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岐阜城
ぎふじょう
岐阜県岐阜市金華山天主閣18
Tel 058-263-4853


 岐阜城は標高336mの金華山山頂に築かれた城です。城跡は岐阜城跡として国の史跡に指定されています。建仁元年(1201)に鎌倉幕府執事二階堂行政によりこの場所に砦が築かれました。戦国時代には斎藤道三の居城でもありました。
 永禄10年(1567)、織田信長が、この城を攻略し、この地方一帯を平定するとともに、その地名も「井口」(いのくち)から「岐阜」に改めました。周の文王が岐山より興って天下を平定した故事に習ったものといわれています。
 岐阜城は安土城が築かれる10年間信長の本拠となりました。天正4年(1576)、信長は嫡子織田信忠を岐阜城の城主とし、織田家の家督、及び、美濃、尾張の2ヶ国を譲りました。岐阜城の整備改修は信忠によって更に追加されました。
 天正10年(1582)、信忠が本能寺の変で倒れると、家臣の斎藤利堯が岐阜城を乗っ取りました。しかし、明智光秀が羽柴秀吉に敗れると織田信孝に降伏しました。同年、清洲会議により信孝が兄・信忠の遺領美濃国を拝領し、岐阜城の城主及び、信忠の嫡子三法師の後見となりました。
 天正11年(1583)一度秀吉と和睦した信孝は長島城主の滝川一益と呼応して再度挙兵ました。しかし美濃返し(賤ヶ岳の戦い)によって柴田勝家が敗れ、兄・信雄によって居城の岐阜城が包囲され、降伏しました。その後、信孝は切腹させられました。
 その後、池田元助が岐阜城に入城しましたが、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで池田恒興と元助が討死したため、恒興の次男・池田輝政が城主となりました。天正19年(1591)、転封により、輝政に代わって豊臣秀勝が岐阜城の城主となりました。
 翌年、秀勝が没すると、織田秀信(幼名・三法師)が美濃国岐阜13万石を領有し岐阜城の城主となりました。慶長5年(1600)、関ヶ原合戦の際に、秀信は西軍に味方したため、東軍に攻め入られ、激戦の末に落城しました。
 慶長6年(1601)、岐阜城は廃城となり天守閣、櫓等は加納城に移されました。現在の城は、昭和31年(1956)、岐阜城再建期成同盟によって復興されたもので、鉄筋コンクリート造り、3層4階構造です。城内は史料展示室、楼上は展望台となっています。

 井戸谷に本丸井戸が残されています。昭和初期まで登山客の飲料水として用いられていたそうです。
 斎藤道三・織田信長の戦国時代には城の井戸として用いられていました。岐阜城の周辺には金銘水、銀銘水など古井戸が現存しています。
岐阜城本丸井戸
 岐阜城攻撃にあたり秀吉は山麓の猟師堀尾茂助等7名を従え岩戸口よりこの地に潜入し薪小屋に火を放ち大いに奮戦したということです。この時空瓢箪を槍の穂先に結びつけ城兵数名を倒したといわれ、この地が千成瓢箪発祥の地といわれています。
千成瓢箪発祥の地
 ロープウェイ山頂に、放し飼いのリスとふれあうことができるリス村があります。ここには、かつて煙硝蔵がありました。鉄砲用の火薬を保存するための蔵です。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の直前に岐阜城が徳川方の軍勢に攻められた時、火をかけられて爆発したそうです。噴き上げる炎は、大坂方の軍勢がこもっていた大垣城からもはっきり見えたといいます。
リス村
 展望台からは眼下に清流長良川、東には恵那山や木曽御岳山、北には乗鞍・日本アルプスが連なり、西には伊吹山・養老山脈、南には伊勢湾などが連なる壮大な眺望を楽しむことができます。
楼上からの眺望



岐阜公園
ぎふこうえん
岐阜県岐阜市大宮町1ー46
Tel 058-264-4865 岐阜公園総合案内所


 岐阜公園は戦国時代の岐阜城主であった斎藤道三や織田信長の居館があったとされる場所です。園内には、信長庭園をはじめ信長居館跡、冠木門、岐阜市歴史博物館、加藤栄三・東一記念美術館、立礼茶室華松軒、名和昆虫博物館、円空美術館などがあります。
 岐阜城・金華山を結ぶ金華山ロープウェー山麓駅や金華山登山道の登り口もあり、平成4年(1992)、岐阜公園周辺地区が「都市景観100選」に、平成18年(2006)に「日本の歴史公園100選」に選ばれています。


