直線上に配置

更新日:  



あなたは

番目の訪問者です
(ogino作成共通カウント)



旅と歴史ホームページ

OGIさんのHP

信州上田ホームページ

信州長野ホームページ

真田一族のホームページ

Mr.ogino旅ホームページ

上田の旅と歴史HP

信州の旅HP

日本の旅

世界の旅HP



日本の旅
日本の旅          山梨・甲府

恵林寺
えりんじ
山梨県甲州市塩山小屋敷2280
Tel 0553-33-3011
 乾徳山恵林寺は、臨済宗妙心寺派のお寺です。元徳2年(1330)、領主であった二階堂道蘊(どううん)が名僧、夢窓国師を招いて創建した甲州随一の名刹です。夢窓国師のあと、絶海中津や龍湫周沢らの高僧が住持して臨済禅の中心になりました。
 永禄年間(1558-1570)に武田信玄は寺領300貫を寄進しています。永禄7年(1564)快川紹喜を招いて住持とし、自らの菩提寺としました。仏教とともに様々な香り高い文化が甲斐の国に伝えられました。
 緑濃い広大な境内は3万平方mもあります。諸堂が立ち並び、夢窓国師が作庭した本堂裏手の池泉回遊式庭園は国の名勝に指定されています。重要文化財の赤門、信玄の墓所などがあり、禅の気風が漂う、簡素で美しい寺院です。
 鎌倉時代の禅宗様式を伝える庭園は、京都の天龍寺、西芳寺とともに、国師築庭の代表作で、上段は枯山水、下段は心字池と築山の2段構えの美しさを見せています。建物をつなぐ橋には庭を眺める為の縁台が設けられていて、当時のわびさびを感じる事ができます。
 武田晴信(信玄)は武田信虎の長男で、大永元年(1521)に生まれました。天文10年(1541)、21歳で家督を次ぎ甲斐国主となりました。性格武勇沈着、こよなく家臣団・領民を愛する武将であったようです。
 信玄は元亀 4年(1573)、53歳でが没します。葬儀は、3年間の秘喪の後、天正4年(1576) に、ここ恵林寺において、勝頼を喪主として盛大に営まれました。
 甲斐武田氏滅亡後の天正10年(1582)、恵林寺は織田信長の嫡男・信忠率いる織田軍に包囲されました。信長に敵対した南近江の佐々木(六角)義治らがこの恵林寺に匿われていたからです。信忠は身柄の引渡しを要求しましたが、快川国師は拒否したため、焼き討ちされ、恵林寺は灰燼と帰しました。
 その年に本能寺の変で信長・信忠が殺害されると、徳川家康が甲斐の領主となりました。家康は恵林寺の復興に尽力し、幕府から永世特別保護寺院の扱いを受け、格式は10万石の大名なみであったそうです。又、恵林寺は5代将軍綱吉の側近で、甲府城主となった柳沢吉保の菩提寺でもあり、庇護を受け繁栄しました。

 恵林寺は武田氏滅亡時に織田軍によって焼かれてしまいました。後に徳川家康により再建されました。赤門は四脚門でこの時に再建された門です。慶長10年(1606)の棟札があり、国の重要文化財に指定されています。
恵林寺赤門
 恵林寺の三門は、天正10年(1582)近江の豪族佐々木義治をかくまったことから、織田の怒りを買い、快川国師が114人の僧と共に楼上で焼殺された場所です。その際に「安禅不必須山水、減却心頭自涼」の言葉を残したそうです。これは「安禅は必ずしも山水を用いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」という意味だそうです。
恵林寺三門
 恵林寺にある武田信玄の訓言の石碑です。7割の勝ちをもって良しとし、決して勝ち過ぎてはいけないとの戒めです。
武田信玄訓言
 信玄霊廟明王殿の裏側には武田信玄の墓が建っています。信玄の墓は全高349.6cmの五輪塔と369.6cmの宝篋印塔の2つです。これらは寛文12年(1672)の信玄百回忌に際して武田家遠孫と旧家臣団によって建立されたそうです。
武田信玄の墓
 「風林火山」とは孫子からの引用文であり「疾如風徐如林侵掠如火不動如山」を意味するそうです。「早きこと風のごとし、静かなること林のごとく、侵略すること火のごとく、動かざること山のごとし」という意味で武田軍の軍旗などにも書かれていました。
風林火山
 恵林寺には柳沢吉保夫妻の墓があります。吉保は幼少から綱吉の小姓でした。綱吉が5代将軍になってからは小納戸役となり、後に側用人となりました。川越藩7万石老中格、老中上座(大老格)、松平吉保とも名乗りました。宝永元年(1704)甲府15万石の領主となり、綱吉が没すると隠棲しました。
柳沢吉保夫妻の墓
 明敏な才気と好学によって綱吉の信任を得、綱吉とその母桂昌院の信任で異例の立身出世をとげました。元禄の側用人政治との批判もあびましたが、学問を奨励、荻生祖徠を登用するなど功績も大きかったようです。
柳沢吉保夫妻の墓
 渡り廊下の先には、歩くときゅきゅと音がするうぐいす廊下があります。人が上を歩くときしみ音がするように板を張って仕上げているのです。
うぐいす廊下



放光寺
ほうこうじ
山梨県甲州市塩山藤木2438
Tel 0553-32-3340
 恵林寺のすぐ北にある高橋山放光寺は真言宗智山派に属するお寺で、金剛界大日如来が本尊です。平安時代に大菩薩峠の山麓に法光寺と称する山岳信仰の寺院として開かれたのが始まりと伝えられています。
 元暦元年(1184)、新羅三郎義光の孫清光の子である安田義定が賀賢上人を招いて天台宗の寺院として開山し、歴代安田家の菩提寺となりました。
 安田氏が滅ぶと武田氏の祈願所として庇護されました。寺領の寄進や諸役の免除が行われ、寺運は隆盛し、最盛期には甲斐国檀林7ヶ寺の触頭(ふれがしら)として、寺領1000石、塔頭12、末寺70ヶ寺を擁する大寺となりました。
 天正10年(1582)、織田信長の兵火にかかり堂宇の全てを焼失しました。信長が本能寺に変で殺害され、徳川家康が領主になると放光寺は再興され寺領として小曽郷が安堵されました。寛文18年(1642)、徳川家光から朱印地状を賜わっています。
 武田家の遠縁にあたる甲府藩主柳澤吉保と幕府作事奉行の保田若狭守宗雪により本堂などの堂宇の再建が行われ、宗雪は中興開祖と位置づけられています。
 広い境内には本堂、愛染堂、薬師堂、仁王門、毘沙門堂、拝殿、庫裏、唐門、鐘楼、方丈、書院、総門などが建ち並んでいます。平成元年(1989)に制作された周防正行監督、本木雅弘主演の映画「ファンシイダンス」のロケ地にもなっています。
 宝物殿には本尊の大日如来、天弓愛染明王、金剛力士像(重要文化財で仁王門内に安置されています))と不動明王の仏像(重要文化財)が納められています。早春には梅、6月には花菖蒲、紫陽花など四季折々に花が咲くため、花の寺とも呼ばれています。

 放光寺の本堂は桁行9間、梁間6間、一重入母屋造り、銅板葺き(もと茅葺き)の建物です。元禄年間(1688-1704)に建てられた方丈形式の寺院建築です。平面は南北に2列、東西に3列の6室からなり、南側に広縁、東西両側に入側を設けています。南面の中央は、板敷、その奥が仏間です。甲州市の文化財に指定されています。
放光寺本堂



西沢渓谷
にしざわけいこく
山梨県山梨市三富川浦
Tel 0553-22-1111 山梨市役所観光課
 西沢渓谷は、秩父多摩甲斐国立公園内に位置し国内屈指の渓谷美を誇る景勝地です。森林浴のリラックス効果が実証され、森林セラピー基地に認定されています。
大久保の滝
 西沢渓谷は滝や淵が連続して続く渓谷です。笛吹川上流の流れが作り上げた渓谷で、山梨、長野、埼玉3県が境を接する場所にあります。
三重の滝
 巨大な花崗岩を清流が浸食してできた天然の芸術です。原生林を流れる渓流がいくつもの滝を作り、神秘的な魅力に満ちあふれています。渓谷に一歩足を踏み入れると、滝や瀞、淵、奇岩などの素晴らしい見どころが次から次へと現れます。
竜神の滝
 二俣吊り橋を渡ると大久保の滝があります。三重の滝、魚止の滝、フグ岩、人面洞、竜神の滝、恋糸の滝、貞泉の滝、母胎淵、カエル岩のあと、圧巻は七ツ釜五段の滝です。
貞泉の滝
 「21世紀に残したい日本の自然100選」「平成の名水百選」「森林浴の森100選」「水源の森100選」「新日本観光地100選」「日本の滝100選」などに選定されています。渓谷内はトレッキングコースが整備され、比較的軽装でもその素晴らしさを堪能することが出来ます。
七ツ釜五段の滝



清白寺
せいはくじ
山梨県山梨市三ケ所620
Tel 0553-22-0829
 海涌山清白寺は、足利尊氏が夢窓疎石(国師)を開山とし、正慶2年(1333)に創立したと伝えられる臨済宗のお寺です。
 仏殿の建立は、組物に墨書が発見され、応永22年(1415)と判明しました。天和2年(1682)の寺院火災にあい、伽藍、塔頭を焼失しています。仏殿(観音堂)だけが幸いにして焼け残りました。昭和30年(1955)、国宝に指定されました。
 寺に通じる狭い参道は山門までまっすぐのびていて、両側はウメの古木が並木となっています。寺に入るまでの道は狭くブドウ畑の金網が車に当たってしまいそうです。寺号の清白は源氏の白旗から来たものといい、寺の紋も「丸に二引両」の足利氏の紋を用いています。
 清白寺はその建築様式が禅宗様伽藍配置となっています。総門、放生池、三門、仏殿、法堂が一直線上に続いています。仏殿と庫裏以外は江戸時代の建立です。

