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禄剛崎
ろっこうさき
石川県珠洲市狼煙町
0768-82-7776 珠洲市観光交流課
 禄剛崎は能登半島の最先端で、ちょうど外浦と内浦との接点にあたるところにあり、能登半島国定公園の代表的な景勝地の一つです。この場所は「海から昇る朝日」と「海に沈む夕日」を同じ場所から眺められることで有名です。
 狼煙町という地名からもここで狼煙(のろし)が上げられていました。航路を照らしたり、一大事を知らせたり、日本海航路の目印や軍事的な要所とされ、大化の改新の頃にはずでに烽火台が設置されていたといわれています。

 海原にせり出した断崖には、白亜の禄剛崎灯台が建てられています。日本の灯台50選に選ばれている灯台で、明治16年(1883)にイギリス人の設計で造られました。海面から48mの高さから発する光は35km先まで届くそうです。
禄剛崎灯台
 禄剛崎灯台は下層部が半円形の石造で上層は円形で上部がドーム状になっています。灯塔入り口上部には全国の灯台で唯一菊の御紋章が掲げられています。昭和38年(1963)から無人の灯台となっています。
禄剛崎灯台



見附島
みつけじま
石川県珠洲市宝立町鵜飼
Tel 0768-82-7776 珠洲市観光交流課
 見附島は内浦を代表する観光地で、周囲約450m、高さ約30m、幅約50m、先端部分が突き出たその姿から軍艦島とも呼ばれています。見附島は砂浜と磯の両方を楽しめる海水浴場で、岩をつたって行くことができます。
 弘法大師が布教のために、佐渡島からやってきて最初に見つけたことから「見附島」と名付けられたといわれています。 平成3年(1991)の台風第19号、平成5年(1993)の能登沖地震、平成19年(2007)の能登半島地震、新潟県中越沖地震などで少しずつ形が変わっているそうです。



恋路海岸
こいじかいがん
石川県鳳珠郡能登町恋路
Tel 0768-62-8532 ふるさと振興課
 恋路海岸は波が穏やかな海岸で、一つの悲しい悲恋の伝説が伝えられるところです。伝説に登場する、助三郎と鍋乃をしのぶモニュメントや鐘や恋路物語銅像などが設置されています。
 その昔、鍋乃と呼ばれる美しい娘と助三郎という若者が住んでいました。二人は恋仲となり人目のないこの海岸で夜、逢瀬を重ねていました。助三郎は、鍋乃が焚く火を目印に、いつも浜辺の浅瀬を歩いてきました。
 鍋乃に思いを寄せる男が、嫉妬に駆られ深瀬のあるところに焚く火をたき助三郎を誘き出しました。助三郎は、深みにはまって命を落としてしまいました。鍋乃も助三郎の後を追って海に身を投げました。悲しい恋の伝説が、いつしかここを「恋路」と呼ぶようになったそうです。



九十九湾
つくもわん
石川県鳳珠郡能登町小木
Tel 0768-62-8532 ふるさと振興課
 九十九湾は能登半島の内浦に位置し、叙情的な海岸美で知られています。日和山から城ケ崎まで東西1キロ、南北1.5キロのリアス式海岸で100近い入江で構成されています。中央付近にある蓬莱島は弁財天が鎮座し信仰の対象になっています。
 九十九湾は日本百景にも選ばれている景勝地です。市之瀬からは九十九湾をぐるっと周遊する「能登九十九湾遊覧船」が出ています。船上からの景色だけでなく、海の中の様子も楽しめます。



曽々木海岸
そそぎかいがん
石川県輪島市町野町曽々木
Tel 0768-32-0408 曽々木観光案内センター
 曽々木海岸は、冬の厳しい日本海の荒波をまともに受ける男性的な荒々しい海岸です。能登半島有数の景勝地で、国の名勝および天然記念物に指定されています。権現岩、窓岩、水門岩などの奇岩、また行者穴と呼ばれる洞門などがあります。
 曽々木海岸のシンボル・窓岩は海に突き出た巨大な板岩で、岩の中央には窓のような直径2mほどの穴があき、そこから青空がのぞいています。流紋岩からなる岩盤が日本海の荒波によって浸食されたものです。
窓岩



本家上時国家
ほんけかみときくにけ
石川県輪島市町野町南時国13−4
Tel 0768-32-0171
 時国家は、平安時代に隆盛を極めた平氏一門の「平氏に非(あら)ずんば人に非ず」と言い放ったと「平家物語」に伝えられる左大臣平時信の長男、大納言平時忠の末裔にあたる家柄です。
 文治元年(1185)、壇の浦の戦で平家が滅亡し、時忠は義経に囚われの身となりました。三種の神器の帰座という任務を全うしたことにより許され珠洲の浦に落ち延びました。5男の時国は平家であることを捨て、時国を姓として時国家を興し、現在の輪島に移りました。
 時国家は江戸時代には、奥能登で大規模な水田経営や海運業を営む豪農として栄えたそうです。15代長左衛門時秀は十村役を勤め、後に持領が江戸幕府の天領であったところから、大庄屋として苗字帯刀も許され格式を保ってきたそうです。
 母屋は回縁を除いて、間口21.6m(12間半)、奥行き13.5m(7間半)、棟の高さ17.1m(9間半)の茅葺きの入母屋の平屋建です。東本願寺を建てた安幸という大工が天保2年(1831)に28年間を経て完成したもので、国の重要文化財に指定されています。



