
けんこんいん
東浦町緒川沙弥田4


 山門をくぐり抜けると総門があり,この二つの門は緒川城(小川城)を知る唯一の遺構となっています。乾坤院は,正式には曹洞宗中本山宇宙山乾坤院といいます。この寺は緒川水野氏の菩提寺で、文明7年(1475)に初代城主水野貞守(さだもり)が創建した寺です。
 四代忠政・五代信元の時代になると、水野氏は積極的に刈谷・知多半島へ進出しました。乾坤院も水野一族からの寄進を受けて、諸堂を整備し経済的安定を得ました。忠政の娘は家康の生母於代の方です。於代の方から三里四方の山林の寄進を受けたという記録も残っています。
 天正3年(1575)佐久間氏の讒言で織田信長の怒りに触れ信元は殺されてしまいました。これにより水野氏の緒川支配は一時中断しました。その後、豊臣の時代に入ると、太閤検地が行われ、乾坤院のそれまでの寺領はほとんどなくなってしまいました。
 江戸時代の乾坤院は、唯一の檀家水野氏の菩提寺として、尾張・三河・遠江に61寺の末寺を擁する曹洞宗中本山の名刹になりました。寛文10年(1670)岡崎城主水野忠善は、曽祖父忠政の御霊屋「堅雄堂」を建て、忠政から忠善にお至る四代の墓を建立しました。
 徳川家康の母於大が水野忠政の娘であったことから、水野家の子孫は譜代の名門として幕府の要職に就く者も多かったようです。天保の改革を行った老中水野忠邦も重用された一人でした。


宇宙稲荷神社
 乾坤院の総門を入り右手奥にある宇宙稲荷殿は知多民話「きつねの嫁入り」発祥の稲荷と云われているそうです。



華 蔵 寺
けぞうじ
幡豆郡吉良町岡山山王山58


 金星山華蔵寺は花蔵寺村(現西尾市)にあったと伝えられています。吉良氏は鎌倉時代から西尾の実相寺が菩提寺でした。江戸初期に華蔵寺は吉良家の菩提寺となり、吉良家十三代から十八代までの墓を護っています。 
 吉良家は足利氏の名門で、鎌倉初期に足利義氏が三河守護になり、吉良荘(現在の西尾市・吉良町)に住み吉良家を称しました。室町中期には有力大名の一つとなり、室町幕府を支えました。そして、江戸期には旗本高家に列しました。 
 華蔵寺は江戸期南画の第一人者とされる池大雅の襖絵「花桜禽鳥図」、木額、書などを所蔵しています。また、本堂裏の枯滝、枯池が配された枯山水庭園は、小堀遠州流といわれ古来から著名です。
 本堂西の御影堂(みえいどう)には、吉良義央公の木像(県指定文化財)がまつられ、元禄3年(1690)に義央公自らが彩色したと伝えられています。吉良氏で従四位上に叙せられた義定、義安、そして自像を安置しています。 
 吉良上野介義央の墓です。吉良義冬の子で、母は酒井忠吉の娘です。徳川実紀には吉良が勤めを見習うべしと称えられています。「黄金堤と」「富好新田」は、義央が名君であった証とみられています。江戸城松の廊下での事件で赤穂浪士四十七士によって仇討ちされました。
 貞亨3(1686)年、領地の水害問題を憂慮して西尾藩主土居利意と話し合いをして瀬戸の山と岡山の山間に長さ180m、高さ4mの堤防を築かせました。川の氾濫がなくなったことから領民は「黄金堤」と呼んだそうです。
 元禄元年(1688)、妻富子の重い眼の病の回復を祈り身延山久遠寺で17日間祈願しました。この時、払地に開田(新田開発)を行うと誓いました。富子が快方にむかうと、元禄3年(1690)に吉良町小山田の砂丘を開田したということです。これが「富好新田」の由来です。
 元禄15年12月14日、本所松坂町吉良邸が、大石内蔵助良雄ら赤穂浪士に討ち入られました。吉良上野介は物置に隠れましたが発見され、間十次郎に槍で突かれ、武林唯七に斬りつけられ絶命しました。その首は浪士らにより泉岳寺の長矩の墓前に供えられました。のちに寺社奉行の指示により首は吉良家に戻され、栗崎道有に遺体と首を縫い合わせて江戸牛込の万昌院に葬られたといわれています。享年62歳でした。



花 岳 寺
かがくじ
幡豆郡吉良町岡山
 花岳寺は東条吉良氏の菩提寺として知られています。室町時代の初期、貞和3年(1347)現西尾市実相寺の佛海禅師が、花岳寺を真言宗から臨済宗に変えました。 それ以後、吉良氏の保護を受けて室町時代を通じて栄えました。 江戸時代になっても、華蔵寺とともに吉良氏ゆかりの寺として隆盛を極めました。
 花岳寺には後柏原(ごかしわばら)天皇自らがお書きになったお手紙である後柏原天皇宸翰御消息(しんかんごしょうぞく)があります。昭和55年に重要文化財に指定されました。吉良義冬公の寄進と伝えられています。




はず観音
幡豆郡幡豆町東幡豆字森
 「はず観音」で親しまれている幡豆観音妙善寺は幡豆の港の砂浜を前にして建っています。山門には大数珠がかかり、「中風除き観音」「百寿かぼちゃ観音」の派手なノボリが何本もたっています。
 寺の和尚様が夢の中でお告げで浜に出てみるとカボチャが流れてきたといいます。それ以来カボチャが病いを癒すとして、カボチャ供養をしたといいます。これはお告げのカボチャという伝説になっています。
 縁側には、奉納された大きなカボチャがたくさん並んでいます。境内には、槙の大樹があり、その下に「ぼけ封じ観音」が、また、本堂右手に「百寿かぼちゃ観音」がまつられています。中風除け観世音菩薩、白壽観世音菩薩など、いろいろな観音様がいらっしゃいます。



愛知こどもの国
幡豆郡幡豆町
 



天文11年(1542)松平竹千代(徳川家康)が生まれた城
岡崎城
岡崎市康生町
 岡崎城は康正元年(1455)三河守護代の西郷稠頼(つぎより)が築きました。。その後、加茂郡松平郷の松平氏が西郷氏と縁組みして岡崎城に入りました。大永4年(1524)に安祥松平氏の清康が三河を支配しました。清康は家臣に殺害され、その子、忠広は今川・織田に挟まれ今川家の属領となります。忠広は子の竹千代(徳川家康)を人質に出さなければなりませんでした。

 今川義元が桶狭間の戦いで討死すると、岡崎城を家康が獲り返し、松平家は再び自立することができました。1570年に家康は本拠地を遠州浜松城に移し、城を長男・信康に譲りました。その後、信康は織田信長によって自害させられました。1590年に徳川家が関東に移封させられると、田中吉政が城主となりました。関ヶ原の戦いの後は本多氏・水野氏・松平氏など徳川家の中でも家格の高い大名が城主となりました。