 国宝の仏殿は石組みの基段の上に桁行3間、梁間3間、1重もこし付き、桧皮(ひわだ)葺きの入母屋造りです。応永22年(1415)建立で、室町時代の典型的な唐様の仏殿として貴重な遺構です。軒は曲線が二重になっていて、当時禅宗とともに移入された宋様建築独特の美しさを形づくっています。
清白寺仏殿
 内部は柱がすべて円柱で、かつては絹張りの上に漆が施されていたようです。天井は鏡天井で竜の墨絵が描かれ、内陣の須弥壇(しゅみだん)も宋様の珍しいものだそうです。堂内には千手観音が祀られているので観音堂とも呼ばれています。
清白寺仏殿

 正面右手にある庫裏は茅葺きの大きな屋根に木組みの白壁という優美なもので、県の文化財に指定されています。西側にある井戸は諏訪湖に通じているといわれ、そこから「海涌山」と号したといわれています。この井戸は日照りのときにも涸れることがなく、水位が諏訪湖と常に同じだと言い伝えられています。
清白寺庫裏



窪八幡神社
くぼはちまんじんじゃ
山梨県山梨市北654
Tel 0553-33-6950
 窪八幡神社の創建は貞観元年(859)、清和天皇の勅願により、九州にある宇佐八幡宮の分霊を笛吹川と重川の中島・大井俣(おおいまた)の地に勧請したのが始まりと伝えられています。当初は大井俣神社といわれていました。
 康平年間(1058-1065)、甲斐源氏の祖・新羅三郎義光が現在地である窪へ遷座しました。そのため、大井俣窪八幡神社、窪八幡神社と呼ばれるようになりました。
 以来、武田家の崇敬と保護厚く、10代信綱から16代信玄にいたる歴代武田家によって社殿の再建・修理や社領の寄進などが行われました。応永17年(1410)、甲斐守護職武田信満により社殿が再建されました。
 しかし、永正13年(1516)、大永元年(1521)と度重なる今川氏の甲斐侵攻の兵火により本殿以外の多くの社殿が焼失しました。今川勢が撤退すると境内の整備が進み大永5年(1525)には普賢堂、薬師堂、鐘楼などが再建されました。
 天正10年(1582)、武田家が滅ぶと織田信長に社領を没収されましたが、本能寺で信長が殺害された後、領主となった徳川家康からは社領が安堵されました。古くから神仏習合し別当には普賢寺があたっていましたが、明治時代に入って発令された神仏分離令により仏式が廃されました。
 窪八幡神社の鳥居、神門と石橋、拝殿、本殿、木造狛犬、摂社若宮八幡神社の拝殿と本殿、末社武内大神本殿、末社高良神社本殿、末社比梼O神本殿などが国の重要文化財に指定されています。また窪八幡神社鐘楼、窪八幡神社如法経塔が山梨県指定文化財です。

 鳥居は、神社境内から東方に離れた参道にあって、神門を望む位置に建てられています。天文4年(1535)、武田信虎によって42歳の厄払い祈願のため建立された鳥居です。正面に「大井俣神社」と文字金箔押しの木製神額が掲げられています。日本で一番古い木造の鳥居です。
窪八幡神社鳥居
 鳥居は、高さは7.41m、横幅が5.91mあり、両方の柱の前後に控柱をつけた木造両部鳥居です。材質には目の込んだ杉が使われていて、親柱を連結する貫だけは節の多い松が使われています。室町時代の鳥居として国の重要文化財に指定されています。
窪八幡神社鳥居

 神門は、境内の正面入口に東面して建ち、総門とも呼ばれます。社記によると、永正8年(1511)に建てられています。その後、明和6年(1769)に修理されていることが箱棟の墨書によって明らかになっています。
窪八幡神社神門
 切妻造り、桧皮葺きの四脚門で、素木造りです。中央両側に太く丸い親柱が礎盤の上に立ち、冠木(かぶき)の木に板蟇股や束をたてて棟木をささえ、桧皮葺きの屋根を置いています。恵林寺の四脚門と同じ形です。神門は昭和28年(1953)、国の重要文化財に指定されています。
窪八幡神社神門

 神門の前の堀には軽く反った石橋がかかっています。社記の記録によると、天文4年(1535)、武田信虎によって42歳の厄払い祈願のため鳥居とともに建立されています。
窪八幡神社石橋
 石橋はがっしりした反橋で、繰形の透かしを入れた勾欄(こうらん)から擬宝珠(ぎぼし)をつけた親柱までをぶ厚い1枚石で彫り上げています。窪八幡神社神門附石橋1基として昭和28年(1953)に国の重要文化財に指定されています。
窪八幡神社石橋

 国指定重要文化財の窪八幡神社拝殿は本殿の前に建立されています。社記には天文22年(1553)に武田信玄が、信州の村上義清を攻略の際に祈願成就のため造替が行われたと記されています。弘治3年(1557)、宿願が成就し、報恩のため拝殿を建立したことが社記・墨書銘によって明らかにされています。
窪八幡神社拝殿
 拝殿は本殿とほぼ同じ桁行11間という長い建物です。梁間3間、1重切妻造り、桧皮葺きです。左右が対称ではない点、床が低い点などは神社拝殿としては特異で、庁屋(現在でいう社務所)として使用されていたと考えられます。鰐口の表面には天文22年(1553)、裏面には弘治3年(1557)の刻銘があります。
窪八幡神社拝殿

 窪八幡神社本殿は11間社流造り、桧皮葺きで、現存する日本最大の流造本殿です。桁行11間(22m)、梁間2間で、3間社流造りの3社が間に1間をおき、それぞれ横に連結しています。中央に誉田別尊(応神天皇)、左の北殿に足仲彦尊(仲哀天皇)、右の南殿に気長足姫尊(神功皇后)が祀られています。
窪八幡神社本殿
 昭和26年(1951)の解体修理の際、中殿から永正16年(1519)の墨書が発見されました。社記によると、武田信虎が再建した建物で、享禄4年(1531)信虎が修復、弘治3年(1557)信玄が川中島合戦の戦勝祈願成就によって、御扉と金箔による豪華な壁画を奉納しています。本殿は明治40年(1907)、国の重要文化財に指定されています。
窪八幡神社本殿

 窪八幡神社摂社の若宮八幡神社拝殿は、若宮八幡神社本殿の前にあり、本社拝殿の右に建っています。社記によると、天文5年(1536)武田信虎が再建した建物です。隣の本社拝殿により20年ほど早く建てられています。昭和24年(1949)国の重要文化財に指定されています。
摂社若宮八幡神社拝殿
 桁行4間、梁間3間、入母屋造り、屋根は桧皮葺きです。装飾的な部分が少ない簡素な建物で、落ち着いた外観をあらわしています。様式、手法は本社拝殿に似ていますが、本社拝殿が切妻造りであるのに対して、この拝殿は入母屋造りになっています。
摂社若宮八幡神社拝殿

 窪八幡神社摂社の若宮八幡神社本殿は本社本殿の右に並立しています。 昭和24年(1949)国の重要文化財に指定されています。祭神の大鷦鷯尊(仁徳天皇)は、本社祭神と縁故が深い神なので摂社といわれています。社記によると、応永7年(1400)武田信昌が再建と記されていますが、建築様式から15世紀後期、信綱の再建と推測されています。
摂社若宮八幡神社本殿
 三間社流造り、桧皮葺きで、軸部の内部まで仕上げられた円柱、幣軸構えの形式、脇障子を省略した縁、きわめて深く折れた破風の反りなど、多くの点が古い方式で造られています。数多い窪八幡神社社殿のなかでも最古の建造物です。
摂社若宮八幡神社本殿

 国指定重要文化財の窪八幡神社末社の武内大神本殿は本社本殿の左の南側にあり、武内宿禰(たけのうちすくね)を祀っています。宿禰は景行・成務・仲哀・応神・仁徳天皇の5代の天皇に棟梁之臣・大臣として仕え、国政を補佐したとされる長生きをしたという伝説的人物です。
末社武内大神本殿
 社記によると、明応9年(1500)、武田信昌の時、久保川豊前守の奉行で再建されたとされています。質素な素木造りで、9段の木階を付け、回縁には刎高欄をめぐらせています。この社殿の絵様彫刻は優美な曲線を示し、木割は雄大でよく整い小規模の本殿建築の代表作といわれています。
末社武内大神本殿

 窪八幡神社末社の高良神社本殿は本社拝殿の南側に建ち、高良明神を祀っています。武内大神本殿と同じく明応9年(1500)、武田信昌の時、再建されたとみられています。昭和24年(1949)国の重要文化財に指定されています。
末社高良神社本殿
 一間社隅木入春日造り、桧皮葺きで、室町時代後期の手法をよく示しています。向拝角柱大面取り、虹梁木鼻に天竺様皿(さら)斗を置いています。軒は向拝一軒、身舎は二重、正面千烏破風に木連格子を用いています。懸魚は猪目で上に鬼板を載せています。
末社高良神社本殿