下時国家
しもときくにけ
石川県輪島市町野町西時国2−1
Tel 0768-32-0075
 時国家は、左大臣平時信の長男、大納言平時忠の末裔にあたる家柄です。 文治元年(1185)、壇の浦の戦で平家が滅亡し、時忠は珠洲の浦に落ち延びました。5男の時国は平家であることを捨て、時国を姓として時国家を興し、現在の輪島に移りました。
 下時国家は寛文10年(1670)、時国家12代藤佐衛門時保の次男千松が分家し、能登安徳天皇合祀時国家と呼ぶようになったことから始まりました。
 本家の上時国家は天領に属していましたが、下時国家は加賀藩領に属し、十村役や肝煎、山回役、能登外浦一円の塩吟味役などを勤めていました。
 本造平屋建で、母屋は前後土手の縁側を除いて、間口23.4m(13間)、奥行き14.4m(8間)で、南向きに建ち、入母屋造り、平入りです。大きな茅葺き屋根で、句配は緩やかで、4方に茅葺の庇を巡らしています。能登最古の民家で国の重要文化財に指定されています。



真浦海岸
まうらかいがん
石川県珠洲市(すずし)真浦町
Tel 0768-82-7776
 真浦海岸は珠洲市と輪島市の境界付近にあります。流紋岩や角礫岩などで構成された岩壁が荒波や海風によって浸食され独特の景観を作り出しています。真浦海岸付近には垂水の滝、千畳敷、鯖尾岩、帆立岩などがあります。また冬には、海岸一帯で「波の花」の発生が見られます。
 真浦海岸の帆立岩ロードパークには帆立岩が置かれています。2000万年前に海底噴火でできた凝灰岩が引き波によって陸地側が侵食された岩です。舟が帆を立てた姿に似ていることから帆立岩と呼ばれています。元々は海岸にあったものを形状保存のため陸地に移されました。
帆立岩



揚浜塩田
あげはまえんでん
石川県珠洲市清水町
Tel 0768-87-2040
 能登の揚浜塩田は珠洲市の仁江海岸で日本で唯一受け継がれてきた「揚げ浜式」と呼ばれる製塩法で使用される塩田です。製塩業は歴史も古く、藩政時代に加賀藩の有力財源としてこれを奨励し盛んにしました。揚浜式塩田で、海水をくみあげ散布する方法をとっています。
 約500年前とほとんど同じ方法で、ミネラル豊富な天然塩が作られます。塩田とは、塩を作るための土地で、岩盤の上に粘土を敷き固め、その上に砂をかぶせてあります。



千体地蔵
せんたいじぞう
石川県輪島市町野町曽々木
Tel 0768-32-0408
 千体地蔵は岩倉山自然遊歩道の途中にある名所です。曽々木の町の裏手にそびえる岩倉山は、標高358mです。その昔、沖を行く舟の目印となった霊山で、能登最大の河川として知られる町野川河口の右岸に位置しています。険阻な岩山が曽々木海岸に覆い被さるようにそそり立っています。
 岩倉山中腹にある1枚巨岩が、海からの風や雨に風化と侵食が繰り返され、いつしか無数のお地蔵様が彫刻された岩のようになりました。自然の力を感じる見事な造形美です。お地蔵様がずらりと並んだように見えることから千体地蔵と呼ばれています。
 流紋岩が冷却されるときに収縮してできた節理が、さらに風化を受けて、丸みをおびて生まれた造形です。平成19年(2007)3月25日に発生した能登半島地震で被害を受けましたが現在は復旧しています。


岩倉山と千手観音
 日本海の沖を漕ぎゆく船人や漁師の多くが日頃から信仰を寄せていた奥能登の霊場に、岩倉山がありました。この霊山は、能登最大の河川として知られる町野川河口の右岸に位置し、標高は375m、険阻な岩山が曽々木海岸に覆い被さるようにそそり立っています。急な坂道を登った山の中腹には、真言宗の古刹である白雉山岩倉寺(はくちざんいわくらじ)があり、そのそばに岩倉比古神社(いわくらひこじんじゃ)が鎮座しています。岩倉寺はその別当寺で、千手観音を本尊とし、古来より奥能登の人々から「岩倉観音」と呼ばれ、幅広い崇敬を集めてきました。



白米千枚田
しらよねせんまいだ
石川県輪島市白米町
Tel 0768-23-1146 輪島市観光課
 奥能登の最高峰・高洲山(567m)の裾野の1.2haにわたる急斜面に、幾重にも段になった小さな田んぼが1000以上海に向かって広がっています。1枚の田の平均面積はわずか3畳です。耕耘機も入らない狭さのため、昔ながらの人の手で耕されています。
 キラキラ輝く美しい造形と磯の波が洗う景観は感動を与えます。中秋の名月ともなれば田毎ごとに月を宿す名勝地となり、昭和31年(1956)には輪島市の文化財に指定され、 平成13年(2001)には国の名勝に指定されました。



輪島
わじま
石川県輪島市
 「輪島」という文字が歴史に登場するのは、室町時代(1393-1572)の中頃のことです。
それ以前の古墳時代に、大陸の人々が能登を「倭島(わのしま)」と呼んだ言葉がその語源といわれています。輪島塗と輪島朝市が有名です。