 永禄10年(1567)、織田信長は稲葉山城主斉藤龍興を追放して「岐阜」と地名も改めま、金華山山頂の岐阜城を修復して天下統一の拠点としました。織田信長居館跡は金華山の西麓にあります。
織田信長居館跡
 この辺には人工的な二〜三段のテラス状地形があります。最上段を千畳敷、中段以下の大部分は千畳敷下といわれていたそうです。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは著書の中で信長の居館を壮麗なものとして紹介しています。
織田信長居館跡

 大正5年(1916)、大正天皇御大典記念として建立されました。高さ24m(相輪まで25.8m)・面積35.94平方mです。五穀豊穣、市内繁興を祈願したもので、画家川合玉堂が風水で、この地に選定したといわれています。かつての長良橋の材木が使われ、平成17年(2005)に登録有形文化財に指定されています。
三重の塔

 明治15年(1882)4月6日に、自由党総裁であった板垣退助が、この地にあった中教院での演説を終え、帰ろうとした時に、玄関先で刺客に襲われました。「板垣死すとも自由は死せず」という世にも有名な言葉を残しました。
板垣退助遭難碑

 若き日の織田信長像は、昭和63年(1988)市制100周年を記念して、岐阜市に寄贈されました。市制120周年を迎えた平成21年(2009)に、岐阜公園正門の前に移設されています。
若き日の織田信長像

 金華山ロープーウェイは昭和30年(1955)に開業しました。全長599mで金華山麓駅と金華山頂駅間を結んでいます。
金華山ロープーウェイ




かかみがはら航空宇宙科学博物館
かかみがはらこうくううちゅうかがくはくぶつかん
岐阜県各務原市下切町5ー1
Tel 058-386-8500


 平成8年(1996)、「かかみがはら航空宇宙博物館」がオープンしました。その後、かかみがはら航空宇宙科学博物館に名称を変更しています。敷地総面積は約6.33ヘクタール、建築面積は約6700平方mという大規模な施設を各務原市が単独で行いました。
 各務原市内には現存する飛行場としては国内で最も歴史のある大正6年(1917)開設の岐阜飛行場があります。そして、航空機製造工場である川崎重工業岐阜工場もあります。市の産業、文化に飛行機産業が大きな位置を占めていることから開設されたのです。
 各務原ゆかりの航空機をはじめとする実物の飛行機の展示、展示機などの復元・修理が見学できる工房、飛行や宇宙のしくみをわかりやすく説明するコーナーなどがあり、楽しみながら空や宇宙、航空機について学ぶことができます。