 窪八幡神社末社の比梼O神本殿は境内前部の池の中島に建てられています。祭神は田心姫命(たこころひめのみこと)、湍津姫命(にきたづひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)の三神です。明治時代初期まで「弁財天」と呼ばれていました。
末社比梼O神本殿
 一間社流造り、銅板葺き(もとは桧皮葺き)の現在の社殿は寛永2年(1625)徳川忠長が再建したと伝えられています。身舎正面で87cmと小さな社ですが、白・朱・黒と各部を塗り分け、金箔を施した総漆塗りです。華麗な社殿で、江戸時代初期の様式の特色をよく示し、国の重要文化財に指定されています。
末社比梼O神本殿

 窪八幡神社鐘楼は本社拝殿の北東に位置しています。桁行1間、梁間1間、袴腰付、桧皮葺き、寄棟造りです。明応9年(1500)頃の建立と推定されています。神仏習合の姿を残す貴重な建物です。倒壊寸前でしたが、県有形文化財に指定され、昭和56年(1981)解体復元されました。
窪八幡神社鐘楼

 窪八幡神社にある如法経塔は、享禄5年(1532)に建てられました。如法経塔とは、「写経に羽毛を用いず草を筆とし石を墨として一字ことに礼拝書写するいわゆる如法業(にょほうぎょう)によった経文を埋納して建てた塔」のことです。
窪八幡神社如法経塔
 この塔は安山岩製で、高さ1.40m、基礎、塔身、笠などの示す比率はよく均衡が保たれています。たるき型を設けた軒の反りが屋根の反り方と相まって、室町期の特色を現わしています。全国的にも数少ない貴重な塔で、昭和54年(1979)に山梨県の有形文化財に指定されています。
窪八幡神社如法経塔



天神社
てんじんしゃ
山梨県山梨市大工1563
 太良峠へ登る途中の山梨市の大工という部落に窪八幡神社の末社、天神社があります。天神社は康平7年(1064)、新羅三郎義光の創建とされ、窪八幡造営に関わった大工達により造営されたといわれています。この地は玉井荘大工郷といわれました。ここに大工が数多く住むようになり、地名として残されたようです。
 「甲斐国志」には「3月2日闘鶏・射的、9月9日流鏑馬、大宮司・祠官・社家・氏子等相会して祀る」と往時の盛事を記しています。現在は松や杉の大木に中に、本殿、拝殿、潔斎所の3棟がひっそりと建っているだけです。

 本殿は「甲斐国志」により、大永2年(1522)、武田信虎が大工土佐守に命じて再建したことがわかっています。一間社流造り、檜皮葺きの建物です。大正6年(1917)銅板葺きに変えられていましたが、昭和59年(1984)、檜皮葺きに復元されています。
天神社本殿
 背部の脇障子が江戸時代の改修により旧規を失っていますが、他は室町時代後期の姿をよく残し、清楚な形を今に伝えています。 全体の構成は窪八幡神社末社武内大神本殿と良く似ています。昭和28年(1953)国の重要文化財に指定されています。
天神社本殿



塩沢寺
えんたくじ
山梨県甲府市湯村3ー17ー2
Tel 055-252-8556
 福田山塩沢寺(えんたくじ)は真言宗智山派のお寺です。大同3年(808)、この地を巡錫中の弘法大師が創建したと伝えられています。「人間一期必ず大小二十五度の厄難あり、われ衆生のため大悲薩?(だいひさった)の降臨を請わん」と17日の祈願をしました。
 すると、正月14日に一寸八分の霊影が岩上にあらわれたので、大師は諸工に命じ、山を開き岩を穿って、みずから六寸余の坐像を彫刻し、胸中に降臨した霊仏の霊をこめて開眼しました。これが秘仏の厄除地蔵尊で、広く信仰を集めるようになりました。
 以来、霊験を仰ぐため毎年、旧暦の1月14日にあたる、2月13日から14日の昼にかけて厄除地蔵尊祭りが開かれます。この時だけ地蔵尊は耳を開き、善男善女の願いを聞きいれてくれるので、厄難から逃れることができるというのです。
 天歴9年(955)には空也上人が訪れ、弘法大師が刻んだ厄除地蔵尊を模した像を彫り込んで安置しました。これが地蔵堂内陣に安置されている石造地蔵菩薩像だということです。建長2年(1250)頃には大覚禅師(蘭渓道隆)が寺を再興しているそうです。

 塩沢寺地蔵堂は桁行4間、梁間3間、1重寄棟造りで茅葺き形銅板葺きです。室町時代末期に建てられたと推定されています。柱は円柱、内部の構成が密教系仏堂の流れがあり、和様と唐様が混合した貴重な寺院建築です。昭和24年(1949)に国の重要文化財に指定されています。
塩沢寺地蔵堂

 塩沢寺には舞鶴の松と呼ばれるクロマツがあります。枝が東西に長く張り、東に14m、西に15mにも及ぶ美しい樹形を呈しています。鶴が両翼を開いて舞い上がる姿に似ていることから舞鶴の松といわれるようになりました。
塩沢寺舞鶴の松



武田神社
たけだじんじゃ
山梨県甲府市古府中町2611
Tel 055-252-2609
 武田神社は戦国時代、武田信虎・信玄・勝頼の3代が住んだ「躑躅(つつじ)が崎館」の跡地に、大正8年(1919)に建立されました。武田神社の祭神は武田信玄です。境内には重厚な造りの社殿、武田家ゆかりの武具や資料を収めた宝物殿などがあります。
 躑躅が崎館は信玄の父、武田信虎が永正16年(1519)に石和から移り築いたもので、信玄の時代を経て、勝頼が新府城を築くまでの間、武田氏の拠点でした。境内には館の土塁・堀・石垣が残っています。戦国大名の館としては全国最大規模を誇っており、国の史跡として指定されています。
 躑躅が崎館は文禄年間に館の南方に今の甲府城が作られるまでの約70年にわたり政治、経済、文化の中心地として発展しました。武田氏滅亡後は破却されました。そして、甲府城を中心とした城下町となりました。
 明治維新後、歴史上の忠臣や勤皇家に追贈が行われ、日露戦争後には神社に武神・軍神を祀ることが奨励されました。大正4年(1915)、大正天皇の即位記念に武田信玄に従三位が追贈されたのを契機に軍神といわれた武田信玄を祀った神社創建の運びとなりました。



山梨県護国神社
やまなしけんごこくじんじゃ
山梨県甲府市岩窪町608
Tel 055-251-3632
 山梨県護国神社の前身は明治12年(1879)、招魂社として市内太田町に建立されたのが始めです。昭和17年(1942)に現在地に遷座し、昭和19年(1944)、山梨縣護國神社に改称しました。
 この場所は柳沢吉保の菩提寺である「永慶寺」の跡地だった所です。「永慶寺」は柳沢家が国替えにより奈良の郡山へ移封されたことから大和郡山市に移転しています。
 山梨県護国神社では西南戦争以来の山梨県関係の戦没軍人・軍属の英霊25000柱余りを祀っています。甲府には歩兵第49聯隊があり、近くの竜王町には甲府陸軍飛行場(岐阜陸軍飛行学校分教場・山梨航空技術学校)、山梨飛行場(熊谷飛行学校甲府分校)があったので当時は参拝する人が絶えなかったそうです。



円光院
えんこういん
山梨県甲府市岩窪町500ー1
Tel 055-253-8144
 瑞岩山円光院は、臨済宗妙心寺派のお寺です。保元年間(1156-1158)に甲斐源氏の祖とされる源清光が清光院という寺名で開いたのが始まりと伝えられています。武田信守が父親である信重の牌所として成就院としました。
 永禄3年(1560)武田信玄が小石和からこの地に移し甲府五山に定め、説三和尚を招いて中興開山しました。元亀元年(1570)、信玄の正室三条夫人が50歳で亡くなると、夫人の菩提寺となり法名から円光院と寺号を改めました。
 三条夫人は京都の公家である左大臣・三条公頼(きんより)の次女です。今川義元の媒酌で天文5年(1536)16歳の時信玄と結婚しました。そして義信、海野信親(竜宝(りゅうほう))、信之、黄梅院(おうばいいん)(北条氏政夫人)、見性院(けんしょういん)(穴山梅雪夫人)を生んでいます。
 三条夫人の姉は細川晴元夫人、妹は本願寺門主・光佐(顕如(けんにょ))夫人の如春尼です。一向宗の勢力を利用し加賀、越中で一向一揆を起こさせるなど上杉謙信の背後を脅かしました。
 円光院には信玄の寄進状や刀八毘沙門天が伝えられています。信玄が死に際に、馬場美濃守に命じて、軍陣の守本尊とした勝軍地蔵尊や愛用の茶器、茶釜、武田家源氏系図などを円光院に奉納した貴重な物も残されています。

 信親は生まれながらの盲目で、嫡男義信は父信玄に背いたとして東光寺に幽閉され自害、三男信之は早世と幸せな人生ではなかった三条夫人。「円光院殿梅岑宗大禅定尼」三条夫人の墓は昭和42年(1967)に山梨県指定史跡に指定されています。
三条夫人の墓