 「輪島塗」は高級塗物として有名です。「輪島地の粉」(わじまじのこ)は、寛文年間(1661-1673)に発見されたと伝えられています。天正年間に、前田利家が能登巡行の際に「地の粉」を作っているところに立ち寄っている史実なども残っています。
輪島塗
 「地の粉」はそれ以前から輪島塗に使われていました。この「地の粉」が使われるようになって、輪島塗の最大の特長である丈夫ではげにくい漆器が出来上がっていったのでした。
輪島の夕焼け

 輪島の朝市は、岐阜県の高山市、千葉県の勝浦とともに日本3大朝市の一つとして有名です。輪島朝市は通称「朝市通り」と呼ばれている約360mの商店街で毎朝行われていて、今では200以上の露店が立ち並び、たくさんのお客さんが訪れています。
輪島朝市
 輪島の朝市の歴史は古く、平安時代から行われていたという文献があり、千年以上の歴史がある市です。神社の祭礼日などに生産物を持ち寄って、物々交換しあっていたのが市の始まりだといわれています。それが、室町時代には毎月4と9の付く日に市が開催されるようになり、明治時代には毎日、市が立つようになりました。
輪島朝市



總持寺祖院
そうじじそいん
石川県輪島市門前町門前1ー18ー1
Tel 0768-42-0005
 諸嶽山總持寺祖院は曹洞宗のかつての本山です。今から約7百年前の元亨元年(1321) 瑩山紹瑾禅師によって開創されました。翌年夏、禅師に帰依された後醍醐天皇は綸旨を下され、總持寺を勅願所として、「曹洞賜紫出世第一の道場」と定めました。
 正中元年(1324)、瑩山紹瑾は「諸岳山十条之亀鏡」を定めて寺制を整えました。その後、寺を継承した峨山韶磧によって整備され、五哲と呼ばれた門人によって5ヶ所の子院が設けられました。
 室町幕府や地元の能登畠山氏・長谷部氏の庇護を受け、元亀元年(1570)の戦乱で焼失したものの、前田氏のもとで再興されました。
 明暦3年(1657)、寺領400石が与えられ、加賀藩時代を通じて手厚い保護を受けました。江戸幕府は元和元年(1615)永平寺・總持寺をともに大本山として認め、徳川家康の意向で1千両が寄付されて幕府の祈願所になりました。
 寺運は隆盛を極め全国にその末寺1万6千余を数えましたが、明治31年(1898)の火災により七堂伽藍の大部分を焼失しました。 そして、これを機に布教伝道の中心を神奈川県横浜市鶴見に移しました。
 その後、ここは大本山總持寺祖院となり、祖廟として次々に堂宇が再建され、山内約2万坪の境内には焼失をまぬがれた伝燈院、慈雲閣、経蔵などのほかに七堂伽藍も再建されました。



琴ヶ浜
ことがはま
石川県輪島市門前町剱地
Tel 0768-42-1111
 琴ヶ浜は歩くとキュッキュッと砂が鳴る白い泣き砂の浜です。砂浜の砂には約0.4mm程度の粒の石英が約72%含まれています。このような鳴き砂は全国で30ヶ所あります。
 海岸にそそぐ仁岸川の上流には白亜紀(1億4550万年前から6550万年前)に形成されたと考えられる花崗岩が広く分布しています。これらが仁岸川によって運ばれ河口付近で堆積してこのような浜になりました。この砂は海岸から数キロメートルの海底まで続いています。
 琴ヶ浜は映画「千年旅人」のロケ地となっています。この浜には、お小夜の悲恋伝説が伝わっています。平成15年(2003)、海水浴場として整備され、奥能登の夏を満喫できる新たな名所となりました。



ヤセの断崖
やせのだんがい
石川県羽咋郡志賀町笹波
Tel 0767-32-9341
 ヤセの断崖は松本清張の小説「ゼロの焦点」の舞台となり、一躍有名になった場所です。高さ35mの険しい断崖絶壁で、この先端に立つと足が震える感じです。
 平成19年(2007)3月、マグニチュード6.9の能登半島地震が起こりました。突き出ていた「ヤセの断崖」は崩落してしまいました。翌年3月末まで立ち入りが禁止されていましたが、現在は、安全な場所に展望台が造られ、そこから景色を眺めるようになっています。

「ゼロの焦点」
 鵜原禎子の夫が赴任先の金沢で失踪します。失踪のなぞを解くため、尋ね歩く禎子は、夫が別姓を使って、別の女性と能登で同棲していたことを突き止めました。夫の失踪のなぞが解き明かされるにつれ、関係者が次々と不審な死を遂げます。
 それらは、売春婦だった過去が世間に知られるのを恐れた社長夫人の佐知子による殺人であると確信します。禎子と佐知子は能登金剛のヤセの断崖で対面します。そして、佐知子は、日本海の夕暮れが迫る荒海に、ひとり小舟で向かいます。



巌門
がんもん
石川県羽咋郡志賀町富来牛下
Tel 0767-48-1233
 海面に突き出した岩に、日本海の荒波の浸食でできた洞門です。幅6m、高さ15m、奥行き60mもあります。能登金剛を象徴する光景です。
 自然が作り出した洞門の上には老松が生い茂っています。海面にそそり立つ巨岩の「鷹の巣岩」や機具岩や碁盤島を巡る遊覧船がでています。「鷹の巣岩」は頂上にある松に鷹が巣を作ったいわれがあるそうです。