 明治6年〜7年にかけて取り壊しとなりましたが、昭和34年に三層五重の天守閣と井戸櫓、附櫓が86年ぶりに復元されました。ここは平成元年「日本の都市公園百選」に、平成2年には「さくらの名所百選」に選ばれました。二の丸能楽堂、巽閣、茶室葵松庵と城南亭、からくり時計、徳川家康公銅像、龍城神社、元康像、五万石藤などみどころがいっぱいです。
本多忠勝公之像



随念寺
ずいねんじ
愛知県岡崎市門前町91ー1
Tel 0564-22-5481


 仏現山随念寺は浄土宗のお寺で、永禄5年(1562)、徳川家康が祖父・松平7代清康とその妹の於久の菩提をとむらうために創建しました。
 開基は松平家・徳川家の菩提寺である大樹寺の15世の磨誉魯聞(まよろぶん)上人を招聘しました。随念寺という寺号は於久の法名随念院からつけられました。
 於久は、家康の第2の母というべき存在で、家康が生母 於大と生き別れをして以来、家康を養育しました。清康は、天文 4年(1535)、尾張への勢力拡大を狙った守山の陣中で、家臣の阿部弥七郎に惨殺されています。本堂裏手にある清康と久子の廟所があります。
 本堂は元和5年(1619)、22代将軍秀忠によって再建された建物です。三河浄土宗本堂の中では最古のものといわれています。庫裡・書院は明治6年(1873)に額田郡へ移され、額田郡第一番小学岡崎学校、町立岡崎高等小学校の校舎として使われました。



茅原沢神明宮
ちはらざわしんめいぐう
愛知県岡崎市茅原沢町新井8


 茅原沢神明宮は岡崎市の山間部にある岡崎市立河合中学校のそばに建てられています。常夜灯の後ろに鳥居があり、階段の上には拝殿、本殿と続いています。村社として人々の信仰を集めてきました。
 茅原沢神明宮の社叢は岡崎市の文化財に指定されています。アラカシを主とした照葉樹林で、乙川と男川の合流付近の565平方mです。愛知県の環境保全地域にも指定されています。
 県下では稀なトチュウヒメシャラやヒメシャラがかなり多く混生しているのは注目に値します。トチュウヒメシャラはヒメシャラの1種で、葉の両面に毛の多い東海地方独特の品種です。



天恩寺
てんおんじ
愛知県岡崎市片寄町山下33
Tel 0564-82-2433


 天恩寺は臨済宗妙心寺派のお寺で、岡崎市の中心街から15km程東にある旧額田町に建てられています。名匠安阿弥作の本尊、延命地蔵菩薩が祀られる三河地方の中心的な名刹です。
 建武2年(1335)、矢作川の戦いに敗れた足利尊氏が、この額田の地に退き、延命地蔵に「明日の戦に勝利を得せしめ給えば必ず報恩のためこの地に一寺を建立し奉る」と戦勝祈願をしました。そして願いが叶い翌日の戦に大勝し、将軍となり室町幕府を開くことができました。
 しかし、尊氏が生きているうちに寺を建立することができませんでした。遺言により、室町幕府3代将軍足利義満が、貞治元年(1362)に天恩寺を創建し、寂質元光(じゃくしつげんこう)上人を開山としました。
 15世紀には松平氏と奥平氏の抗争に巻き込まれ、戦国の騒乱で荒廃します。天正19年(1591)長篠城主・奥平信昌によって中興され、江戸時代には79石の寺領を持ち、この地方の中心的な寺院として栄えました。
 天恩寺の山門は日本最古の薬医門で国の重要文化財に指定されています。桁行1間、切妻造り、こけら葺きで、仏殿よりやや遅い室町期の建立といわれています。本柱の内側に2本の控柱が建つ複雑な構造になっています。
天恩寺山門
 天恩寺の仏殿は地蔵堂ともいわれ、室町初期の代表的建築物です。桁行3間、梁間3間、1重、入母屋造り、檜皮葺きで、創建された貞治元年(1362)の建立で、明治40年(1907)に山門とともに国の重要文化財に指定されています。
天恩寺仏殿
 方3間の唐様仏殿は内外とも素木造りです。唐様の須弥壇は高欄親柱、軒下の斗束(とつか)など他に類のない変わった手法をとっています。脇壇も上の葵形、彫刻など室町初期を代表する秀作です。
天恩寺仏殿
 天恩寺には天然記念物に指定されている「見返りの大杉」があります。家康が長篠合戦出陣の際、天恩寺で休息中、武田方の刺客に襲われました。仏殿本尊の延命地蔵の霊感で危うく難を逃れることができ、家康は地蔵菩薩に感謝し、馬上から何度も杉の木を見返りつつ戦場へ向かったそうです。
天恩寺見返りの大杉



八柱神社
やはしらじんじゃ
愛知県岡崎市欠町字石ケ崎52
Tel 0564-21-3129


 八柱神社は徳川家康の正室であった築山御前の首塚があることで知られています。八柱神社が創建された年代は不詳ですが、紀伊熊野にいた清和源氏の流れをくむ鈴木一族が、源平合戦の際に難を逃れて三河国に移住し、熊野権現を祀ったのが始まりといわれています。
 以来、鈴木氏の氏神として崇敬され、欠町の鎮守の神様として崇められるようになったようです。明治5年(1872)村社に、明治42年(1909)に神饌弊帛料供進神社の指定を受け、昭和4年(1029)に御鍬神社を合祀、昭和9年(1934)に欠町広見西通りより欠町石ヶ崎に移転遷宮し、築山明神宮を本殿下陣に合祀しています。
 築山御前の首塚は老杉に囲まれ、境内から西側に下ったところにあります。築山御前は関口刑部少輔義廣の娘「瀬名姫」で今川義元の養女になり家康の正室になり、長男の信康を産みました。永禄3年(1560)、桶狭間合戦で義元が討死し、信康は、織田信長の娘徳姫と結婚し、家康が浜松城に移った元亀元年(1570)岡崎城主となりました。
築山御前首塚
 信長は、信康の母築山御前が今川方の出身であり、武田方と内通の嫌疑をかけ、築山御前と信康の処断を家康に迫りました。信康は二俣城で自刃、築山御前は天正7年(1579)、家康の命で浜松城西来寺で殺害されてしまいました。その後、岡崎城代・石川数正により埋葬されし築山神明宮を勧請しました。
築山御前首塚



岡崎市郷土館
おかざきしきょうどかん
(旧額田郡公会堂及び物産陳列所)
きゅうぬかたぐんこうかいどうおよびぶっさんちんれつじょ
愛知県岡崎市朝日町3丁目36ー1
Tel 0564-23-1039