信玄火葬塚
しんげんかそうづか
山梨県甲府市岩窪町240
Tel 055-253-8144 円光院
 元亀3年(1572)武田信玄は、三方ヶ原で織田・徳川軍を破り敗走させました。翌年には三河国に進出し、野田城を落とします。持病悪化のため、長篠城に滞在の後、甲斐へ戻る途中、信濃国伊那の駒場(長野県下伊那郡阿智村)で信玄は没しました。
 信玄は遺言で、喪を3年間秘めることを命じました。信玄の遺骸は密かに甲斐へ運ばれ、塗籠(ぬりごめ)の中に納められたそうです。3年後、遺骸は、武田24将の1人、土屋右衛門昌続の邸内であったこの場所で荼毘に付され、天正4年(1576)恵林寺において葬儀が盛大に執り行われました。
 安永8年(1779)、甲府の代官であった中井清太夫が魔縁塚といわれたこの地を発掘して石棺を見つけました。「法性院機山信玄大居士・天正元年発四月十二日薨」という銘がありました。もとのように埋めて幕府に届け出ました。信玄の墓と定められ、武田旧臣有志らによってその時に石碑が建てられたそうです。



河尻塚
かわじりづか
山梨県甲府市岩窪町268
 この地は織田信長の家臣河尻秀隆の首塚とも、また彼の屋敷跡とも伝えられています。天正10年(1582)織田信長が武田氏討伐の軍を起した時、河尻秀隆は軍目付として活躍し、甲斐22万石を与えられました。信長の権力を利用し威圧的な政治を行ったと伝えられています。本能寺の変により信長が殺害されると、秀隆に反感を抱いていた武田家の旧臣や農民たちの一揆が起こり、武田遺臣・三井弥一郎に切られたそうです。
 埋葬される時、秀隆は圧政の恨みをかってさかさまに埋められたことから「さかさ塚」とも呼ばれています。信玄火葬塚の近くにあります。



大泉寺
だいせんじ
山梨県甲府市古府中町5015
Tel 055-253-2518
 万年山大泉寺は愛宕山から北へ続く大笠山西麓にある曹洞宗のお寺です。大永元年(1521)、武田信虎が開基、天桂禅長を開山として創建されました。歴代武田氏から庇護され寺運が隆盛し甲斐国領国内の曹洞宗寺院を統括する僧録所となりました。
 信虎は武田五郎信縄の長男として明応3年石和の居館で生まれました。永正4年(1507)14才のとき武田氏18代の甲斐国主となりました。武蔵、相模、駿河、信濃と隣国を征し、甲斐の支配を固めていきました。しかし、傍若無人な性格からか次第に人心を失っていきました。
 天文10年(1541)信濃から凱旋した信虎は、娘婿の今川義元と会うために河内路を駿河に赴くと、嫡男の晴信(信玄)は甲駿国境を封鎖して信虎を強制隠居させました。晴信は武田家家督と守護職を相続し、信虎は追放され、今川義元の元に寓居することになったのです。
 信玄の死んだ翌年の天正2年(1574)、甲斐から追放されていた信虎は信濃国高遠(長野県伊那市高遠町)で81歳の生涯を閉じました。葬儀は武田勝頼によって、この大泉寺において営まれました。大泉寺には戦場から葬儀にかけつけた勝頼が手を洗ったという井戸が残されています。
 大泉寺の寺宝には信虎三男の信廉筆による「絹本著色武田信虎像」「絹本墨画松梅図」の重要文化財をはじめ、「紺紙金泥法華経八巻」「信虎・信玄の笈」狩野探信筆の「絹本著色武田信玄画像」、武田家関係の古文書などがあります。

 永慶寺から移築されたと伝えられる総門は甲府市指定文化財です。黄檗宗様式の門として建物細部の造りは宇治万福寺の総門に極めて良く似ています。永慶寺は宝永7年(1710)、甲府城主柳沢吉保が建立した菩提寺です。享保9年(1724)年柳沢氏の大和郡山への転封に伴って移転することになり廃寺になりました。
大泉寺総門

 境内にある御霊殿(みたまや)には、信虎、信玄、勝頼の肖像があります。また、柳沢家が寄進した武田家3代の木像が安置されています。御霊殿裏の軒下に、信虎、信玄、勝頼の墓が3基あり、信虎の墓は山梨県の史跡に指定されています。
大泉寺御霊殿



東光寺
とうこうじ
山梨県甲府市東光寺3ー7ー37
Tel 055-233-9070
 法蓋山(ほうがいざん)東光寺は、本尊を薬師如来とする臨済宗妙心寺派のお寺です。東光寺は長禅寺、能成寺、法泉寺、円光院と共に甲府五山の一つに数えられる名刹です。
 東光寺の前身は新羅三郎義光が保安2年(1121)に、諸堂を建立した興国院にはじまるといわれています。文久5年(1268)、鎌倉建長寺を開山した中国の禅僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)(大覚禅師)が鎌倉を追われ甲斐に配流されました。
 そして、蘭渓道隆は、弘長3年(1263)興国院に入山して、荒廃した諸堂を修復し、禅宗寺院として再建し、本格的な宋朝禅を伝え、東光寺としました。その後、鎌倉幕府の執権北条高時(法名崇鑑)から、幕府の官寺として「五山」「十刹」につぐ「諸山」に列せられました。
 戦国時代には、武田信玄が定めた外護、府中五山の一つに列せられた名刹になっています。天正10年(1582)、織田信長に焼かれ、住持藍田和尚は恵林寺に避難しましたが、のち快川和尚ら114人の僧と共に三門の楼上で焼殺されました。
 境内には山門、仏殿、本堂が一直線に並んで建っています。本堂の裏には背後に迫る山を利用して作った池泉観賞式の庭園があります。これは蘭渓道隆の作と伝えられ、中国北宋の様式を色濃く残す名園です。
 江戸時代に入り、甲府城主・柳沢吉保、吉里父子により伽藍の整備や修理が行われ往時の壮麗な姿が戻りました。しかし、甲府大空襲などでほとんどの建物が焼失してしまいました。
 本堂裏山の墓地には武田義信と諏訪頼重の墓があります。義信は長男でありながら父信玄と対立しました。永禄8年(1565)に謀反の疑いをかけられ、この東光寺に幽閉され永禄10年(1567)に亡くなっています。
 諏訪頼重は名族諏訪氏19代当主で、信玄の妹を夫人に迎えていましたが武田信玄に攻められて敗れ、この寺に幽閉され切腹させられました。勝頼は信玄と諏訪頼重の娘(湖衣姫とか由布姫とかいわれていますが名前は分かっていません)の子です。

 仏殿は、幾たびかの兵火から奇蹟的に免れた室町末期の建物で鎌倉禅宗様式の代表的な建築物です。国宝の清白寺仏殿(山梨市)、最恩寺仏殿(富沢町)とともに、中世の宋様式建築の姿をとどめ、国の重要文化財に指定されています。
東光寺仏殿
 仏殿は天文年間(1532-1555)に建てられたと推定されています。桁行3間、梁間3間、入母屋造りで檜皮葺きです。一重もこし付の唐様仏殿です。堂内には県指定文化財の本尊である木造薬師如来座像と十二神将像が祀られています。
東光寺仏殿



善光寺(甲斐善光寺)
ぜんこうじ(かいぜんこうじ)
山梨県甲府市善光寺3−36−1
Tel 055-233-7570
 甲府市にある善光寺は浄土宗のお寺です。甲斐善光寺と呼ばれることが多く、甲州善光寺、甲府善光寺ともいわれます。定額山浄智院善光寺という山号は信濃の善光寺と全く同じです。天文21年(1552)の第2回目の川中島合戦では戦火が信濃の善光寺に及びました。
 武田信玄は永禄元年(1558)、上杉謙信との川中島の決戦による信濃の善光寺の焼失を避けるため、本尊善光寺如来像(秘仏)や諸仏、経典、寺宝、大梵鐘や僧侶などを移したのがこの甲斐にある善光寺の起こりです。
 甲斐善光寺の現在の本尊は銅造阿弥陀三尊像です。この像は信州の善光寺の前立仏で建久6年(1195)に尾張の僧である定尊が造ったもので、重要文化財です。秘仏ですが7年に一度の御開帳の時に見ることができます。
 信濃の善光寺の御本尊は甲斐の善光寺から信長がいた岐阜などに移されたりもしましたが最終的に長野に戻されました。そして前立仏は甲斐善光寺の御本尊となったのです。
 最初の遷座地は禰津村(現長野県東御市)でした。その後甲斐の法城寺に移り、永禄元年(1558)に現在の場所の板垣郷へ移されたそうです。この地は善光寺の由来にかかわりのある本田善光についての伝説がある所でした。
 信玄が建立した甲斐善光寺は江戸時代の宝暦4年(1754)に門前の農家の失火によって焼失してしまいました。金堂と山門が寛政8年(1796)に再建されました。これが現在の甲斐善光寺です。

 金堂は撞木(しゅもく)造りと呼ばれる独特の建築方で何と27mもの高さを誇ります。日本でも名高い木造建築物である。 信濃の善光寺は日本で3番目の大きさですが、建物の高さでは甲斐善光寺の方が5mほど高いそうです。豪壮な構えの甲斐の善光寺は東日本最大級の木造建築物なのです。
善光寺金堂
 桁行がおよそ38m、梁間はおよそ23mあります。昭和30年(1955)に国の重要文化財に指定されています。金堂の下には「心」の字をかたどる「お戒檀廻り」があり、鍵を触れることができれば75日間長生きできるそうです。
善光寺金堂
 金堂の天井には巨大な龍が二頭描かれており、廊下の部分だけが吊り天井となっていて手をたたくと多重反響現象による共鳴が起こります。一番共鳴が起こりやすい場所は足を置くしるしがしてあります。
善光寺金堂