大笹波水田
おおざさなみすいでん
石川県羽咋郡志賀町笹波
Tel 0767-42-1111
 大笹波水田は、ヤセの断崖から少し南に位置する海岸段丘にある棚田です。棚田の枚数は180枚で、棚田の標高差は約30m、長方形の棚田が規則的に並んでいます。
 後継者難などから荒廃が進む全国の棚田のなかで、現在でも現役で稲作が行われています。「日本の棚田百選」に選ばれ、奥能登らしい景観を生みだしています。



能登金剛
のとこんごう
石川県羽咋郡志賀町富来牛下〜前浜
Tel 0767-32-1111
 能登半島国定公園に指定されている能登金剛は、能登半島外浦の荒々しい海岸美を象徴する景勝地です。日本海の荒波がつくり出した男性的海岸美が連なり、 その豪壮な景観が朝鮮半島の金剛と比べても劣らぬところから名付けられたそうです。
 断崖絶壁に数々の名勝があります。波の浸食で造られた巌門、しめ縄が張られた機具岩、松本清張の小説の舞台となったヤセの断崖、奇岩が連なる関野鼻、吹上滝、増穂浦、玄徳岬、鳴き砂の美しい琴ヶ浜など見所がたくさんあります。


旧福浦灯台
きゅうふくうらとうだい
石川県羽咋郡志賀町福浦港
Tel 0767-32-9341
 旧福浦灯台は、日本最古の木造灯台です。昭和40年(1965)、石川県指定史跡に指定されています。
 旧福浦灯台の起源は古く、慶長13年(1608)に日野長兵衛が夜に航行する舟の安全のために篝火を焚いたのが始まりとされています。元禄年間に灯明堂が建てられ、日野家が代々灯明役を務めました。
 灯台は、高さは約5mで、内部は3層になっています。明治43年(1910)に福浦村営の灯台となり、現在の福浦灯台が設置される昭和27年(1952)まで使用されました。



気多大社
けたたいしゃ
石川県羽咋市寺家町ク1
Tel 0767-22-0602
 気多大社は、能登国一宮で、旧国幣大社で,、大己貴命を祭神としています。天平20年(748)に越中守大友家持が参拝したというのが万葉集にも記載されている神社です。
 社伝によれば、大己貴命が出雲から舟で能登に入り、国土を開拓した後に守護神として鎮まったとされます。崇神天皇のときに社殿が造営されたそうです。
 気多大社には、前田利家の妻・まつが夫や子の武運を祈祷する1枚の書状が伝わっています。「今度のご陣、利家さま五十四、利長さま二十九」などと名と年齢を記し、「よくよくご祈念たのみ入りまいらせ候」などと続いています。豊臣秀吉の北條攻めに従って関東に出陣した際、利家・利長らの無事を願った祈祷依頼状とされています。
 神門、 拝殿、本殿、 摂社白山神社本殿、摂社若宮神社本殿が国の重要文化財に指定されています。社叢 「入らずの森」には、立ち入りが禁止され奥宮が安置されています。3ヘクタールの中に樹齢百年をこえる木が林立していて、国の天然記念物に指定されています。

 気多大社の神門は社伝によると天正12年(1584)の建立されました。切妻造りの四脚門で檜皮葺きです。昭和36年(1961)、国の重要文化財に指定されています。
気多大社神門
 気多大社の拝殿は承応2年(1653)から翌年にかけて建立されています。大工・山上善右衛門の作と推定されています。入母屋造り妻入、檜皮葺きです。神門と同じ時に国の重要文化財に指定されました。
気多大社拝殿
 気多大社の本殿は天明7年(1787)に建立されています。桁行3間、梁行4間の三間社で、類例の少ない両流造りです。昭和57年(1982)に国の重要文化財に指定されました。
気多大社本殿



香林坊
こうりんぼう
石川県金沢市香林坊
 香林坊は、金沢市の中心部の名前です。香林坊という地名は還俗した比叡山の僧香林坊からきているそうです。向田家に嗣子に入り向田香林坊と称したそうです。

 香林坊は目薬を発売し、藩主前田家へ献上するなど、評判と信用を高めたそうです。香林坊の死後、代々香林坊喜兵衛を襲名しこの地で長く繁栄したそうです。
日本銀行金沢支店
 今や香林坊とそれに続く片町界隈はファッションビルや飲食店が建ち並ぶ金沢一の繁華街となっています。