 岡崎市郷土館は昭和44年(1969)にオープンしました。岡崎市と周辺地域の資料が、収集・展示されています。郷土館本館の建物は、大正2年(1913)に額田郡(ぬかたぐん)公会堂として建てられ、大正5年(1916)、市制施行により岡崎市の中央公会堂となりました。
 収蔵庫として使用されている本館裏手の建物は、額田郡物産陳列所として本館と同時期に建築されたもので、2つの建物が一組で現存する数少ない例として貴重で、平成11年(1999)に国の重要文化財に指定されています。
 設計監督者は、鳥取県工手として明治40年(1907)に国の重要文化財の仁風閣を手がけた愛知県土木技手、吉田榮蔵です。日本独自の建築手法に、洋風建築への過渡期の表れと洋風意匠の多様性を示した遺構として注目されています。
 本館は北を正面とする木造平屋建て、桟瓦葺きの建物です。主屋部分は、旧講堂を中心に、前面中央に玄関、東西両翼に控え室を配置しています。正面ポーチ上の手すり飾りや半円形の切妻(きりづま)が施された彫刻、天井四隅の紋様に当時の洋風様式を取り入れています。
 収蔵庫(旧物産陳列所)は、木造平屋建て、桟瓦葺きの建物です。正面両翼をわずかに突き出したコの字型の平面です。屋根は切妻造りで、屋根妻面の軒を大きく持ち出し、妻壁を半円アーチと持送りで飾っています。四つ葉のクローバー型の花窓が特徴です。



六所神社
ろくしょじんじゃ
愛知県岡崎市明大寺町耳取44
Tel 0564-51-2930


 六所神社は徳川氏の祖、松平氏の産土神(うぶすながみ)として古くから崇敬を集めた古社で、本殿・幣殿・拝殿・楼門・神供所が昭和10年(1935)国の重要文化財に指定されています。
 六所神社は第37代斉明(さいめい)天皇の勅願により、奥州鹽竈(しおがま)の六所大明神を歓請して創建されたと伝えられています。この六所神社には猿田彦命・塩土老翁命・事勝国勝長狭命の3神の分祀を受けて祀られました。
 岡崎城主・松平氏は代々崇敬し、徳川家康誕生の折に産土神として拝礼しました。家康は慶長7年(1602)に62石の朱印領状を下し、2年後の慶長9年には社殿造営を行っています。
 3代将軍家光は寛永11年(1634)、松平信綱を代参させ社領100石を寄進しました。また同年から寛永13年(1636)にかけ、岡崎城主・本多忠利を奉行として社殿と神供所を造営しました。本殿、幣殿、拝殿を連結し、華麗な彩色を施した権現造りの社殿はこの時に建立されたものです。
 明治43年(1910)神社の合祀策が行われ、天白神社、朝日神社、事比羅神社、稲荷社、およびその境内社であった八幡社、天白社、白山社、高宮社、先駆社を合祀して高宮神社と改めました。大正11年(1922)に再び六所神社に改称して現在に至っています。
 六所神社の拝殿は、桁行5間、梁間3間、1重、入母屋造り、正面千鳥破風付き、向拝1間、唐破風造り、銅板葺きです。寛永11年(1634)から寛永13年(1636)にかけて建立され、本殿、幣殿、拝殿を連結した権現造りです。華麗な彫刻、彩色の装飾が施され、国の重要文化財に指定されています。
六所神社拝殿
 六所神社の幣殿は、桁行2間、梁間1間、1重、両下(まか)造り、銅板葺きです。寛永11年(1634)から寛永13年(1636)にかけて建立されました。大工棟梁は藤原長次でした。華麗な彫刻、彩色の装飾が施され、国の重要文化財に指定されています。
六所神社幣殿
 六所神社の本殿は、3間社流造り、銅板葺きです。拝幣殿と同じく寛永11年(1634)から寛永13年(1636)にかけて建立された建物です。国の重要文化財に指定されています。寄棟造り、板葺きの1間厨子6基が昭和31年(1956)に追加で指定されています。
六所神社本殿
 六所神社の楼門は、3間1戸楼門で入母屋造り、銅板葺きです。本殿建立より50年あまり後の貞享5年(1688)に徳川家綱によって金千両で建てられています。昭和48年(1973)に修復中、墨書が発見され建立年代が判明しました。国の重要文化財に指定されています。
六所神社楼門
 六所神社の神供所(しんぐしょ)は、桁行5間、梁間2間、1重、入母屋造り、こけら葺きです。神供所は現在の社務所にあたります。建築手法は簡単で地味ですが、江戸時代初期の手法を示す絵様、彫刻が施してあります。3代将軍家光が寛永11年(1634)から寛永13年(1636)にかけて建立させました。国の重要文化財に指定されています。
六所神社神供所



勝鬘寺
しょうまんじ
愛知県岡崎市針崎町朱印地3
Tel 0564-51-3443


 寂光山勝鬘寺(しょうまんじ)はJR岡崎駅の西口から、西尾街道と呼ばれる県道を南へ1kmほどいった所にあります。正嘉2年(1258)、三河における最初の真宗道場として、信願房了海によって創建されました。
 当時は矢作川沿いの赤渋にあり、9世・了顕の時には隆盛を極めましたが、水害のため明応5年(1496)に現在地に移転しました。
 永禄6年(1563)、13世・了意の時に三河一向一揆が起こりました。主君徳川家康に叛旗を翻した本願寺門徒の家臣と、家康方に組みした家臣とが敵味方に分かれて戦ったのです。
 勝鬘寺と本證寺(安城市野寺町)、上宮寺(岡崎市上佐々木町)は、三河三ヶ寺と呼称され、松平広忠(家康の父)の代に守護使不入の特権を与えられていました。それを家康の家臣が無視したというのが一向一揆の発端だったようです。
 本證寺第10世空誓(蓮如の孫)が中心となり、勝鬘寺には蜂谷半之亟らが立て籠りました。門徒側には、家康の家臣の本多正信(後の家康の参謀)、蜂屋貞次(徳川16神将)、夏目吉信(三方ヶ原戦役で家康の身代りで討死)なども参加していました。
 蜂谷らは数ヶ月に渡って籠城しましたが、家康によって制圧され、伽藍は炎上しました。その後、家康の許しを得て再建され、末寺道場数は百数十ヶ寺にまでなったそうです。勝鬘寺境内は岡崎市の文化財に指定されています。



土呂八幡宮
とろはちまんぐう
愛知県岡崎市福岡町字南御坊山19
Tel 0564-52-6544


 土呂八幡宮は奈良末期から平安初期に京都から下ってきた神官によって創建されたといわれています。往時は末社、随身門、神宮寺を伴った大きな勢力だったようです。
 応仁年間(1467-1469)に蓮如上人が土呂八幡宮の神明社の側に本宗寺を建て、三河本願寺派の主要な寺院にしました。永禄6年(1563)、三河一向一揆の拠点となった本宗寺は、家康に抵抗したたため、翌年兵火で焼失し破却され、本願寺派は三河から追放されてしまいました。
 この時、土呂八幡宮や神宮寺は本宗寺とともに灰塵に帰してしまいました。現在の社殿は徳川家康の命によって元和5年(1619)、石川数正によって再建されたものです。本宗寺も家康の生母・於大の方の姉妹で、石川清兼の妻であった妙西尼(妙春尼)の嘆願で許され、土呂殿本宗寺として美合に移され今日に至っています。
 土呂八幡宮本殿は元和5年(1619) 代官畔柳寿学が、伊勢の大工河北次郎兵衛定守に命じて再建したものです。三間社流造り、桧皮葺きで、木鼻などの意匠にこの地方の室町時代後期の古風な形式で造られました。昭和6年(1931)、国の重要文化財に指定されています。
土呂八幡宮本殿