 朱塗りの山門も国の重要文化財に指定されています。桁行およそ17m、梁間およそ7m、棟高およそ15mという大きな門です。門の両脇には未完成の金剛力士(仁王)像が祀られています。また、宝物殿には、法然上人、源頼朝像、熊谷直実像などをはじめ貴重な資料が保存されています。
善光寺山門



酒折宮
さかおりのみや
山梨県甲府市酒折3−1−13
Tel 055-231-2690
 景行天皇40年(110)、景行天皇は皇子日本武尊に蝦夷征伐を命じられました。陸奥国で戦わずして蝦夷を平定して、帰路、新治(茨城県真壁郡筑波)、甲斐国酒折宮、信濃国を経て、尾張国へ戻ったといわれています。
 東夷東征の帰途、日本武尊がこの地に立ち寄りました。塩海足尼(しおみたるに)は火打袋を賜り、尊の分身とし、奉祀したのが酒折宮の始まりといわれています。
 酒折行在中に、日本武尊は「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」(筑波から甲斐の国に来るまでいく晩寝ただろうか)と家臣らに歌いかけたところ、誰も答えるものがいなかったそうです。
 すると、身分の低い焚き火番の老人が、「日々(かが)並(なべ)て夜には九夜(ここのよ)、日には十日を」と歌い返したそうです。日本武尊は翁を褒めて東の国造(くにのみやつこ)に任命したと古事記には書かれているそうです。
 後年、この二人で一首の和歌を詠んだという伝説が、後世に「連歌発祥の地」とされた由縁になったそうです。連歌を「筑波の道」と呼ぶようになったのは、この故事が起因となったそうです。境内には本居宣長や平田篤胤、山県大弐といった石碑が数多く建立されています。



穴切大神社
あなぎりだいじんじゃ
山梨県甲府市宝2−8ー5
Tel 055-222-3852
 穴切大神社の創建は和銅年間(708-715)、元明天皇の頃に、甲斐国主が大己貴命の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。この穴切付近から縄文土器が出土していることから、相当古くから何かの祭場であったと考えられています。
 当時の甲斐国は大半が湖面で満たされていました。南の丘陵に大きな穴を切り出す大掛かりな疎水工事が行われ、国司は工事の安全と完成を大己貴命(おおなむちのみこと)に祈願しました。穴を切り出し、湖水を南に流した神が穴切大神でした。
 穴切大神に、水を導く瀬立不動と岩を破る蹴裂明神が協力して、湖だった甲府盆地の水をなくしたのでした。国司はこの神の助けを感謝して朝廷に請い、穴切大神の神号を受け、甲斐国鎮護の神として祀りました。

 穴切大神社の本殿は桃山時代に建てられたと推定されます。一間社流造り、檜皮葺きです。正面には美しい金具をつけた両開き戸があります。その前と両側面には欄干つきの板縁がめぐらされています。 
穴切大神社本殿
 木鼻、蟇股、懸魚などの各所に、桃山時代の彩色と、彫刻が施されています。貴重な神社本殿建築の遺構として昭和10年(1935)に国の重要文化財に指定されています。
穴切大神社本殿

 穴切大神社の随神門は3間1戸、2層の楼門です。寛政6年(1794)に建てられたもので、入母屋造り、銅板葺です。獅子鼻や象鼻、牡丹、若葉などの動植物彫刻が美しく、虹梁下端の錫杖彫り、2層の支輪の下にある波の彫刻は諏訪立川流の手によることを窺わせます。
穴切大神社随神門
 棟梁は下山流大工・竹下源蔵、彫刻は立川流・和四郎富棟(わしろうとみむね)です。江戸時代後期に建てられた楼門建築の秀作として評価が高く平成13年(2001)に甲府市の有形文化財に指定されています。
穴切大神社随神門



山梨県立美術館
やまなしけんりつびじゅつかん
山梨県甲府市貢川1−4−27
Tel 055-228-3322
 山梨県立美術館は、ロダン、へンリー・ムアやブールデル、ザッキン、マイヨールなどの彫刻が置かれた広大で緑豊かな「芸術の森公園」の中にある美術館で、昭和53年(1978)にオープンしました。
 「種まく人」、「落ち穂拾い、夏」をはじめとするミレーコレクションやバルビゾン派の画家の作品を収蔵し、「ミレーの美術館」として親しまれています。美術館は、置県100周年記念事業の一環として計画され、昭和52年(1977)に目玉となるミレーの「種をまく人」「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」などを購入しました。
 ほかにも、テオドール・ルソー、ドービニーなどのバルビゾン派、ターナー、コロー、クールベ、シャガール、藤田嗣治、梅原龍三郎、福澤一郎、池田龍雄、加倉井和夫など国内外の様々な優れた作品を展示しています。



山梨県立文学館
やまなしけんりつぶんがくかん
山梨県甲府市貢川1−5−35
Tel 055-235-8080
 山梨県立文学館は、山梨県立美術館とともに「芸術の森公園」の中にある文学館です。建物は地上2階地下1階で、県内出身の文学者やゆかりの文学者に関する資料の収集、保管、公開をしています。
 常設展示は芥川竜之介と飯田蛇笏の二大展示を中心に、「山梨ゆかりの作家と作品」では樋口一葉、深沢七郎、山本周五郎、木々高太郎、井伏鱒二、小尾十三、太宰治、田中冬二、山崎方代、三井甲之、伊藤左千夫、秋山秋紅蓼などの資料を幅広く展示しています。



昇仙峡
しょうせんきょう
山梨県甲府市猪狩町
Tel 055-287-2158 昇仙峡観光協会
 昇仙峡は、荒川が、約4kmにわたって作り出した渓谷です。秩父多摩甲斐国立公園に指定され、「御岳(みたけ)昇仙峡」として国指定特別名勝に格上げされています。また日本25勝、平成の名水百選等にも選定されています。
 昇仙峡は、渓流が花崗岩を削り取った奇岩、珍石、名石の美しい渓谷で、日本有数の景勝地です。入口に当たる天神森から上流の仙娥滝(せんがたき)までが最も美しく、紅葉の頃は大勢の人が訪れます。
 昇仙峡の象徴といわれる「覚円峰(かくえんぼう)」は、水面からほぼ垂直に屹立する高さ約180mの巨岩です。この巨岩は、裏側から見ると滝の水が流れ落ちるように、縦に1枚の岩が複数重なり合ってそびえたっています。
 この岩頭で、澤庵禅師の弟子覚円が座禅を組んで修行したそうです。そのため、覚円峰と呼ばれるようになりました。豪快で、神秘的でもあるこの容姿は、花崗岩が風化水食をうけた末に出来上がったものです。
 石門をくぐり、昇仙橋をわたると仙娥滝が現れます。高さ30mの壮麗な滝です。金峰山に源を発する荒川が一条の滝となり30mの高さから流れ落ちる様は壮麗そのものです。
 仙娥滝は日本の滝百選にも選ばれています。地殻の断層によってできた滝です。新緑から紅葉、雪景色と四季にその美しさを装います。
 花崗岩の天然アーチの石門や天狗岩、人面石、登竜岩、らくだ岩、猫石、らくだ石、トーフ岩や甌穴など奇岩怪石が数多く点在しています。
 昇仙峡の奥に位置する金峰山は古来から山岳信仰の対象となっていた山で、山頂には蔵王権現を祀る金桜神社の本宮が鎮座し、多くの修験者が修行に訪れました。天保14年(1843)甲府方面から昇仙峡、金峰山をつなぐ御岳新道が開きました。修験者や参拝者だけでなく一般の人も行くことのできる甲斐の名所となったのです。



登美の丘ワイナリー
とみのおかわいなりー
山梨県甲斐市大垈2786
Tel 0551-28-7311
 登美の丘ワイナリーは小高い丘の上にあります。一山がサントリーのワイン畑でした。「ワインガーデンエリア」では、自家ぶどう園でのぶどうづくりを見ることができるぶどう畑見学ツアーがあります。、
 ワイナリーの門を入ると雰囲気が一変し、外国の雰囲気です。ワインの作り方を教えてもらったり、無料試飲や有料テイスティングが楽しめます。大型バスでの入場、見学をしていないのも好感が持てます。
 テイスティングツアーに参加したり、丘の上のレストランで生の音楽を聴きながら食事ができました。ワインに合う食材にこだわった欧風レストランです。



慈雲寺
じうんじ
山梨県甲州市塩山中萩原352
Tel 0553-33-9039
 天龍山(てんりゅうざん)慈雲寺は臨済宗妙心寺派のお寺です。暦応年間(1338-1341)に夢窓国師によって開かれました。「天龍山慈雲寺のイトザクラ」と樋口一葉の文学碑で有名です。
 夢窓国師は後醍醐天皇や足利尊氏らの帰依をうけ、南北両朝の講和の斡旋に尽力しました。後醍醐天皇が崩ずると、追悼のため天龍寺を開山しました。恵林寺も創建、作庭しています。

 慈雲寺のしだれ桜は満開時に根本から上を見上げるとサクラの天蓋のように見えます。樹齢300年の名木で県の天然記念物に指定されています。
慈雲寺のイトザクラ
 しだれ桜は糸が垂れたように淡い紅色の花を咲かせることからイトザクラともいわれています。イトザクラの樹形の美しさは県内屈指とされ、県内外から多くの人々が訪れるようになりました。
慈雲寺のイトザクラ