金沢城
かなざわじょう
石川県金沢市丸の内1ー1
Tel 076-234-3800
 金沢城は加賀百万石を築き上げた前田利家の居城です。平成13年(2001)に菱櫓、橋爪門続櫓などが復元、整備され、金沢城趾は金沢城公園として生まれ変わりました。
 文明年間(1469-1486)、ここには空堀や柵などを備えた尾山御坊(金沢御坊)と呼ばれる加賀一向宗の本願寺の本拠地があり、加賀国を支配していたそうです。
 天正8年(1580)織田信長の命により、柴田勝家らの軍勢がこの尾山御坊を攻め落とし、同年勝家の甥である佐久間盛政が入城しました。百姓一揆に備えここを修築して尾山城と改名したそうです。
 盛政は3年間城主を務め城郭の整備を進めました。城は当初、犀川と浅野川に挟まれた小立野台地の先端に位置していましたが、盛政は蓮池堀を掘って台地から城地を切り離し、輪郭を築き金沢城の基礎としました。
 賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで柴田勝家は羽柴秀吉に敗れてしまいます。尾山城主の盛政は捕らえられ処刑されてしまいました。その後、天正11年(1583)に北陸制圧に功のあった能登七尾城主であった前田利家が入城しました。
 秀吉は利家に加賀、能登、越中の3国を与えました。利家は金沢城と命名し加賀百万石の本城となったのです。これ以後14代300年前田家は存続し明治を迎えました。
 天正15年(1587)バテレン追放令により除封されたキリシタン大名高山右近は食客として前田利家のもとにいました。右近の指導のもと、本格的な城郭の建設が始まりました。
 文禄元年(1592)利家の子前田利長が再び城の改造を行ないました。天守閣は落雷によって焼失したため3階櫓が建造されました。慶長7年(1602)の火災でその櫓も焼失してしまいました。それ以後は二の丸が藩主の居所となったようです。
 明治8年(1875)陸軍第7連隊が金沢城址に置かれました。明治14年(1881)火災により石川門と三十間長屋を残して焼失してしまいました。
 明治31年(1898)陸軍第9師団司令部が金沢城址に置かれ、第2次世界大戦が終わるまで軍都金沢の象徴でした。昭和24年(1949)戦後新設された金沢大学のキャンパスとなりました。平成7年(1995)金沢大学が郊外に移り、平成13年(2001)金沢城公園として生まれ変わったのです。




百間堀
ひゃっけんぼり
 百間堀跡地です。金沢城では最も幅が広く、規模の大きい外堀です。別名蓮池堀ともいわれ金沢御堂陥落後の天正8年から11年(1580-1583)の間に造られました。寛永期に辰巳用水が城内に導水されたことで、本格的な水堀として整備されました。



石川門
いしかわもん
 兼六園と向かいあって建つ石川門です。金沢のシンボルにもなっている建築物で、国の重要文化財に指定されています。石川郡の方を向いていたので「石川門」といわれたようです。
 入口を鉄門で仕切り、内側は周りを石垣で区切った枡形(ますがた)門です。二層の菱櫓(ひしやぐら)と多門を組み合わせてできています。
 この石川門は天明8年(1788)に再建されたものです。宝暦9年(1759)の宝暦の大火で城内のほとんどの建物が焼失していたのです。この石川門の石垣は右と左で積み方が違うそうです。
 右側は「切り込みハギ」左側は「打ち込みハギ」の技法になっているそうです。同じ場所で違う積み方をしためずらしい箇所だということです。
 金沢城の瓦には鉛が使用されています。戦時には鉄砲の弾として使うことを想定していたようです。また、屋根にかかる雪の重さを軽減するためともいわれています。
 金沢城跡には石川門だけではなく三十間長屋も国の重要文化財に指定されています。三十間長屋は宝暦大火で焼失し、安政5年(1858)に再建されたものです。
 城内に金沢大学があったころ、三十間長屋は、一時、図書の保管蔵として使われていたそうです。昭和41年(1966)から43まで解体修理されました。



兼六園
けんろくえん
石川県金沢市兼六町1ー25
Tel 076-221-6453
 特別名勝の兼六園は金沢城の外郭として城に属した庭だったそうです。水戸の偕楽園や岡山の後楽園とともに、日本三名園の一つに数えられています。

 延宝4年(1676)5代藩主・綱紀(つなのり)が城内に蓮池御亭(れんちおちん)を建て、その周りを蓮池庭(れんちてい)という庭園にしたのが作庭の始めだといわれています。
 文政5年(1822)12代藩主斉広が自分の隠居所「竹沢御殿」を建て、回遊式の広大な庭園造りを始めました。庭には辰巳用水を取り入れた曲水を作り、各種の石橋を架けたのでした。

 奥州白河藩主の松平定信こと白河楽翁(らくおう)にこの庭園の命名を依頼しました。楽翁は中国宋時代の詩人・李格非(りかくひ)の書いた洛陽名園記の中の「園甫の勝、よく兼ね能はざるもの六あり。宏大に務むれば幽邃少なし、人力すぐれば蒼古乏し、水泉多ければ眺望難し」から兼六園と名付けたのです。
 宏大(こうだい)・幽邃(ゆうすい)・人力(じんりょく)・蒼古(そうこ)・水泉(すいせん)・眺望(ちょうぼう)の六勝を兼備するという意味でその素晴らしさがにじみ出ています。
 霞ケ池の北岸に徽軫灯篭(ことじとうろう)があります。琴の弦を支えている柱(琴柱)に似ていることから付けられたそうです。まさに兼六園のシンボルです。
 北前船を30隻近くも持っていたという豪商の木谷藤右衛門(きやとうえもん)が十二代藩主斉広(なりひろ)に献上したものといわれています。この灯籠のすぐ近くの曲水の流入部に虹橋が架かっています。
 徽軫灯篭は水面を照らすための雪見灯籠の変形だそうです。高さ2.6mあります。脚のアンバランスがかえって趣を与えてくれます。