上地八幡宮
うえじはちまんぐう
愛知県岡崎市上地町字宮脇48
Tel 0564-52-6145


 上地八幡宮の創建は不詳ですが、社伝によると、源頼朝の命により、平家追討で西国に向かっていた源範頼が、この地の豪族大見藤六の屋敷に立ち寄り、庭に鎮座する小祠に戦勝祈願をしたそうです。
 平家滅亡を果たし三河守護に任じられた範頼は、建久元年(1190)、願をかけた祠(八幡社)を立派な社殿に寄進造営したと伝えられています。社殿は、南向きに建てられ、拝殿の後方に本殿を置き、透塀で囲んで神域をつくり、その正面に中門が建てられています。
 上地八幡宮の本殿は、岡崎市内の神社の中で最も古い建物とされ、国の重要文化財に指定されています。本殿は桁行2.76m、梁間3.01m、三間社流造り、檜皮葺きです。永禄6年(1563)の三河一向一揆の際の兵火を免れた室町時代後期の建立とみられています。
上地八幡宮本殿
 本殿は江戸時代の明暦元年(1655)に、修理の手が加えられ、元禄13年(1700)の修理では彩色塗が施されたようです。主柱は丸柱で、組物に舟肘木を用い、内部は前室と内陣の2室に分けられています。庇柱は角柱で組物は出三斗を用いています。土呂八幡宮本殿とは平面形式や意匠などに多くの共通点がみられます。
上地八幡宮本殿



妙源寺
みょうげんじ
愛知県岡崎市大和町字沓市場65
Tel 0564-31-5402


 桑子山妙源寺は浄土真宗高田派のお寺で、念信房蓮慶(れんけい)が正嘉2年(1258)に創建しました。蓮慶は、もとは安藤薩摩守信平といい、碧海郡桑子城の領主でした。
 文暦2年(1235)、親鸞聖人が関東より帰京の際、城内の太子堂(柳堂)に招き、説法を聞きました。この教えに感化され武門を捨て、城を弟の親行に譲り、出家して親鸞の弟子になったそうです。
 正嘉2年(1258)、城地の一画に一宇を創建、明眼寺と名付け、恵心僧都(えしんそうず)作の阿弥陀如来像を本尊として安置しました。この像はのちに徳川家康の念持仏となり、さらに東京芝の増上寺に安置された黒本尊です。
 以来、三河念仏発祥の寺として隆盛をきわめ、近隣に数十の末寺を有しました。永禄6年(1563)の三河一向揆の時、徳川に味方し家康はこの寺に難を避けたといわれています。慶長8年(1603)、家康は朱印領30石を寄進し、妙眼寺の寺号を与え、のちに妙源寺と改めたそうです。
 妙源寺柳堂は本堂の南東にあり、桁行3間、梁間3間、1重、寄棟造り、檜皮葺きの太子堂です。正面に1間の向拝を付し、組物は和様で、内部に来迎柱を建てて須弥壇を設けています。軒は深く、細部に鎌倉時代末期の手法を伝え、明治36年(1903)、国の重要文化財に指定されています。
妙源寺柳堂
 柳堂は開山した蓮慶が河内国安部郷からこの地に移住の際持参した自作の聖徳太子木像を安置するために建立しました。現在の建物は正和3年(1314)に再建されたものです。その後700余年、基礎を移さず柱梁もそのままで、往時の面影を伝えています。この太子堂を柳堂と呼ぶのは昔、堂の前に大きな柳の木があったことに由来しています。
妙源寺柳堂



満性寺
まんしょうじ
愛知県岡崎市菅生町字元菅57
Tel 0564-21-5645


 田生山満性寺は、浄土真宗高田派のお寺で、妙源寺とともに由緒ある古刹です。正応2年(1289)了専という僧が一宇を建立したのが始まりです。了専は、親鸞の孫弟子で、河内国から兵火を逃れてこの三河に移り住んだといわれています。
 足利尊氏が上京の際、太子堂へ詣で、武運長久の祈願をしたそうです。この時代、太子は弓矢の守護神として信仰されていました。尊氏は暦応5年(1342)には伽藍を修築したそうです。永縁6年(1563)の三河一向一揆の時は、家康に味方しています。
 境内地は1500余坪あり、元和元年(1615)に建てられた本堂のほか、山門、太子堂、経蔵、庫裏、書院などがあり、寺観が整っています。文化財に指定された古文書、古画、宝物類も数多く所蔵し、毎年8月7・8日の両日には宝物展が開催されます。



大樹寺
だいじゅじ
愛知県岡崎市鴨田町広元5ー1
Tel 0564-21-3917


 成道山大樹寺は浄土宗のお寺で、徳川将軍家の祖松平家の菩提寺として知られる名刹です。安城城主で松平4代・松平左京亮親忠(ちかただ)が、文明7年(1475)、勢誉愚底(せいよぐてい)上人を開山として創建しました。
 親忠は応仁元年(1467)での井田野の合戦で多くの戦死者が出て悪疫が流行したことで敵味方の別なく千人塚をつくり、勢誉愚底に帰依し、熱心な念仏者になったそうです。そして大樹寺を創建したようです。
 天文3年(1534)家康の祖父に当たる7代・松平清康が七堂伽藍、多宝塔を造営しました。また3代将軍家光は寛永15年(1638)から3年かけて、大方丈、三門、総門、鐘楼などの諸堂宇を再建しました。
 安政2年(1855)、火災が発生し多宝塔、鐘楼、四脚門を除く他の堂宇がことごとく焼失しました。安政4年(1857)、13代将軍家定により再建されました。
 家康19歳の時、桶狭間の戦で今川義元が織田信長に討たれました。大高城から大樹寺に逃げ帰り、先祖の墓前で自害しようとした時、大樹寺住職登誉天室上人は家康に「厭離穢土(おんりえど) 欣求浄土(ごんぐじょうど)」と説き、思いとどめさせました。
 戦国の乱世の世を住みよい浄土にすることがあなたの役目であると、浄土念仏の尊さを悟したのです。以来、家康はこの8文字を座右の銘としたそうです。
 この時び家康を追う織田方の野武士たちが大樹寺を囲みました。「厭離穢土欣求浄土」の旗を立て、太刀無双の寺僧祖洞が70人力という怪力で、門の貫木を引き抜いて奮戦し敵を打ち払ったそうです。家康はこの貫木を「御貫木神」として奉祀させました。今もこの貫木は大樹寺に安置されています。
 大樹寺の三門は、三代将軍家光が寛永18年(1641)に鐘楼・総門とともに建立したもので愛知県の文化財に指定されています。正面に掲げられた「大樹寺」の額は後奈良天皇(在位1536-1557)の筆で、楼上には釈迦三尊・十六羅漢木像を安置しています。
大樹寺三門
 大樹寺の多宝塔は、天文4年(1535)松平清康が建立したもので、国の重要文化財に指定されています。多宝塔とは仏塔の一形式で、平面が下重方形、上重円筒形、上下の連続部が饅頭形の二重塔のことです。一層は方形、二層は円形の格調高い多宝塔です。大樹寺の建物の中では最も古い建物で、足利末期に造られた大変美しい塔です。
大樹寺多宝塔
 檜皮葺き(ひわだぶき)の3間多宝塔で、下層は方3間、総円柱、斗組二手先尾垂木(ますぐみふたてさきおだるき)付としています。上層は白漆喰塗りの亀腹(かめばら)上に円形の塔身を立て、四手先(よてさき)で軒をささえています。鉄製相輪(そうりん)を上げ、軒隅には風鐸(ふうたく)がつるされています。
大樹寺多宝塔
 塔内部には禅宗様の須弥檀を置き、その上には春日厨子を据え、本尊の多宝如来像を安置しています。内外とも素木造りで、蟇股(かえるまた)や拳鼻などの絵様および彫刻、その他の細部様式は古風で丁寧に造られていて室町時代末期の手法を示しています。
大樹寺多宝塔
 墓地の北奥には岡崎市指定史跡の松平八代墓が建てられています。三河松平氏初代親氏(ちかうじ)、泰親、信光、親忠、長親、信忠、清康、家康の父親の広忠の墓です。
松平八代墓