 慈雲寺は樋口一葉ゆかりの寺として知られ、文学碑が境内に立っています。一葉の両親は、塩山の中萩原地区の出身でした。慈雲寺に開かれていた寺子屋で父親は勉強し、江戸に出て徳川幕府に仕え、明治になってからは東京府庁に勤めたそうです。
樋口一葉文学碑
 樋口一葉は明治の女流作家で「たけくらべ」や「にごりえ」などが有名です。短い24年の生涯の間、一葉は一度もこの寺を訪れたことがありませんでしたが、彼女の作品には、しばしば塩山の地名や風情が出てきています。
樋口一葉文学碑



旧高野家住宅(甘草屋敷)
きゅうたかのけじゅうたく(かんぞうやしき)
山梨県甲州市塩山上於曽1651
Tel 0553-33-5910
 旧高野家住宅は八代将軍吉宗の時代に薬用植物の甘草(かんぞう)を栽培して幕府に納めていたことから「甘草屋敷」と呼ばれています。甘草は甘味料や調味用として繁用される一方、薬用としても広く用いられ、重要な生薬でもありました。
 旧高野家住宅は江戸中期、享保年間に建てられています。甲州を代表する大型の切妻造民家の最も優れているものとして、昭和28年(1953)3月に国の重要文化財に指定されました。
 桁行13間半(24.8m)、梁間6間(10.9m)あり、屋根は大棟を東西に通した切妻造り、茅葺き型銅板葺きで、中央を2段に突き上げた屋根を設けた甲州民家独特の様式で造られています。
 屋根を支える柱は高く棟まで通る棟持柱で、これに梁を重ねて渡した間に見せ貫を通し漆喰塗とした妻璧の構造は、優れた美観を呈しています。昭和35年(1960)の修理で、保存のため茅葺から銅板葺に改められています。
 平成8年(1996)には、旧高野家住宅の附属屋5棟(巽蔵・馬屋・東門・文庫蔵・小屋)が、幕末から明治初頭にかけての屋敷構えを今日に伝えるものとして、附(つけたり)指定の3棟(地実棚・裏門・座敷門)および宅地(井戸・池・石橋・石垣を含む4832.07平方m)とともに、重要文化財の追加指定を受けています。



雲峰寺
うんぽうじ
山梨県甲州市塩山上萩原2678
Tel 0553-33-3172
 裂石山(さけいしざん)雲峰寺は天平17年(745)行基が開いたとされています。行基が修行中に落雷があり、石が裂けた後に十一面観音が出現したことから、その像を萩の木に刻んで開山したという言い伝えがあります。
 この寺は甲斐国の鬼門に位置するため代々国主の祈願所だったといわれます。永禄年間に火災のため荒廃しましたが、武田信虎によって再建されました。
 もともと天台宗のお寺だったのが戦国時代に臨済宗妙心寺派に変わったそうです。天台宗は護摩を焚くので本堂には護摩を焚いていた跡が残っています。この寺の庫裏は文化庁発行の文化財の本の表紙にもなっているということです。
 武田勝頼が天目山で自害した後、家臣に託した武田家の重宝「日の丸の御旗」(家督相続の証である日本最古の日の丸)や「孫子の旗」、「諏訪神号旗」、「馬標旗」などが、ここに納められています。それらの寺宝の一部が新しくできた宝物殿で公開されています。
 雲峰寺は映画「影武者」の撮影が行われたことでも有名です。また、中里介山がこの寺に滞在して名作「大菩薩峠」を執筆したことでも知られています。

 本堂前のエドヒガン桜は樹齢400年で昭和34年(1959)に山梨県の天然記念物に指定されています。根廻り5.3m、目通り幹廻り5m、樹高21.5mで「峰のサクラ」といわれて有名なものです。毎年4月20日前後に満開になるようです。
雲峰寺のエドヒガン桜



景徳院
けいとくいん
山梨県甲州市大和町田野389
Tel 0553-48-2225
 天童山景徳院は、武田勝頼の冥福を祈るため、徳川家康の命により建立された曹洞宗のお寺です。天正16年(1588)、家康は小幡勧兵衛景憲に命じ、僧拈橋を開山として創建させました。甲斐国における領民懐柔政策でもありました。
 武田勝頼は天正10年(1582)3月、織田信長の甲斐侵攻により新府城から天目山を目指しましたが小山田信茂の謀反により田野で自害しました。これにより新羅三郎義光以来28代495年の武田家の歴史は終わりを告げました。
 景徳院は、当初は田野寺と呼ばれました。その後、一時衰退しましたが、寛永年間(1624-1644)に再興され、安永4年(1775)には勝頼の墓である宝篋印塔が建立されています。7堂伽藍の立派な寺でしたが二度の大火で大部分は燃失し、当時の建物は山門だけとなっています。
 山門近くに自刃した三箇の生涯石があり、勝頼(37歳)夫人(19歳)信勝(16歳)の墓が並び、将兵や侍女合わせて50名の墓があります。勝頼が信勝の為に最後に御旗を掲げた旗竪の松などもあり、武田氏最後の地として県の史跡に指定されています。



日川渓谷・竜門峡
ひかわ(につかわ)けいこく・りゅうもんきょう
山梨県甲州市大和町田野
Tel 0553-48-2111
 日川渓谷はナラやモミジなど紅葉の美しさで知られる渓谷です。日川は武田勝頼が上流の天目山で敗れた時、三日の間、血が流れ続けたといわれています。三日血川がなまって日川(につかわ)となったそうです。
 日川の大和町田野地区から天目地区にかけてを竜門峡と呼んでいます。竜門峡は、南大菩薩連嶺に抱かれた日川渓谷の中でもひときわ紅葉の美しいところです。
 渓谷入口から遊歩道が整備されており、栖雲寺までは約1時間です。涼やかな滝と緑気軽な渓谷散策を楽しめます。谷に架かるスリリングな丸太橋、落合三つの滝、平戸の石門、木賊の石割ケヤキなどがあります。



栖雲寺
さいうんじ
山梨県甲州市大和町木賊122
Tel 0553-48-2797
 天目山栖雲寺は臨済宗のお寺で、木賊の集落を見おろすようにたたずんでいます。業海本浄が貞和4年(1348)に開山した寺で、鎌倉の建長寺の末寺の4大寺院の一つだそうです。業海は文保2年(1318)、中国に渡り、天目山の普応国師に学びました。帰国後、この地が中国の天目山に似ていたことから栖雲寺を開いたといわれています。
 栖雲寺は、武田家の菩提寺として繁栄し、境内には武田家10代目になる信満の墓もあります。寺には重要文化財の普応国師座像、県指定文化財の業海和尚座像、釈迦如来像、甲斐の五鐘の一つである梵鐘、業海和尚の宝篋印塔などが残されています。
 庫裏の奥には石庭があります。業海和尚が水によって土砂を洗い流して築造したという巨大な岩がたくさんある庭です。地蔵や文殊菩薩などの磨崖仏もあり県指定の名勝にもなっています。またそば切り発祥の地を記念して、碑も立てられています。



大善寺
だいぜんじ
山梨県甲州市勝沼町勝沼3559
Tel 0553-44-0027
 柏尾山大善寺は、真言宗智山派のお寺で本尊は薬師如来です。養老2年(718)、僧行基が甲斐の国を訪れたとき、勝沼の柏尾にさしかかり、日川の渓谷の大石の上で修行していました。
 満願の日、夢の中に、右手に葡萄を持った薬師如来が現れたそうです。行基はその夢を喜び、早速夢の中に現れたお姿と同じ薬師如来像を刻んで安置して、このお寺を創建したということです。
 以来、行基は薬園をつくって民衆を救い、法薬の葡萄の作り方を村人に教えたので、この地に葡萄が 栽培されるようになり、これが甲州葡萄の始まりだと 伝えられています。本尊の薬師如来像の持物は失われていますが、元は右手に葡萄を持っていたといわれています。
 その後、聖武天皇から歴代朝廷の祈願所と定められ寺号を大善寺に改称し、寺運は隆盛しました。その後一時衰退しますが安元2年(1176)、高倉天皇の勅命により平清盛が再興しています。
 鎌倉時代に入ると幕府の保護を受けるようになり、13世紀前半には幕府の支援のもとでの勧進活動によって堂塔の修復や仏像の造立が行われ、寺運は隆盛でした。本堂の十二神将像(国指定重要文化財)はこの時に造られたものです。
 文永7年(1270)の火災で本堂は焼失し、その後正応4年(1291)に再建されたものが現在の国宝の本堂(薬師堂)です。文永。弘安の役で大勝した執権北条貞時が建立しました。脇侍は焼け残ったらしく、それが本堂に安置されている日光、月光菩薩像(共に国指定重要文化財)であると考えられています。

 甲斐領主の武田家からも庇護され、天文9年(1540)に本堂が暴風雨で倒壊すると、武田信玄が天文19年(1550)に修築しています。跡を継いだ武田勝頼は天正10年(1582)、織田信長の甲斐侵攻に際し、ここで戦勝祈願を行っています。
 勝頼の夫人は「西を出て東へ行きてのちの世の宿かしわをと頼る御仏」と、あらためての加護を念じました。しかし勝頼は岩殿城主小山田信茂の裏切りにより自決しました。一連の出来事はこの寺に庵を結んでいた信玄の叔父の勝沼氏の娘である理慶尼の記録に伝えられています。

 大善寺の本堂(薬師堂)は正応4年(1291)に建てられたもので、山梨県内最古の寺院建築として国宝に指定されています。桁行5間、梁間5間、単層寄棟造り、檜皮葺きです。屋根と軒を支える太い丸柱や、長押(なげし)、檜皮葺きの大屋根など鎌倉時代に建てられた典型的な和様建築です。
大善寺本堂(薬師堂)