華厳寺
けごんじ
岐阜県揖斐郡(いびぐん)揖斐川町(いびがわちょう)谷汲徳積23
Tel 0585-55-2033


 谷汲山(たにぐみさん)華厳寺は天台宗のお寺で、この地方きっての古刹です。約3万平方mの広い境内には、杉・ヒノキ・桜の老樹大木が茂り、閑寂な雰囲気に包まれています。仁王門、庫裏、本堂、背後には阿弥陀堂、笈摺(きゅうしゅう)堂、子安堂、右手に鐘楼堂、石段を上った先に満願堂があり、その奥の離れたところに奥の院があります。
 本堂の右手には納経所、地下には戒壇巡りがあり、正面向拝の左右の柱には「精進落としの鯉」という銅製の鯉が打ち付けられています。西国札所巡礼を三十三番札所のこの華厳寺で満願した人は、その記念にこの鯉に触れるという習わしがあります。
 華厳寺は延暦17年(798)、奥州白河の豪族大口大領が豊然上人を開山とし創建したと伝えられています。その際、谷間から油が湧き出したので、これを本尊の常灯明に献じたそうです。
 延喜17年(917)、醍醐天皇がこの油の耳にされ、「谷汲山」の山号と「華厳寺」の扁額を賜わったそうです。天慶7年(944)には朱雀天皇が鎮護国家の道場として華厳寺を勅願所に定められ、1万5千石と仏具の寄進をされました。
 寛和2年(968)、花山法皇が観音霊場巡幸の際に、西国第三十三番札所の満願所と定められ、以来多くの巡礼者でにぎわうようになりました。建武元年(1334)の南北朝の動乱の兵火や、その後の兵火により多くの堂宇が焼失し、衰退しました。
 文明11年(1479)、後土御門天皇の勅命により薩摩国(鹿児島県)慈眼寺の住職・道破拾穀(どうはじっこく)上人が再興しています。現在の堂宇は明治8年(1875)に豪泰法印(ごうたいほういん)が再建の願主となり、明治12年(1879)に再建された建物です。
 華厳寺の本堂は明治12年(1879)に再建された建物です。入母屋造り、正面5間、側面4間の外陣部の奥に、棟を直行させて内陣部が接続しています。本尊は十一面観音、脇侍として不動明王と毘沙門天を安置されています。この毘沙門天像は像高168.2cm、平安時代初期の作で国の重要文化財に指定されています。
華厳寺本堂
 華厳寺の仁王門は入母屋造 3間の二重門 奥の間左右に仁王像を安置しています。毎年2月18日、種まきや田植えの季節を前に豊作を願う春を告げる「豊年祈願祭」がこの仁王門の前で行われます。ここで岐阜県重要無形民俗文化財第1号に指定された「谷汲踊(たにぐみおどり)」が上演されます。
華厳寺仁王門
 華厳寺の満願堂は笈摺堂の西側の急な石段を上がったところにあります。本尊は十一面観世音菩薩です。笈摺堂が着衣(笈摺衣)を収め、過去の願いを収めるお堂にたいし、満願堂は現在の願いを収めるお堂です。
華厳寺満願堂



横蔵寺
よこくらじ
岐阜県揖斐郡(いびぐん)揖斐川町(いびがわちょう)谷汲神原1160番地
Tel 0585-55-2811


 両界山横蔵寺は天台宗のお寺で、薬師如来を祀っています。約5千平方mの境内には仁王門、三重塔、本堂、観音堂、瑠璃殿、香堂、宝物館、そして妙心法師の舎利仏(ミイラ)が祀られている舎利堂などが建立しています。
 横蔵寺は延暦20年(801)、桓武天皇の勅願により伝教大師最澄が、この地の長者・三輪次太夫藤原助基を施主として創建したと伝えられています。最澄は比叡山延暦寺の本尊である薬師如来像と同じ霊木からもう1体薬師如来像を彫り込み横蔵寺の本尊としたと伝えられています。
 横蔵寺は繁栄し最盛期には38坊、300余の末寺をもつ大寺となりました。天暦元年(947)に村上天皇の勅願で始められた8月20日の会式(薬師祭)は格式をもって現在も執り行われています。
 元亀2年(1571)、織田信長の兵火により多くの堂宇が焼失し衰退しました。比叡山延暦寺も織田信長の焼き討ちにより焼失しました。天正13年(1585)、延暦寺が再興されると後陽成天皇の勅願により横蔵寺の本尊が延暦寺に移されたそうです。
 代わりに京都洛北より勅により横蔵寺に移されたのが現在の本尊であるといわれています。江戸時代の慶長15年(1610)、徳川家康は山麓と坂本村(横蔵村)一村を寄進しました。寺は円山の頂上付近から現在地に境内を移し、各堂宇が建立され、繁栄するようになりました。
 横蔵寺の本堂は寛文11年(1671)に再建された建物です。桁行5間、梁間5間、1重入母屋造り、檜皮(ひわだ)葺き、勾欄付きの縁を巡らし、正面1間に向拝が付いています。平成元年(1989)に岐阜県の重要文化財に指定されています。
横蔵寺本堂
 本堂は密教系建築としての五間堂という本格的な規模で、中世以来の密教系本堂の伝統的な形態を保っています。様式的には和様を主体としていますが、部分的に唐様が取り入れられています。彫刻と彩色による装飾が比較的多く、建築的にも優れています。
横蔵寺本堂
 横蔵寺の三重塔は寛文3年(1663)に再建された建物です。3間三重塔婆、檜皮葺きで、各層に勾欄付きの縁がめぐらされています。初重と隅部の尾垂木には彫刻が施され、中備には蟇股があり、小天井と支輪を設けています。軒は二軒繁垂木(ふたのきしげたるき)となっています。
横蔵寺三重塔
 この三重塔は、和様の三手先(みてさき)で造られています。背後の花頭窓(かとうまど)などに唐様になっている所があります。尾垂木(おたるき)にも彫刻が施されています。平成元年(1989)に岐阜県の重要文化財に指定されています。
横蔵寺三重塔
 横蔵寺の仁王門は桁行6.34m、梁間3.5mの3間1戸の楼門で、入母屋造り、檜皮葺きです。延宝3年(1675)に再建された建物です。脇の間の奥の間を金剛柵で囲み、仁王象を安置し上層に鐘を吊っています。柱は円柱で、通路の上には虹梁が入り、その上には牡丹や菊の彫刻による派手な笈形(おいがた)を付けた大瓶束(たいへいつか)が立っています。
横蔵寺仁王門
 上層縁の腰組は三手先で中備は間斗束となっています。軒の組物は三手先で中備に蓑束(みのつか)を置き、小天井、支輪を設けています。軒は二軒繁垂木(ふたのきしげたるき)で、屋根の妻飾は虹梁大瓶束となっています。平成元年(1989)に岐阜県の重要文化財に指定されています。
横蔵寺仁王門
 横蔵寺の舎利堂には横蔵出身の妙心法師の舎利仏(ミイラ)が祀られています。妙心法師は俗名を古野小市良といいました。天明元年(1781)に生まれ諸国を巡って仏道修行をし文化14年(1817)、断食修行の後、山梨県都留市の御正体山で即身成仏したそうです。自然にミイラ化したもので明治23年(1890)に横蔵寺に移されました。
横蔵寺舎利堂