滝山寺
たきさんじ
愛知県岡崎市滝町字山籠107
Tel 0564-46-2296


 吉祥陀羅尼山滝山寺は、天台宗のお寺で鬼まつりで有名です。朱鳥元年(686)、天武天皇の勅願により、役小角(えんのおづぬ)が薬師如来をまつり吉祥寺と名乗ったのが始まりといわれています。
 のちに寺運が衰えたのを、保安年間(1120-1123)に比叡山の僧・仏泉永救が再興したといわれています。平安時代末期から鎌倉時代初期の住職であった寛伝(1142-1205)は源頼朝の従兄弟であったため、鎌倉幕府から庇護されたそうです。
 建久年間(1190-1199)には頼朝より、寺領412石の寄進を受け、南北朝時代には 足利尊氏の庇護を受け繁栄しました。しかし、天正18年(1590)、徳川家康が江戸に入府し、岡崎城主となった田中吉政によって寺領を没収されてしまいました。
 寛永18年(1641)、3代将軍家光が寺領を戻し、正保2年(1645)、寺域内に東照宮を勧請し、さらに200石を加え繁栄しました。この滝山東照宮は日光東照宮、久能山東照宮とともに「日本三東照宮」に数えられています。
 滝山寺は滝山東照宮の別当寺となっていましたが、明治6年(1873)の神仏分離により、滝山東照宮は独立し、別法人となっています。滝山寺の本堂と三門、鎌倉初期作の木造観音菩薩、梵天、帝釈天立像が国の重要文化財に指定されています。
 滝山寺の三門は3間1戸楼門で入母屋造り、こけら葺きです。鎌倉時代の文永4年(1267)、飛騨の工匠藤原光延の建立と伝えられています。屋根は反りが鋭く腰は高欄をめぐらした回縁を設け、隅柱の肘木に絵模様彫刻があるなど天竺様式になっています。明治34年(1901)国の重要文化財に指定されています。
滝山寺三門
 滝山寺の本堂は桁行5間、梁間5間、単層、寄棟造り、檜皮葺きの薬師堂です。鎌倉時代の貞応元年(1222)、美濃国平野荘の住人、太郎大夫橘宗春が工匠となって再建したと伝えられています。和様、唐様、天竺様を取り入れた折衷様式です。虹梁・蟇股・木鼻などに鎌倉時代の特色を残しています。明治37年(1904)国の重要文化財に指定されています。
滝山寺本堂



滝山東照宮
たきさん とうしょうぐう
愛知県岡崎市滝町字山籠117
Tel 0564-46-2516


 滝山東照宮は江戸時代に滝山寺の境内に勧請された東照宮で、日光東照宮、久能山東照宮とともに「日本三東照宮」に数えられています。 滝山寺は滝山東照宮の別当寺となっていましたが、明治6年(1873)の神仏分離により、滝山東照宮は独立し、別法人となっています。
 3代将軍家光は家康が生まれた岡崎城近くに東照宮を観請したいと考え、正保2年(1645)、酒井讃岐守忠勝、松平右衛門大夫正綱、青龍院亮盛の3人に命じて滝山東照宮の起工をさせ、翌年完成させました。
 大正5年(1917)、白山社、日吉社を合祀して常磐神社と名を変え村社になりました。大正12年(1924)、稲荷社、若一皇子社、荒神社、神明社を合祀しました。昭和29年(1954)、滝山東照宮に名称が戻されました。昭和44年(1969)より2年かけて社殿の復元・大修理が行われました。
 滝山東照宮は滝山寺本堂の東のやや小高い丘に南面して建ち、拝殿と幣殿は凸字形の平面をなし、一段高い所に本殿があります。正保3年(1646)に建立された本殿、拝殿・幣殿、中門、鳥居、水屋は昭和28年(1953)に国の重要文化財に指定されています。
 滝山東照宮の本殿は桁行3間、梁間2間、1重、入母屋造り、向拝1間、銅瓦葺きです。厨子1基が付指定になっています。昭和28年(1953)に国の重要文化財に指定されています。
滝山東照宮本殿
 滝山東照宮の拝殿は桁行3間、梁間2間、1重、入母屋造り、向拝1間、銅瓦葺きです。幣殿は桁行2間、梁間1間、1重、背面切妻造り、銅瓦葺きで、前面は拝殿に接続しています。昭和28年(1953)に1棟として国の重要文化財に指定されています。
滝山東照宮拝殿・幣殿
 滝山東照宮の鳥居は石造りの明神鳥居です。正保2年(1645)に岡崎城主従五位下水野監物忠善が奉納したものだそうです。花崗岩細目青石を使用しており、昭和28年(1953)に国の重要文化財に指定されています。
滝山東照宮鳥居
 滝山東照宮の水屋は桁行1間、梁間1間、1重、切妻造り、銅瓦葺きです。昭和28年(1953)に国の重要文化財に指定されています。また滝山東照宮には家光寄進の太刀銘長光(おさみつ)と家綱寄進の太刀銘正恒(まさつね)があり、国の重要文化財に指定されています。
滝山東照宮水屋