熊野神社
くまのじんじゃ
山梨県甲州市塩山熊野174
Tel 0553-32-2111
 熊野神社の創建は大同2年(807)に紀州の熊野本社の分霊を勧請されたのが始まりと伝えられています。その後、後白河法皇の勅願により、熊野本社(和歌山県)の建築形式に則り、6神6社の社殿を建立したと伝えられています。
 甲州の4大熊野の一つと呼ばれています。伊弉再尊(いさなぎのみこと)、早玉男命(はやたまのおのみこと)、事解男命(ことさかのおのみこと)、忍穂耳尊(おしほじのみこと)瓊々杵尊(にぎにぎのみこと)、彦火々出見尊(ひこほほひでのみこと)を祀っています。
 熊野神社には、武田信玄が奉納したという紙本著色刀八毘沙門天像図、紙本著色飯綱権現像図、社宝として武田勝頼が奉納したという紙本著色欹器ノ図と紙本著色渡唐天神像図(いずれも県文化財)が保管されています。

 熊野神社の拝殿は国重要文化財に指定されています。室町時代後期のものといわれ、武田信玄が再建に関わったといわれています。東西に石垣で3区画された社域の中間部に位置しています。桁行5間、梁間3間、一重入母屋造り、茅葺きの小規模な建物です。
熊野神社拝殿
 拝殿は天文18年(1549)に建てられています。壁は吹き放しで柱は面取角柱、工法や技法は室町時代後期の様式です。
熊野神社拝殿

 熊野神社の本殿は境内を高低3段に区画された奥の高所に南面し6棟が東西に並んでいます。西3棟は江戸時代の再建で旧観を失い、1棟は再建できずに小祠となり、東側の2棟が文保2年(1318)に再建された鎌倉時代の建造物とみられています。昭和27年(1952)に解体修理されています。
熊野神社本殿
 他の社殿とは正面を嵌板壁とし、その外面に格子組を当て、出入口が左側面にあります。 一間社、切妻、妻入、向拝付の春日造りで、茅葺きです。工法や技法は鎌倉時代を踏襲し紀州熊野神社の古制を残す貴重なものとして国指定重要文化財に指定されています。
熊野神社本殿



向嶽寺
こうがくじ
山梨県甲州市塩山上於曽2026
Tel 0553-33-2090
 塩山向嶽寺は、臨済宗向嶽寺派の大本山で、釈迦如来が本尊です。向嶽寺の創建は永和4年(1378)、武蔵横山から入国した抜隊得勝(ばっすいとくしょう)が塩山高森に草庵を結んだことが始まりと伝えられています。
 康暦2年(1380)、甲斐国守護職の武田信成が深く帰依し現在地に寺領を寄進し向嶽庵を建立しました。その後、元中元年(1384)、後醍醐天皇の第6皇子である無文元選(むもんげんせん)が開創した元中寺と合わさり、向嶽元中禅寺となりました。
 翌年の元中2年(1385)、後亀山天皇の勅願寺となり、関東における南朝唯一の勅願所となりました。武田氏から庇護され寺運が隆盛し多くの塔頭・末寺を有する大寺となりました。
 天文16年(1547)には武田信玄の上請により開山した抜隊得勝が慧光大円禅師の号を賜わり、現在の寺号である向嶽寺と改めました。
 武田家が滅ぶと次第に衰退しました。天明6年(1786)と大正15年(1926)の大火により多くの堂宇が焼失しました。境内には国指定重要文化財の中門の他、法華堂、大庫裏、大悲閣、勅使門などがあります。明治41年(1908)に南禅寺から独立し臨済宗向嶽寺派の大本山となっています。
 日本最古級の達磨像である国宝の絹本著色達磨図をはじめ、絹本著色三光国師像(重要文化財)、絹本著色大円禅師像(重要文化財)など多くの仏像、絵画、古文書、記録などが残されています。

 向嶽寺中門は室町中期の建立で、切妻造り、茅葺きの四脚門です。外門後方に位置し、左右には土塀(県指定文化財)を延ばしています。禅宗様の建築で、特に親柱と副柱の上部を結ぶ梁に鎌倉に類例の多い湾曲した海老虹梁を用いています。 中門は国の重要文化財に指定されています。
向嶽寺中門



山梨岡神社
やまなしおかじんじゃ
山梨県笛吹市春日居町鎮目1696
Tel 0553-26-3111
 山梨岡神社は大蔵経寺山の南麓、平等川沿いにあります。神楽殿、拝殿、本殿、社務所が建ち並んでいます。第10代崇神天皇の時、国内に疫病が流行し、厄払いのため、勅命をもって大蔵経寺山に勧請されたのが始まりと伝えられています。
 その後、成務天皇の時代に、麓の梨林を切り開き遷座し社号を山梨岡神社に改称しました。祭神は、大山祇神(おおやまつみのかみ)、高おかみの神、別雷神(わけいかずちのかみ)の3柱です。
 延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載されている甲斐国の官社20社の1つになっており当時から広く信仰されていたと思われます。現在の県名の発祥の神社でもあります。
 中世に入ると甲斐守護職である武田家から崇敬され、信玄が出陣する際は太々神楽が奉納されたそうです。太々神楽は宮中で行われる舞楽に似た神楽で山梨県の無形民俗文化財に指定されています。社宝には信玄からの社参状、禁制などが残されています。
 江戸時代に入ると、慶安元年(1648)、8石余りが朱印地として安堵されています。能因法師が「甲斐が嶺(ね)に咲きにけらしな足引きのやまなしの岡の山奈しの花」(夫木集)と詠んだ歌は、このあたり一帯の景色といわれています。

 山梨岡神社の本殿は室町時代末期に建立されています。桁行2間、梁間1間、一間社隅木入春日造り、柿葺きの建物です。神明造りの妻に向拝の軒が連絡した形の素木造りです。蟇股の彫刻や擬宝珠などは当時の技法、工法、意匠を伝えています。国の重要文化財に指定されています。
山梨岡神社本殿

 山梨岡神社の境内に市の天然記念物に指定されているフジの木があります。根回り1.55mの古木で、根本から3本、6本、5本と分かれています。樹勢はきわめて旺盛で、長さ60cm内外の美しい紫色の花を咲かせます。
山梨岡神社のフジ

 山梨岡神社の境内には郡境の標示石であったと伝える「郡石(こおりいし)」があります。山梨郡と八代郡の境界石だといわれています。
山梨岡神社の郡石



甲斐国一宮浅間神社
かいのくにいちのみやあさまじんじゃ
山梨県笛吹市一宮町一ノ宮1684
Tel 0553-47-0900
 甲斐国一宮浅間神社は甲斐国の一ノ宮で、明治4年には国幣中社になっています。第11代垂仁天皇8年(bc90)の時に神山の麓、現在の浅間神社の摂社の山宮神社(国指定重要文化財)付近に鎮座したのが始まりとされています。
 貞観7年(865)に現在地に移されと伝えられ、のちに甲斐国の一ノ宮となりました。延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳で名神大社とされています。
 鎌倉時代以降武将の崇敬を受け、建久5年(1194)源頼朝が社殿を造営したことが「吾妻鏡」に記されています。戦国時代には武田氏の崇敬が厚く、信玄は天文19年(1550)後奈良天皇の宸筆「紺紙金泥般若心経」(国指定重要文化財)を奉納しています。
 信玄は永禄元年(1558)摂社で国の重要文化財に指定されている山宮神社(飛び地)の社殿を造営しています。信玄は社前で、「うつし植うる初瀬の花のしらゆふを、かけてそ祈る神のまにまに」と詠じ、太刀、社領を寄進したそうです。
 天正年間(1573-1592)には徳川家康が社領200貫文を寄進し、3代将軍徳川家光は朱印状234石を寄進しています。以後、歴代将軍はそれに習い社領を安堵しました。
 現在の社殿は江戸時代の。寛文から宝暦年間に造営されたもので、神門、神楽殿、神饌(しんせん)殿、拝殿、本殿、社務所などが並んでいます。

 浅間神社拝殿は東向きに建てられていて、桁行7間、梁間3間の一重入母屋造りで、正面中央1間に唐破風造の向拝が付き、屋根は檜皮葺の上に銅版をかぶせています。寛文12年(1672)に建てられたとみられています。江戸時代初期の貴重な建築として市の有形文化財に指定されています。
浅間神社拝殿

 浅間神社には県の天然記念物に指定されている夫婦梅があります。根周りが1m、地上80cmのところで4本の枝に分かれ、高さは7mほどです。古来祭神(木花開耶姫命)のご神徳による子授けの霊能ありと信じられ、大勢の人が参拝祈願しています。
浅間神社の夫婦梅