墨俣一夜城(墨俣歴史資料館)
すのまたいちやじょう(すのまたれきししりょうかん)
岐阜県大垣市墨俣町墨俣1742−1
Tel 0584-62-3322


 墨俣一夜城は町興しの一環で「歴史資料館」として平成3年(1991)にオープンした4層6階建の模擬天守閣です。ここでは前野家古文書に基づいて「墨俣築城への道」を紹介し、太閤・秀吉について説明しています。
 墨俣城は織田信長による美濃侵攻にあたって、木下藤吉郎に命じて造らせた砦です。藤吉郎は奇略をめぐらし、一夜のうちに櫓を立て、城のように見せかけたので、敵が驚いて敗走したという伝説的な城址です。
 墨俣城の築城の詳細は伝説的ですが、ここは古くから交通の要衝で、戦国時代当初は斎藤氏側に属し、領地を接する織田信長とは度々戦場となっています。
 墨俣城は信長が後に岐阜城となった稲葉山城を攻略したあとは戦略性の重要性はなくなりました。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで当時美濃を支配していた池田恒興の家臣・伊木忠次が改修したのが記録に残る最後となりました。



大垣城
おおがきじょう
岐阜県大垣市郭町2−52
Tel 0584-74-7875


 大垣城は麋城(びじょう)、または巨鹿城(きょろくじょう)と呼ばれる連郭輪郭複合式の平城です。最初の城は美濃守護・土岐一族の宮川吉左衛門尉安定により、天文4年(1535)に築かれたといわれています。
 永禄3年(1560)、氏家直元が城主となり、堀や土塁に手を加え、総囲いなどが整備されました。織田、斎藤と城主が移った後、天正11年(1583)に豊臣秀吉の家臣、池田恒興が城主となりました。天正16年(1588)に一柳直末によって天守が築かれたといわれています。慶長元年(1596)頃、伊藤祐盛が城主の時という説もあります。
 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際には、当時城主であった伊藤盛宗は西軍であったので、西軍・石田三成の本拠地となりました。西軍本隊は関ヶ原に移動し、大垣城は福原長堯らが残りましたが、関ヶ原の本戦で西軍が敗北すると東軍に攻囲され落城しました。
 寛永12年(1635)、戸田氏鉄(うじかね)が城主となり、戸田氏が明治まで治めました。大垣城は昭和11年(1936)に国宝に指定されましたが、昭和20年(1945)7月に戦災で焼失しました。昭和34年(1959)、4層4階の天守閣を再建しました。大垣城の中は貴重な資料館になっています。