岩津天満宮
いわづてんまんぐう
愛知県岡崎市岩津町東山53
Tel 0564-45-2525


 岩津天満宮は岩津天神、芭蕉天満宮とも呼ばれ、祭神は菅原道真です。岩津山の山頂に芭蕉の葉に乗った菅公が雷鳴の中、稲光とともに降臨したとされています。宝暦9年(1759)に信光明寺の第22代住持・一誉上人が、岩津天満宮を創建したそうです。
 一誉上人は将軍拝賀の旅の途中に病気にかかってしまいました。土地の勧めで天満宮に心中祈願したところ、病はたちどころに回復しました。霊験に感激した上人は帰途、鎌倉の荏柄山(えがらさん)天満宮に参拝し御分霊をいただき信光明寺の観音堂に祀ったそうです。
 上人は「我を四辺眺望の地に祀るべし」との夢枕に立たれた天神様の御神託を聞き、東山(岩津山)の現在地に社殿を建てたそうです。明治6年(1873)の神仏分離により管理が信光明寺から、岩津村へ移りました。明治12年(1879)、岩津天満宮の堂宇は火災によってことごとく焼失しました。
 三河へ布教に訪れていた富山県の芦峅寺の大阿闍梨鑁禪(佐伯鑁禪)は、屋敷をねぐらとして借りていた碧南の実業家、服部長七に窮状を訴えました。長七は明治44年(1911)から大正8年(1919)にかけ社殿の再建を成し遂げました。
 お稲荷さんの横に「厄割り石」があります。カワラケに大きく息を3度吹きつけ、「祓へ給ひ清め給へ」と3度唱えて、この厄割石へ投げつけ、割って厄を払うそうです。また、岩津天満宮の東の丘には梅苑があり、約400本の梅が2月下旬には咲きそろうそうです。
厄割り石



信光明寺
しんこうみょうじ
愛知県岡崎市岩津町字東山47
0564-45-2100


 岩津山信光明寺は浄土宗のお寺です。宝徳3年(1451)、岩津城主・松平氏3代信光が祖父・親氏、父・泰親の菩提をとむらうために、音蓮社釈誉上人を開山として創建しました。信光の名をとり信光明寺と名付けられました。
 約6000平方mの境内には本堂、観音堂、開山堂、大方丈、三門、中門などが建っています。江戸時代には寺領28石を受け、大樹寺、高月院とともに「三河の三ヶ寺」と称されました。
 往時壮麗を誇った堂宇は、観音堂を除いて、天正年間中(1573-1592)、武田信玄率いる伊勢新九郎(のちの北条早雲)の兵火により灰燼に帰しました。
 観音堂は、桁行3間、梁間3間、単層、入母屋造り、こけら葺きで、文明10年(1478)に建立された、浄土宗最古の観音堂です。周囲を石で畳んだ土壇上に立ち、土間床となっています。中国から禅宗が伝来すると同時に日本に輸入された禅宗仏殿という建築様式で造られています。
信光明寺観音堂
 正面中央間を入口とし桟唐土(さんからど)をとりつけ、両脇間に花頭窓(かとうまど)を設け、斗組(ますぐみ)は二手先詰組、軒は二軒扇垂木で、軒先のそりの深さは他では見られないほどです。明治37年(1904)、国の重要文化財に指定されています。
信光明寺観音堂



奥殿陣屋(旧奥殿藩陣屋跡)
おくとのじんや(きゅうおくとのはんじんやあと)
愛知県岡崎市奥殿町字雑谷下10
Tel 0564-45-7230


 奥殿陣屋は、徳川氏の発祥地松平郷に程近い、村積山自然公園、花園の里にあります。1万6千石の親藩として奥殿藩(おくとのはん)の歴史と文化を今に残しています。郷土の偉人、大給(おぎゅう)恒をはじめ藩ゆかりの資料を常設展示しています。
 徳川家康の祖4代松平親忠の2男乗元が大給(現・豊田市)に大給松平をおこしました。徳川秀忠に仕え、大坂の陣の戦功を挙げた大給松平5代真乗の次子・松平真次が祖父の旧地を望み、額田、加茂郡で7千石を受け奥殿藩を開き、真次の長子乗次が1万6千石の大名となりました。
 奥殿陣屋は宝永4年(1707)奥殿松平4代・乗真の時、陣屋を大給から岡崎の奥殿町へ移し、文久3年(1863)、11代・乗謨が信州佐久郡田野口へ移転するまで、奥殿藩領民支配の中心となっていました。
 奥殿陣屋には書院、金鳳亭、蓬莱の庭、資料・花火展示室、玄々斎宗室生誕碑、歴代藩主の廟所があります。玄々斎宗室は奥殿藩大給松平家6代・乗友主の5男として生まれ、急速な西欧化による伝統文化の衰退と茶道界の苦境を憂い、近代茶道の復興に尽力しました。



真福寺
しんぷくじ
愛知県岡崎市真福寺町薬師山6
Tel 0564-45-4626



 霊鷲山(りょうじゅせん)真福寺は天台宗のお寺で、三河薬師と呼ばれ、水体薬師と通称する薬師如来が本尊です。三河地方最初の仏寺と称される古刹で、聖徳太子建立46寺の一つとされています。
 伝承では、推古天皇2年(594)、物部守屋の子の物部真福(まさち)が願主となって建立したといわれています。仏教に反対して蘇我氏に敗れた真福が三河に流され、この地で泉から薬師仏が出現するという霊験を得たといわれています。
 聖徳太子建立のことは伝承の域を出ませんが、真福寺には奈良時代にさかのぼる塑像の頭部が伝来しており、創建はかなり古いものと思われます。

 仁王門の建立年代は不明ですが、応永17年(1410)に焼失後、明応3年(1494)に再建されたものといわれています。3間1戸の楼門の下層が残された門で、柱は円柱、中央通路を除いて地貫、腰貫をわたし、外周りに飛貫・頭貫をめぐらしています。
真福寺仁王門
 仁王門に安置されている阿形像は325.4cm、吽形像は327cmです。欅材寄木造りで、永正12年(1515)に金蔵坊(現金蔵院)の賢忠の発願により仏師宗梅が造立しました。寛政元年(1789)に門とともに修理されています。
真福寺仁王門
 真福寺の多宝塔は室町時代初期のもので、裳階から発達した下層を持たない宝塔の形式です。内部には、釈迦如来と多宝如来の小像が祀られています。人々が望めば何時でも何処でも現れ、法を説き、方便によって様々な苦しみを除くといわれています。
真福寺多宝塔
 真福寺の大師堂は本堂の裏側の、八所神社本殿近くにあります。大師堂内には慈恵大師像が安置され、歴代徳川将軍の位牌が納められています。木造慈恵大師座像は、胎内銘により文永11年(1274)造立の僧栄盛が発願した3体のうちの1体です。
真福寺大師堂
 木造慈恵大師座像は、像高84.5cm、檜材の寄木造りで、玉眼嵌入の彩色像で、国の重要文化財に指定されています。この大師堂には真福寺の住僧憲澄が寛文8年(1688)、寛文12年(1692)、宝永4年(1707)に造立した3体の仏像も安置されています。
真福寺大師堂