慈眼寺
じげんじ
山梨県笛吹市一宮町末木336
Tel 0553-47-0915
 金剛山慈眼寺は真言宗智山派のお寺です。室町時代の文明年間(1469-1487)、宥日(ゆうにち)が中興したといわれています。戦国時代は武田家の祈願所として寺運が隆盛しました。
 特に武田信玄の崇敬が篤く、500貫文の寺領寄進や薬師堂の建立などがなされたようです。境内には七堂伽藍が建ち並び、甲州国檀林七ヶ寺の筆頭となりました。多くの名僧を生み、宥真(ゆうしん)は宮中の帰依僧、宥空(ゆうくう)は信玄の侍僧でした。
 天正10年(1582)の織田信長の甲斐侵攻により武田家が滅び、兵火により堂宇、寺宝が焼失しました。天正11年(1583)、徳川家康より10貫700文の朱印地を寄進され、徳川家の祈願所になり再建されました。寛永19年(1642)、徳川家光から改めて15石4斗の朱印地を寄進されています。
 慈眼寺の鐘楼門は、慶安3年(1650)に建立されたものです。一間一戸の楼門で、屋根は入母屋造りで、当初茅葺きでしたが後に鉄板に葺きかえられました。主柱の内側には板扉を藁座でつりこみ、その上に牡丹・琵琶、菊・蓮の彫刻の施されたかえる股を中備えとして置いています。
慈眼寺鐘楼門
 小規模で簡素な門ですが全体の比例は良く、頭貫木鼻の繰形など細部に優れている建物です。江戸時代初期の鐘楼門として貴重で、国の重要文化財に指定されています。
慈眼寺鐘楼門

 本堂は東面する方丈型本堂で前後各3室の6室で構成されています。桁行、梁間11.9mで正面と北側面に1間幅の広縁をまわし、全面に落縁を設けています。屋根は入母屋造りで茅葺きであったものを金属板葺きに変えてあります。国の重要文化財に指定されています。
慈眼寺本堂

 庫裏は桁行14.6m、梁間11.0m、東向きで正面入母屋造り、背面切妻、茅葺き(背面庇は檜皮葺き)です。妻飾りは虹梁中央に大瓶束(おおへいつか)を立て、虹梁の組物と大瓶束上の組物を海虹梁でつなぎ、かぶら懸魚をつけています。国の重要文化財に指定されています。
慈眼寺庫裏



甲斐の猿橋
かいのさるはし
山梨県大月市猿橋町猿橋55−7
Tel 0554-22-2942 大月市観光協会
 桂川にかかる猿橋は「岩国の錦帯橋」「木曽の棧(かけはし)」と並ぶ日本三奇橋の1つです。広重の「甲陽猿橋之図」や十返舎一九の「諸国道中金之草鞋」などにその珍しい構造が描かれています。
 橋の長さは30.9m、幅3.3m、水面からの高さは30mとなってます。それほど大きくない木橋ですが、谷が深く、当時の技術では橋脚を建てることが困難であったため、両岸から張り出した四層のはね木によって橋を支えています。
 猿橋とは、昔、谷底深く、橋を掛けるのが不可能と思われたところを、猿の群れが1匹ずつ連なって、互いの体をつなぎ、猿の掛け橋を作って谷を渡るところに遭遇し、これを真似て作った橋なのだそうです。



清里高原
きよさとこうげん
山梨県北杜市高根町清里
Tel 0551-48-2179 清里駅前観光総合案内所
 清里高原は本州の真ん中近くの、山梨県北杜市(ほくとし)にあります。北には八ヶ岳、南西には南アルプス、東には茅ヶ岳、北東には瑞牆山と山々に囲まれた自然豊かな高原です。
 豊かな水資源、爽やかな気候、日本一長い日照時間、豊かな自然環境、のんびりとした牧草地が広がる清里です。
 四季折々に変化する自然やのどかな牧場、森の美術館や各種スポーツ・登山・トレッキングなど、観光だけでなく、アウトドアフィールドとしても魅力があります。

 清里駅の標高は1274mです。JRグループの駅の中で野辺山駅に次いで2番目に高く、また、山梨県では一番高い駅です。夏は大勢の人で賑わいます。
清里駅

 駅前には若い人に人気のあるお店が軒を連ねています。ペットを預かってくれるところもあり便利です。ゴールデンウィークから11月までは「清里ピクニックバス」が走っています。観光スポットを中心に北と南のルートで周遊しています。
清里駅前

 「清里の森」にはカラマツ材とワイヤーで造形されたシンボルゲートがあります。長期滞在型の自然を活かした野趣豊かな別荘地区と知的・文化的レクリエーション空間があります。
清里の森



清里北澤美術館
きよさときたざわびじゅつかん
山梨県北杜市高根町清里3545
Tel 0551-48-5000
 清里北澤美術館は豊かな自然の中の落葉松の森の中に建てられています。バルブの大手メーカーの株式会社キッツの前会長であった、故・北澤利男氏が収集したガラス美術品、約200点を展示する美術館です。
 ここには19世紀の終わりごろにフランスで主流であったアール・ヌーヴォー様式のガラス工芸品が中心に展示されています。展示室は3つに分けられています。ドーム兄弟の作品とパート・ド・ヴェール技法によるガラス工芸品を常設展示しています。
 ステンドグラスも素晴らしく、天上にはエミール・ガレのシャンデリアが飾られています。北澤美術館は2館あり、諏訪北澤美術館にはアール・ヌーヴォー期の代表的ガラス工芸作家のエミール・ガレの作品が中心に展示されています。



清泉寮
せいせんりょう
山梨県北杜市高根町清里3545
Tel 0551-48-2111
 標高1400mの八ヶ岳の麓に清泉寮があります。昭和13年(1938)、米国人宣教師ポール・ラッシュ博士により、日本聖徒アンデレ同胞会の訓練施設として建てられました。清里のシンボル的な建物です。
 広大な敷地に宿泊施設や農場、レストランやショップ、ヤマネをテーマにした博物館「やまねミュージアム」、教会などが点在しています。清里を開拓した博士の業績を紹介するポール・ラッシュ記念センター、隣接して八ケ岳の自然情報や動植物を展示する山梨県立八ケ岳自然ふれあいセンターなどもあります。
 周辺は南アルプスから富士山まで展望できる牧草地で、牛が草を食むのどかな場所です。宿泊施設やレストラン、ソフトクリームやジャージー牛乳の乳製品を販売する売店があります。



身延山久遠寺
みのぶさんくおんじ
山梨県南巨摩郡身延町身延3567
Tel 0556-62-1011
 身延山久遠寺は日蓮宗の総本山です。日蓮聖人が身延山の西谷に草庵を結んだのが始まりと伝えられています。「法華経」をもってすべての人々を救おうとした日蓮は、三度にわたり鎌倉幕府に諫言しましたが、いずれも受け入れられませんでした。
 日蓮は信者であった地頭の南部実長の招きにより、文永11年(1274)5月、身延山に入山し、西谷の草庵にて法華経の教えを広めました。弘安4年(1281)、庵を出て本格的な境内を整備します。その際南部氏が10間四方の大堂を寄進、日蓮自ら身延山久遠寺と命名したと伝えられています。
 弘安5年(1282)9月、日蓮は病いと、両親の墓参のためにひとまず山を下り、常陸の国(現在の茨城県)に向かいました。その途上の武蔵の国池上(現在の東京都大田区)で61年の生涯を閉じました。
 文明6年(1474)に日朝上人が大伽藍を建立し、久遠寺の基礎が固められました。そして甲斐守護職の武田家や河内領主の穴山氏などから庇護を受け寺運が隆盛します。
 江戸時代には家康の側室で徳川頼宣(紀州藩主)・徳川頼房(水戸藩主)の生母であるお万の方(養珠院)が日蓮宗に深く帰依し、家康から疎まれた日遠を身を呈して守りました。宝永3年(1706)には、皇室勅願所ともなりました。
 総門をくぐり約1km登ると巨大な三門があります。三門を抜けて境内に入り、287段の石段・菩提梯を上りつめた山の中腹に本堂など中核をなす木造建築が現れます。ほとんどが明治の大火後に再建されたものですが、格式を感じさせる立派な建物です。
 身延山山頂近くには奥の院もあります。周辺に30あまりの坊があり、標高1154mの山全体が霊山になっています。身延山久遠寺は巨大な杉の巨木と、しだれ桜の名所としても知られています。桜の花が地面に垂れ下がる様子は大変見応えがあります。



UKAI河口湖オルゴールの森
うかいかわぐちこ おるごーるのもり
山梨県南都留郡富士河口湖町河口3077ー20
Tel 0555-20-4111
 UKAI河口湖オルゴールの森は2万5千平方mの敷地の緑深い湖畔に佇む中世の貴族の館の中にあります。2つの美術館を中心に、レストラン、ミュージアムショップが点在しています。
 美術館棟には高級オルゴールや自動演奏楽器のコレクションが並んでいます。豪華客船タイタニック号のサロンに置かれる予定だったオーケストリオン、世界最大規模の自動ダンスオルガンなど貴重なものが目を引きます。自動人形43体が楽器を演奏する様子も圧巻です。
 チェコの交響楽団による生の四重演奏の素晴らしい調べは、心ゆくまでゆったりと音楽の世界へと陶酔させてくれました。



河口湖 宝石の森
かわぐちこ ほうせきのもり
山梨県南都留郡富士河口湖町船津1996
Tel 0555-72-4444
 河口湖 宝石の森は山梨県下最大の宝石専門店で、英雅堂グループ河口湖店になっています。宝石庭園にはたくさんの宝石が使われています。店内には、パワーストーンや宝石が展示、販売されています。
 噴水の脇を通りすぎ、宝石庭園内を抜けてジュエリーミュージアムへ続く石廊の頂上には大きな白水晶のモニュメントがあります。この水晶の下をくぐると水晶パワーを感じられ、願い事がかなうといわれています。
 ジュエリーミュージアムの入口には紫水晶(アメジスト)の原石が置かれています。美しさと大きさに圧倒されます。ミュージアムには世界10大宝石や誕生石、水晶工芸品が所狭しと展示してあります。


トップ アイコン旅と歴史のホームページへもどる トップ アイコン  日本のページへもどる    


直線上に配置