 戸田氏鉄は戸田一西の子です。一西は家康に従って武功をあげ、関東入りに際して武蔵で5千石、関ヶ原後、近江膳所で3万石を与えられた武将です。氏鉄は元和2年(1616)膳所から尼崎に、寛永12年(1635)尼崎から大垣に移封。大坂城修築に功があり、島原の乱にも出陣しました。新田開発・治山・治水などの業績があります。
戸田氏鉄像
 氏鉄は、寛永13年(1636)に川口、外渕村境に門樋を造りました。水門川は、下流で揖斐川に合流するので、揖斐川が増水すると下流からの洪水が逆流して輪中内に浸水して被害が増えたのでした。川口水門樋は逆水を防ぐ働きをするものでした。
戸田氏鉄像



関ヶ原古戦場
せきがはらこせんじょう
岐阜県不破郡関ケ原町
Tel 0584-43-1112 関ヶ原町地域振興課


 関ヶ原古戦場は戦国時代の総決算ともいえる徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍の歴史に残る天下分け目の合戦の舞台です。徳川家康や石田三成などの陣跡には石碑が建てられています。
 慶長5年(1600)9月15日、昨夜来の雨は濃霧となり全く見通しがきかない。午前8時頃、霧が晴れ、戦いの幕は切っておとされました。
 関ヶ原合戦の午前中の戦況は、西軍は東軍を圧迫し、優勢でした。ただ西軍7万5千余のうち、参戦していたのは、石田、小西、宇喜多、大谷隊の3万5千余の軍勢のみで他は静観していたのです。
 東軍は南宮山の毛利隊に備えていた有馬・山内隊も前線に投入し、家康本隊も戦況打開のため、今の陣場野まで進出していました。戦況不利とみた家康は、かねてから内応を約束していた小早川隊に対し催促の一斉射撃を行いました。
 この威嚇により、小早川秀秋は、裏切り行為に出て、西軍、大谷隊の背後から攻撃したのでした。西軍絶対有利の陣形で臨んだ合戦でしたが 、小早川の裏切りにより、大谷、平塚隊の奮闘もむなしく敗れ去りました。
 小西隊も敗走を始め、宇喜多隊も正面から福島隊、側面から小早川隊の攻撃をうけ敗走しました。残った石田、島津隊は新手の東軍とも奮戦したが、石田隊が江州方面へ敗走。最後まで戦場に残った島津隊も、兵を集め一丸となり家康本陣前を敵中突破して、伊勢街道より堺をへて薩摩へと脱出しました。

 慶長5年(1600)石田三成は9月14日の午後7時頃、折から降りしきる雨の中、大垣城を出陣して関ヶ原へと向かい、南宮山の南から牧田(まきだ)を経由して翌15日午前5時頃に笹尾山に到着、本陣を据えました。
笹尾山石田三成陣地
 三成は、北国街道を守備するため兵6千と豊臣の兵2千を笹尾山の正面に配し、竹矢来を二町(約200m強)東に二重に田の中に囲うと、竹矢来の前面に島勝猛を、中間に蒲生郷舎を置き戦いに臨みました。三成自身は、この山頂で指揮しました。この山の前面が最大の激戦地でした。
笹尾山石田三成陣地

 竹矢来とは竹や丸太を粗く組んで作った臨時の囲いのことです。すき間が四角になったものを角矢来といい、菱形になったものを菱矢来といいます。
敵の進入を防ぐのに利用したもので、三成はこの柵を二重にめぐらしました。
竹矢来



関ヶ原ウオーランド
せきがはらうおーらんど
岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原1701ー6
Tel 0584-43-0302


 関ヶ原ウオーランドは史上最大の決戦場、関ヶ原合戦を再現しています。徳川・石田の東西両軍の陣地を約1万坪の敷地内に彩色した実物大のコンクリート像を配置しています。
 昭和39年(1964)にオープンしています。 甲冑資料館は実際に使用されていた本物の大刀、弓具など貴重な武具類が数百点展示されています。