唐崎松
からさきのまつ
 13代藩主斉泰(なりやす)が琵琶湖畔の唐崎から種を取り寄せ実生から育てたといわれる黒松です。枝が霞ケ池の中に浮かんでいるように見えます。
 11月1日から雪づりをはじめます。北陸に冬の訪れを告げる風物詩となっています。


霞が池
かすみがいけ
 霞が池は兼六園の中心部にあります。永遠の繁栄を願って作られた兼六園一大きな池です。広さ5800平方mあります。
 池を中心にして栄螺(さざえ)山、内橋亭、徽軫灯篭、虹橋、唐崎松、蓬莱島などの各名勝を配置し、廻遊しながら庭景を楽しめるよう園路が巡らされています。


内橋亭
うちはしてい
 茶室の内橋亭です。栄螺山(さざえやま)を背景に霞ヶ池のほとりに浮んでいるようです。昭和40年(1965)に再建されています。


眺望台
 幾重にも重なり合った山々のはるか彼方に、白山の山並みの稜線が美しく見えます。卯辰山、戸室山、医王山の山々を望むことができます。
 市街地の向こうには加賀平野が広がっています。日本海、 能登半島などを望むことができます。


雁行橋
がんこうばし
 11枚の石を使って雁が列をなして飛んでいる姿を表わしていることから雁行橋といわれています。
 別名亀甲橋ともいわれます。石の1枚1枚が亀の甲の形をしているからです。この橋をわたると長寿を保つといわれています。


七福神山
 12代藩主・斉広が、竹沢御殿から眺める庭園として作庭したそうです。7つの自然石を、七福神になぞらえ、恵比寿、大黒天、寿老人、福禄寿、布袋、毘沙門天、弁財天にみたてています。
 福寿山ともいわれるこの七福神山は、曲水、築山、雪見灯籠など、当時の雰囲気をそのままに伝えています。


日本武尊像
やまとたけるのみことぞう
 日本武尊は古代の英雄で伝説の皇子です。銅像の身長は5.5mで、 日本で最初に建てられた銅像と言われています。台石の高さは6.5mです。セメントなどを使わず石の重さだけで組み合わされています。


根上がりの松
ねあがりのまつ
 15mほどの黒松です。13代藩主斉泰(なりやす)が稚松(わかまつ)を盛土の上に植え、徐々に土を除いていったそうです。多くの根が露出して地面から盛り上がっています。松の生命力と値上がりに通じて縁起がよいので珍重がられたそうです。


辰巳用水
たつみようすい
 寛永9年(1632)犀川から取水し、ここから城内へ木管により通水されました。天保15年(1844)石管に取り替えられたそうです。辰巳用水は金沢城のための用水でした。


松の傷
 兼六園の松の傷は戦時中の昭和20年(1945)閣議決定された松根油等拡充増産計画の名残です。全国の松から年間40万キロリットルの松根油を生産し航空機を飛ばすというものでしたが成果は上がらなかったようです。


舟之御亭
ふなのおちん
 5代藩主・綱紀により蓮池庭作庭の際に造られた4亭の一つです。平成12年(2000)に時雨亭と共に復元されました。
 船の形をしています。藩政時代の絵図にも描かれているそうです。現在は、梅林のそばに建てられています。


夕顔亭
 この夕顔亭は園内で最も古い建物で、安永3年(1774)に建てられた茶室だそうです。茶席の次の間の袖壁に夕顔(瓢箪)の透し彫りがあるので夕顔亭という亭名がつけられたそうです。


瓢池
ひさごいけ
 瓢池は池の中ほどがくびれて瓢(ひょうたん)の形をしているのでその名がつけられています。百間堀からこの辺一帯は藩政時代以前から池や沼があったらしく蓮池の名前が残っています。
 兼六園と名づけられるまでは蓮池庭と呼ばれていたそうです。園内で最も古く、兼六園の作庭はこの一帯から始まったものだといわれています。


翠滝
みどりたき
 翠滝は高さ6.6mの雄大な人工の滝です。安永3年(1774)11代藩主前田治治脩(はるなが)が蓮池庭を改修し現在の翠滝と夕顔亭を作ったそうです。まわりの樹木は紅葉の名勝である滝田、高尾、小倉山などから移植したそうです。


海石塔
 瓢池の島にある高さ4.1mの塔は六重の塔で、虫が喰ったように穴のあいた淡茶色の笠石が積み重ねられています。この笠石が海石に似ていることから海石塔と呼ばれています。
 加藤清正が朝鮮の役の際、戦利品として持ち帰ったものを秀吉に贈り、それが利家に贈られたといわれています。


噴水
 文久元年(1861)に作られた日本最古の噴水です。3.5mの高度差を利用しています。

 明治4年(1871)に、名を「與楽園・よらくえん」と変えられ、その後「兼六公園」(明治7年)、「金沢公園」(大正11年)となり、旧称の「兼六園」に戻されたのは大正13年(1924)でした。
 現在は「文化財指定庭園 特別名勝」の指定を受けています。