伊賀八幡宮
いがはちまんぐう
愛知県岡崎市伊賀町東郷中86
Tel 0564-26-2789


 伊賀八幡宮は、平安時代の康平年間(1057-1065)、源頼義が東北の安倍貞任追討の途中、勅許を得て京都の石清水八幡宮を伊賀国(三重県)に勧請したのが起こりといわれています。
 文明2年(1470)、松平4代親忠が松平家(徳川将軍家の祖)の氏神として家運長久、子孫繁栄を祈願する為、伊賀国から三州額田郡井田村へ社を移して、伊賀八幡宮とし、地名も伊賀と改めたと伝えられています。
 以来、安祥城(安城市)に居住した松平氏は、5代・長親、6代・信忠、7代・清康と歴代、松平氏の氏神として崇敬しました。特に清康(家康の祖父)は大永4年(1524)に岡崎城に移りましたが、社殿を造営し、出陣のたびにここに参拝し戦勝祈願したそうです。
 天文14年(1545)、清康は守山の陣で突然家来に切られ亡くなります。このすきに織田信秀が大軍を率いて三河に侵入し、岡崎城に迫りました。8代・広忠はわずか10歳でしたが八幡宮に祈願して迎えうちました。その時、馬に乗った武者が現れ敵陣めがけて白羽の矢を放ちました。
 すると八幡宮の森の上から黒雲が沸き嵐を呼んで、白羽の神矢が雨あられのように敵陣へ飛びました。3万あまりの織田兵はたちまち敗退したそうです。大久保彦左衛門の「三河物語」や、松平家忠の「家忠日記」にも、この不思議な出来事が記されています。
 このこと以来、松平氏の信仰はますます厚くなりました。家康は初陣の寺部城攻めの際、祈願して勝利を得て以来、大きな合戦の時には必ず参詣するのを吉例としました。永禄9年(1566)徳川の姓を称する勅許を得た際、社殿を造営、慶長16年(1611)にも造営して、現在の規模になったようです。
 寛永11年(1634)、3代将軍家光は松平信綱に代参させて社殿を造営させました。この時、相殿に東照宮を勧請させています。寛永13年(1636)には社領100石を寄進して500石とさせました。家綱、綱吉、家重、家治、家斉、家慶など歴代将軍による社殿修復は8度に及んでいます。

 伊賀八幡宮の随身門は3間1戸の楼門です。入母屋造り、前後軒破風付、檜皮葺きです。他の社殿と同様に朱塗りで彩色を施してあり、屋根入母屋の破風と縣魚(けぎょ)には青海波が浮き彫りにされています。昭和8年(1933)に国の重要文化財に指定されています。
伊賀八幡宮随身門
 伊賀八幡宮の拝殿は桁行5間、梁間3間、1重、入母屋造り、正面据破風付、向拝1間、檜皮葺きです。幣殿は拝殿と接続しており、桁行2間、梁間1間、1重、両下(まか)造り、檜皮葺きです。権現造りで華麗な朱塗り、随所に彩色を施してあります。昭和8年(1933)に国の重要文化財に指定されています。
伊賀八幡宮拝殿・幣殿
 伊賀八幡宮の本殿は3間社流造り、檜皮葺きで、1間宮殿1基が付き指定されています。他の社殿とともに寛永13年(1636)に3代将軍家光が岡崎城主・本田伊勢守忠利を奉行とし、鈴木近江守長次を棟梁として造営させました。昭和8年(1933)に国の重要文化財に指定されています。
伊賀八幡宮本殿
 伊賀八幡宮の本殿を囲んでいる透塀も、昭和8年(1933)に国の重要文化財に指定されています。延長43.2mあり、檜皮葺きです。連子頭に金剛柵型をめぐらす珍しい手法で造られています。
伊賀八幡宮透塀
 御供所は拝殿の左側にあります。神様にお供えする供物のうち調理をともなわないものを仕度するための建物です。桁行5間、梁間2間、1重、入母屋造り、檜皮葺きです。本殿と同時期に建立され、昭和8年(1933)に国の重要文化財に指定されています。
伊賀八幡宮御供所
 池の途中には石製の神橋が架かっています。2重虹梁、大瓶束、かえる股で橋骨をつくり、随所に拳鼻を飾っています。昭和8年(1933)に国の重要文化財に指定されています。
伊賀八幡宮神橋



法蔵寺
ほうぞうじ
愛知県岡崎市本宿町字寺山1
Tel 0564-48-2636


 二村山(にそんざん)法蔵寺は、浄土宗西山深草派のお寺で、本尊は阿弥陀如来です。大宝元年(701)、僧行基が34歳の時、自刻の聖観音像を安置して一宇を建立したのが始まりです。
 文武天皇の勅により太子安産の祈祷したところ、無事に太子が誕生したので、出生寺の寺号が贈られ、勅願寺になったそうです。初めは法相宗に属していましたが、貞治元年(1362)になって教空龍芸が今の宗派に改めました。
 三河を平定した松平親氏は、嘉慶元年(1387)出生寺に深く帰依し諸堂を造営し法蔵寺と改め、代々松平家の菩提寺と定めました。7世・教翁は松平広忠の兄で、家康の伯父にあたります。家康が幼少の時この寺で養育され多くを学んだそうです。
 約1万平方mの広い境内には、本堂、観音堂、鐘楼、総門、宝蔵、六角堂が建ち並び、寺観も整っています。境内には近藤勇の首塚・胸像、家康手植えの桜の木があります。
 新撰組隊長の近藤勇の首を葬った首塚と銅像があります。三条大橋に晒されていた首を斉藤一が奪取し、三条大橋側の誓願寺にいた孫空義天に供養を依頼したそうです。義天は後に法蔵寺の住持になり、この地に埋葬されたといわれています。当初は世間の目もあったので、石碑は土で埋められ、無縁仏の様にしていたそうです。
近藤勇首塚



香嵐渓
こうらんけい
愛知県豊田市足助町(あすけちょう)飯盛
Tel 0565-62-1272 足助観光協会


 東海地区を代表する紅葉の名所です。矢作川の支流巴川と足助川が合流する待月橋から上流1.5kmのエリアで、川の両岸から飯盛山山頂にわたって、約4000本のカエデが紅葉して素晴らしい景観になります。


 寛永11年(1634)頃に香積寺第11世住職参栄和尚が杉やモミジを植えたのが始まりとされ、大正末年から昭和初期の住民のボランティアでモミジの大補植が施されました。昭和5年に香積寺の香、川面に発する嵐気から香嵐渓と命名されたそうです。







松平東照宮
愛知県豊田市松平町赤原
 松平東照宮は、元和5年(1619)に松平太郎左衛門家9代・松平尚栄が徳川家康を祀り建立しました。もともとは松平家が信仰していた八幡宮が建てられていたといわれています。昭和40年には、初代・親氏を合祀しました。東照宮の境内は松平氏の館跡で、現存する水堀や石垣は尚栄が築いたといわれています。