養老の滝
ようろうのたき
岐阜県養老郡養老町養老公園
Tel 0584-32-1100 養老町観光協会
 「よーろー」の名はもともと養老の滝のまわりにあり、奈良期に養老の当て字がなされたようです。 「よーろー」とはゆるやかな坂を示す地名で、全国14県、30ヶ所以上にあります。
養老の滝は、江戸時代の美濃の3大名所のひとつでした。
 養老の滝は、高さ約30m、幅約4mの滝で、巨岩老樹に囲まれた公園の奥深くにあります。日本の滝百選及び名水百選(環境省)に選定されています。揖斐関ヶ原養老国定公園に属しています。

孝子伝説の養老山
 昔々、源丞内(げんじょうない)というきこりが目の不自由な老父と住んでいました。老父はお酒を飲むのが喜びでした。毎日働いてもなかなかお酒を買うほどお金は貯まりませんでした。そんなある日、足を取られて転んだところ、岩の間から酒が湧き出ているのを見つけたそうです。
 その酒を腰に下げていたひょうたんに入れて家に持ち帰り老父に与えたところ目が見えるようになったということです。酒の泉は、不自由な体を直すということで有名になりました。
 この話をお聞きになった元正天皇は、霊亀3年(717)、ご自身で訪れ霊泉で体を洗われると、ご病気が全快したそうです。帝はこれをお喜びになり、年号を養老と改めたということです。そして丞内は、美濃の守に任ぜられたということです。



養老寺
ようろうじ
岐阜県養老郡養老町養老公園1276−1
Tel 0584-32-1021
 滝寿山養老寺は浄土真宗大谷派のお寺で、「孝子源丞内」が開いた寺とされ、不老長寿の祈願寺(きがん)として知られています。
 永禄年間(1558-1569)、織田信長の兵火で七堂伽藍は焼き尽くされました。天正年間に伊藤祐盛が現在地に小堂として再建し、その後、慶長12年(1607)に美濃国高須藩藩主徳永寿昌の援助で本堂が再建されました。養老の滝に難を逃れた十一面千手観音立像など多くの重要文化財が現在も保存されています。



養老神社
ようろうじんじゃ
岐阜県養老郡養老町養老公園1286ー1
Tel 0584-32-1100
 養老神社は養老山中腹のリフトのりばの近くにあり、古くは菊里姫を祀る神社であったといいます。 元正、聖武両帝をまつり創建され、永正元年(1504)菅原道真を合祀し、養老天神といわれていたそうです。
 神社から湧く菊水は霊泉とされ、家や国を治める山や水の精霊と考えられ帝が禊ぎを行なうさいの神水と考えられてたようです。
 孝子源丞内が汲んで老父にすすめたところ酒になったという伝説の水は、実はこの水であったともいわれ「菊水の醴泉」と名付けられています。



付知峡
つけちきょう
岐阜県中津川市付知町下浦
Tel 0573-82-2111 中津川市付知総合事務所


 付知峡(つけちきょう)は木曽川支流である付知川の源流に位置しています。付知川は青川とも呼ばれるほど澄み切った清流です。御嶽山の南麓に源流を持ち、たくさんの滝があります。
 春はツツジや山吹などに彩られ、秋は紅葉で朱に染まる付知峡は、春夏秋冬それぞれに美しい姿をみせ「森林浴の森・日本百選」、「岐阜の名水・50選」、「飛騨・美濃効用33選」に選ばれています。
 一帯は裏木曽県立自然公園に属し、手付かずの原生林が残されています。攻橋や木谷橋から眼下に広がる景色も素晴らしく、「不動の滝」「観音滝」「仙樽の滝」などに心が洗われます。
 遊歩道を「不動滝へ」の案内表示に従って進んでいくと、はじめに現れるのが落差20mの観音滝です。切り立った巨大な断崖から水がまっすぐに滑り落ちてきます。宮崎県の高千穂渓谷を思い出させます。透き通ったエメラルドグリーンの滝壺が印象的でした。
観音滝
 不動滝入口と仙樽の滝という2つの看板があり、順路が分れます。不動滝へは石の階段を下っていくと不動滝が見えてきます。付知峡で見られるさまざまな滝の中でも、特に有名なのがこの不動滝です。目もくらみそうなほど深い滝壺に大迫力で水が流れ出ます。そして、この滝には不動滝伝説が残されています。
不動の滝
 保元・平治の乱の頃、この辺りには都を逃れた落ち武者が40戸あまりの集落をなして隠れ住んでいました。その集落の寺の住職、智証和尚は74歳の時、寺の財産に目を付けた農民に殺されてしまいました。付知峡に投げ捨てられた和尚の屍は、不思議なことにまるで生き物のように皮を遡り、不動滝に流れ着いた袈裟は滝壷でいつまでも渦を巻いていたそうです。
不動の滝
 分岐から仙樽の滝の方面に向かうと、小さな吊橋があります。仙樽の滝の前には大きな淵があり、大きな石がゴロゴロしています。仙樽の滝は落差15mほどで、幅は5,6mほどあります。堂々とした重量感のある迫力ある滝です。
仙樽の滝