成巽閣
せいそんかく
石川県金沢市兼六町1ー2
Tel 076-221-0580
 文久3年(1863)加賀藩13代藩主斉泰(なりやす)が母真竜院(しんりゅういん)の隠居所として建てられたのが成巽閣です。金沢城からみて巽(たつみ)つまり東南の方向にあることから巽御殿と呼ばれました。
 真竜院こと隆子は12代藩主斉広の正室で、京都の鷹司政照(たかつかさまさひろ)の息女でした。鷹司家は辰巳殿と呼ばれていたこともこの名前が付けられた要因の一つだと思われます。
 1階は整然とした武家書院造りです。2階は天井や壁、床の間に意匠を凝らした数奇屋風書院造りとなっており、2つの様式をたくみに取り入れ調和のとれた建物となっています。
 敷地は6600平方m、建て面積約1000平方mもあります。柿葺(こけらぶき)で、1階には大名書院造りの謁見の間、広間、入側(いりがわ)、茶室などがあります。
 2階には群青(ぐんじょう)、書見(しょけん)、網代(あじろ)、越中などの各間があります。色彩と花島の意匠を散りばめ細部まで贅をつくしています。
 主屋は昭和25年(1950)に国の重要文化財に指定されています。昭和13年(1938)には国宝に指定されていたそうです。庭園も名勝に指定され、煎茶席三華亭、辰巳長屋、土蔵は石川県の重要文化財、中庭は県指定名勝となっています。
 明治になり成巽閣と改められ、金沢工業学校の仮校舎や金沢博物館に使われた後、前田家の別邸となったそうです。幕末大名屋敷の女性の住居を代表する貴重な遺産です。



石川護国神社
いしかわごこくじんじゃ
石川県金沢市石引4ー18ー1
Tel 076-221-2110
 石川護国神社ははじめは招魂社と称し、卯辰山にある卯辰神社の下にあったそうです。明治元年(1868)越後奥羽の乱で戦死した加賀藩兵103名の霊魂を祀るため金沢藩知事(加賀14代藩主)前田慶寧(よしやす)が建立しました。
 のちの西南の役や日清・日露戦争の戦没者も合祀しています。卯辰山の境内は狭かったため昭和10年(1935)に旧陸軍小立野練兵場の一隅であったこの場所に新殿建立しています。
 昭和14年(1939)、石川護国神社と改称しました。大東亜戦争までの神霊も合わせて祀っています。鳥居の奧に見える「大東亜聖戦大碑」は世論を二分しているそうです。



石川県立美術館
いしかわけんりつびじゅつかん
石川県金沢市出羽町2ー1
Tel 076-231-7580
 明治9年(1876)金沢博物館として設立されました。昭和58年(1983)兼六園に隣接されて開館したようです。加賀藩主前田家に伝わってきた文化財は前田育徳会展示室に公開されています。
 加賀蒔絵や九谷焼をはじめとする古美術品や、人間国宝を中心とした伝統工芸作品、石川県ゆかりの作家を中心とする現代作品などを展示しています。
 野々村仁清の最高傑作の色絵雉香炉(いろえきじこうろ)は昭和26年(1951)国宝に指定されここに展示されています。



美術の小径
びじゅつのこみち
石川県金沢市出羽町
076-220-2194
 美術の小径は石川県立美術館から中村記念美術館へと続く坂の散策路です。小立野台地から坂道は多いですが、この美術の小径は崖につけられた石段です。この坂には、辰巳用水の分流が滝となって流れています。
 徒歩で3分ぐらいの短いコースですが、途中には動物の彫刻があり、豊かな緑の小径です。内田康夫の「金沢殺人事件」の舞台にもなっています。



藩老本多蔵品館
はんろうほんだぞうひんかん
石川県金沢市出羽町3ー1
Tel 076-261-0500
 兼六園の南に藩老本多蔵品館があります。代々加賀藩の筆頭家老を務めた本多家に伝わる武具や調度品、古文書などを展示しています。本多家随一の家宝といわれる「村雨の壺」を展示しています。
 村雨の壺は、5万石の加増を固辞したかわりに2代藩主前田利長から拝領したといわれています。本多家の初代政重の名刀「磨上無銘(みがきあげむめい)」も有名です。鎌倉末期から南北朝時代頃の備前国兼光作の太刀だそうです。



石川県立歴史博物館
いしかわけんりつれきしはくぶつかん
石川県金沢市出羽町3ー1
Tel 076- 262-3236
 石川県立歴史博物館は旧金澤陸軍兵器支廠でした。赤煉瓦の3棟の建物で平成2年(1990)重要文化財に指定されています。第1棟は大正3年(1914)に建てられ旧第7号兵器庫でした。

 第2棟は大正2年(1913)に建てられたもので旧第6号兵器庫でした。第3等が一番古く明治42年(1909)に竣工され旧第5号兵器庫だったそうです。

 終戦後の昭和21年(1946)金沢美術工芸大学校舎として使用されていました。昭和47年()石川県が譲り受け、昭和61年(1986)石川県立歴史博物館となったそうです。
 煉瓦造り2階建てで左右対称を基本とした端正な意匠になっていて長さは90mもあるそうです。
 石川県を中心に北陸地方に関する縄文時代から近代までの人々の暮らしや文化を展示しています。