 松平館は後宇多天皇に仕えた公家の在原信盛が鎌倉時代に築いたといわれ、信盛の子信重の時に姓を松平と称しました。室町時代初期の応永元年(1394)頃、徳阿弥という時宗の僧が松平郷の郷主松平信重の末娘の婿として養子となり、松平親氏と名を改めて松平氏を継ぎ、松平城を築城しました。家康は親氏から数えて九代目にあたります。親氏は松平館と松平城を拠点として17ヶ村を支配し、松平氏二代泰親(親氏の弟)は岩津城と大平城を攻略して松平氏一族の基盤を固めました。三代信光は三河平野の岩津城へ居城を移し、安祥城を陥れるなど、西三河を平定。四代親忠から六代信忠にかけての三代は安祥城を居城としたが、七代清康はさらに大永4年(1524)岡崎城を攻め落とし、以後、岡崎城を松平氏の本城として戦国時代には三河に勢力を伸ばしていきました。しかし、松平清康は近臣に殺害され、わずか10歳の八代松平広忠が受け継ぎました。松平一族の支配権は弱体化し、東の駿河の今川氏、西の尾張の織田氏から攻められ、広忠もまた近臣に殺害されてしまいます。これを知った今川義元は岡崎城を手中に治めてしまいます。松平氏を継いだ竹千代(後の徳川家康)はわずか8歳でした。松平氏初代親氏の天下泰平の願いは竹千代に託されることになり、家康は波乱万丈の生涯を送る。

 この松平郷松平家は松平太郎左衛門家とも呼ばれ、松平郷を離れることなく旗本の身分として明治維新まで続きました。境内には産湯の井戸があり、家康が岡崎城で生まれたときにこの水が運ばれたといわれています。また裸男がもみあう2月の天下祭(あまがしたのまつり)や4月の春祭りはここで開かれます。



高月院
こうげついん
愛知県豊田市松平町寒ヶ入
 高月院は、はじめは「寂静寺」と呼ばれ、1367年に寛立上人が在原信重(親氏の妻の父親)の援護を受けて建立したといわれています。1377年に親氏が本尊阿弥陀仏をはじめ堂・塔のすべてを寄進して高月院と改め、松平氏の菩提寺となっています。家康からは寺領100石が寄進され、家光は山門や本堂などを建立しています。



豊川稲荷(妙厳寺)
とよかわいなり(みょうごんじ)
豊川市豊川町1
 京都の伏見稲荷、佐賀の祐徳稲荷と共に日本3大稲荷にあげられています。江戸時代から商売繁盛、家内安全、福徳開運の神様として信仰されていて、参拝者は年間600万人にも及ぶということです。
 三万坪を越える広い境内です。700年ほど前の室町時代の開創で、今川義元・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康・大岡越前守忠相・渡辺崋山などの武人や文人達の信仰も厚く、寺運(妙厳寺)も隆盛しました。
 稲荷は妙厳寺の境内にあって、通称は豊川叱枳尼真天(だきにしんてん)といわれます。稲荷を祀る本殿は総桧造りで20余年を費やして1930年に完成しました。境内には100余棟の伽藍があり、寺宝館の地蔵菩薩は国の重要文化財に指定されています。
 正式には豊川閣妙厳寺と称し、室町時代前期・嘉吉元年(1441)旧暦11月22日、永平寺後開山道元禅師の法嗣、寒巌義尹禅師(かんがんぎいぜんじ)から6代目の法孫、東海義易禅師(とうかいぎえきぜんじ)により、曹洞宗の寺として開創された名刹です。
  法堂(はっとう) 通称本堂
 豊川閣妙厳寺の大本堂(禅宗では本堂を法堂と言います)で、本尊に、寒厳禅師が自ら刻まれた千手・千眼観世音菩薩像を本尊として奉祀しています。大法要や、三時の勤行と諸行事をおこなう道場です。
 法堂は文化10年(1813年)春改築後、天保年間に再建されました。瓦葺二重屋根で間口十三間余(約24m)奥行十一間余(約20m)あります。 

  最祥殿
昭和4年竣工総桧造りで、間口13間(23.6m)奥行26間(47.27m)の日本式大建築物で内部は400畳敷きとなり講中、団体などの信者約千有余人の接待ができる大座敷です。
 当寺二十九世黙堂禅師の揮毫による「此處最吉祥(このところもっともきちじょう)」の大額が正面に掲げられているので、この建物を「最祥殿」と呼んでいます。立願所すぐ左手に位置します。

  鐘楼堂
 豊川稲荷台本殿の落慶(完成)を記念して、昭和12年に作られました。総檜材作りです。天井より吊される梵鐘は、戦時中に供出されて久しく妙音を聞くことができませんでしたが、終戦後戦没者の慰霊、世界平和および人類の福祉を祈願するために鋳造されました。
 朝夕に打ち鳴らす妙音は、4キロ以上の遠方まで響き渡っています。さらにその妙音は、しばしば「除夜の鐘」の音としてNHKを通じて全国に放送され、人々に親しまれています。



長篠城址
愛知県南設楽郡鳳来町長篠
 長篠城は永正5年(1508)に菅沼元成が築き、天正3年(1575)弱冠21歳の奥平貞昌(後の信昌)が城主となりました。現在史跡整備中で石碑などが昔を物語っています。
 天正3(1575)年5月、武田勝頼軍1万5千が、徳川家康の将奥平貞昌以下500名が守るこの長篠城を包囲しました。多勢に無勢、敗色濃厚の奥平勢に向かって援軍要請をして城に戻ろうとした鳥居強右衛門勝商(かつあき)は武田軍の捕縛にあい「援軍は来ないと大声で伝えよ、そうしたら命は助けてやる」と言われ城門前に連れて行きました。援軍来たるの報を大声で知らせ三河武士の意地を見せたのち殺害されてしまいました。織田信長3万、家康8千の援軍は5月18日西方4キロの設楽原に到着して陣を築きました。武田軍は20日、長篠城を攻めるのをやめ設楽原へ移動しました。21日、織田・徳川軍と武田軍との壮絶な戦いが始まりました。
 数千挺の銃撃にさらされた勇猛な武田騎馬軍団は多くの武将を失いました。勝頼も命からがら敗走しました。鉄砲の時代を確信させる戦いでした。



阿寺の滝
あでらのたき
南設楽郡鳳来町下吉田阿寺内
 日本の滝百選の1つに選ばれている 阿寺の七滝です。全長64m7段の滝で、巣山高原から流れる水が阿寺川となり、礫岩の断崖壁を落下して、すばらしい曲線美を見せています。上段より各2m、4m、2m、25.5m、7.5m、13m、9.3mと7段の瀑布になっています。

 昔、阿寺で子が授からない働き者の嫁「お京」が、「七滝の子抱石を迎えて拝め」との教えを守って子供を産むことが出来ました。喜んだお京は赤子を抱いて七滝へ御礼参りに出掛けた折、意地悪い母に赤子共々、滝つぼへ突き落とされてしまいました。村人たちはお京母子を気の毒に思い、滝の脇へ観音像を建ててあげました。これが子抱観音です。





百間滝
南設楽郡鳳来町七郷一色
 百間滝は、日本最長の断層帯・中央構造線の深い谷の中にあります。落差120mで愛知県最大といわれていますが、木立に被われ途中で曲がっているので全貌を見ることはできません。夏明川(下流は大島川)の弱い地質のところが掘りさげられて、この滝ができました。



トップ アイコン旅と歴史のホームページへもどる トップ アイコン  日本のページへもどる    


直線上に配置