熊谷守一記念館
くまがいもりかずきねんかん
岐阜県中津川市付知町4956ー52 アートピア付知交芸プラザ内
Tel 0573-82-4911


 熊谷守一記念館は中津川市(旧恵那郡付知町)出身の洋画家熊谷守一の偉業を記念し、昭和51年(1976)に開館、平成8年(1996)アートピア付知交芸プラザの中にオープンしました。熊谷画伯の書画など30点あまりを展示しています。
 東京の池袋郊外にあった木々がおいしげった自宅兼アトリエから、晩年はほとんど一歩も外に出ずに、身のまわりの虫や猫やチョウなどを描きました。金や名声には全く興味がなく、文化勲章の内定も辞退し、97歳まで現役を続け「画壇の仙人」と呼ばれました。



馬籠宿
まごめじゅく
岐阜県中津川市馬籠
Tel 0573-69-2336 馬籠観光協会


 「馬籠宿」は木曽11宿の最南端で美濃との国境にあり、中山道69次の43番目の宿場町です。文豪・島崎藤村のふるさとであり、藤村の生家である馬籠宿本陣跡には「藤村記念館」、「清水屋資料館」「馬籠脇本陣資料館」など、小説「夜明け前」にも登場する家も多いところです、
 馬籠は長野県の山口村でしたが平成17年(2005)に岐阜県中津川市に県を超えた合併をしました。中世までは美濃国、信濃国に編入され、江戸時代は名古屋藩の領地となって廃藩置県を迎えました。名古屋県、筑摩県、長野県、岐阜県と変わりました。
 馬籠宿は木曽路はすべて山の中の通りに山の斜面に沿った全長600m余りの「坂に開けた宿場」です。明治28年(1895)と大正4年(1915)の二度の火災によって宿場のほとんどが焼失しました。通りの中央に敷き詰められた石畳と、枡形が往時の姿をとどめ、格子のある江戸時代を彷彿とさせる家並みが再建されました。妻籠宿とともに全国で最初の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
 藤村記念館は島崎藤村の生家であり、馬籠宿本陣で、昭和22年(1947)に完成されました。館内には藤村像や「夜明け前」などの作品や原稿、遺愛品、明治大正詩書稀覯本コレクションなど約6千点を所蔵展示されています。
藤村記念館
 馬籠脇本陣史料館は馬籠宿の脇本陣で、屋号を「八幡屋」といい、馬籠宿の年寄役も兼ねていました。上段の間を復元し、当時使用していた家財や什器を展示し、江戸時代の木曽路独特の文化や制度を紹介しています。
馬籠脇本陣史料館
 清水屋資料館の「清水屋」は島崎藤村の作品「嵐」にでてくる「森さん」こと原一平の家です。藤村の書簡、掛軸、写真、江戸時代の文書、書画、陶磁器、漆器類などの数々の遺品が2階の資料館に展示してあります。
清水屋資料館
 大黒屋は島崎藤村の「夜明け前」に伏見屋金兵衛として登場します。この家の10代目が文政9年(1826)から明治3年(1870)まで書き続けた「大黒屋日記」が藤村の目にとまり「夜明け前」の基になったといわれています。現在は大黒屋茶房となり「栗強わ飯(くりこわめし)」が有名です。
大黒屋茶房
 馬籠宿の南に「枡形」があります。枡形は城郭の枡形を模したもので、宿場の防衛上設けたものです。坂の下部分に枡形があり、視察に訪れた岩倉具視の乗った人力車が曲がりきれずに、民家に突っ込んだといわれています。
枡形・水車小屋


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