本多の森公園
ほんだのもりこうえん
石川県金沢市出羽町、石引、本多町
 本多の森公園は兼六園の南側にある総面積4.7ヘクタールの県営公園です。緑濃い森でおおわれ、森の中には石川県立歴史博物館、石川県立美術館、能楽堂をはじめとする文化財や文化施設が集まっている文化ゾーンになっています。
 加賀藩の筆頭家老、本多家の屋敷があった場所で戦後は金沢市立美術工芸大学の学校用地だったそうです。



黒門前緑地 旧高峰家
くろもんまえりょくち きゅうたかみねけ
石川県金沢市丸の内5ー16
Tel 076-221-1260
 黒門前緑地は、江戸時代は前田利家の娘豪姫の居宅があったと伝えられる場所です。平成7年(1995)まで、金沢地方検察庁検事正官舎の敷地でした。
 平成13年(2001)官舎の一部と土塀を含めた屋敷構えを保存するために公園として整備されました。そして、同時に郷土の偉人である高峰譲吉博士ゆかりの「旧高峰家」を移築しています。その建物は湯涌町江戸村に移築保存されていたものでした。
 高峰譲吉博士はアドレナリン、タカジアスターゼの創製に成功した人です。旧高峰家は、明治5年(1872)加賀藩の御典医(ごてんい)であった譲吉の父が建てた居宅の一部で、書斎、茶室として利用された「離れ」にあたります。



尾崎神社
おざきじんじゃ
石川県金沢市丸の内5ー5
Tel 076-231-0127
 尾崎神社は東照権現堂が前身です。寛永17年(1640)、幕府から東照大権現の勧請を許された加賀4代藩主前田光高(みつたか)は、幕府の御大工木原木工允の設計により、翌々寛永19年(1642)に金沢城北ノ丸に起工し、翌20年(1643)に奉祀しました。

 東照権現堂と呼ばれていましたが明治6年(1873)の神仏分離令が出されたため翌年の明治7年(1874)尾崎神社と改めました。明治9年(1876)に金沢城内が陸軍省用地となったため現在地へ移転させられました。

 移転料がわずか600円しか交付されなかったため現存するこの建物だけしか移転できなかったそうです。徳川幕府に気を使った光高が建てた徳川家康を祭神にした東照宮だけに廃棄された他の建物が惜しまれます。
 本殿や拝殿、中門は内外部とも漆を塗ってあり、彫刻や装飾が施されています。極彩色で、錺金具を打ち、日光廟の仕上げを模して華麗です。国の重要文化財に指定されています。



金沢21世紀美術館
かなざわ21せいきびじゅつかん
石川県金沢市広坂1ー2ー1
Tel 076-220-2800
 金沢21世紀美術館は、兼六園や金沢城公園近くの観光ゾーンにある現代美術館です。平成16年(2004)に金沢大学附属中学校・小学校・幼稚園があった場所に開館しました。
 都市の中心部に十分なスペースのあるゆったりとした公園のような美術館です。各展示室は現代美術の展示に適した白い壁面の空間(ホワイトキューブ)で、個々の展示室はそれぞれ独立した立方体として円形の館内に配置されています。
 市民や産業界など様々な組織と連携を図って、全く新しい活動を試みています。設計者のSANAAは、この建物等によりヴェネツィア・ビエンナーレ第9回国際建築展の最高賞である金獅子賞を受賞しています。



妙立寺
みょうりゅうじ
石川県金沢市野町1ー2ー12
Tel 076-241-0888
 日蓮宗の正久山妙立寺は別名忍者寺と呼ばれています。寛永20年(1643)、加賀3代藩主前田利常が藩を守護する祈願所として建立しました。
 幕末期には12代藩主斉広夫人の真竜院に崇敬されていたそうです。外から見ると何の変哲もない2階建ての寺ですが、中へ入ると4階建て7層複雑な建築構造をしています。23の部屋と29の階段があるそうです。
 堂内は迷路のようになっていて隠し階段、落とし穴、隠し部屋、二枚戸など様々な仕掛けが隠されています。妙立寺は北陸街道の要衝にあり事に備えて造られたものでしょう。



安宅の関跡
あたかのせきあと
石川県小松市安宅町ヨ132
Tel 0761-22-8896
 安宅町は古くから日本海の要港として栄えました。藩政時代は藩の米倉がおかれ「酒屋千軒寺千軒」といわれるほど賑わったそうです。
 安宅の関跡は日本海に面した小高い砂丘上にあり、松林に囲まれています。ここは歌舞伎十八番勧進帳の舞台となった関なのです。
 文治3年(1187)源頼朝に追われた義経一行がこの安宅の関にさしかかりました。安宅の関守は富樫左衛門秦親でした。山伏に姿を変えた一行に疑惑の目で厳しく尋問したのでした。
 弁慶はその疑いを晴らすため、機転を利かせ懐の中の白紙の巻物を取り出して、勧進帳を空読みし「不動の見得」を切ったのです。それでも疑心の目で見られているので錫杖で義経を殴って難を逃れたというものです。
 この時の義経の勇気、弁慶の智略、富樫の仁義をたたえ、勇仁智と掲げられた「弁慶・富樫問答の像」が建てられています。昭和41年(1966)に日展作家都賀田勇馬によって制作されました。歌舞伎の7代目松本幸四郎と2代目市川左団次をモデルにしたそうです。
 平成7年(1995)には義経の像も完成しました。この像は都賀田勇馬の息子さんの都賀田但馬の制作だそうです。
 安宅関所館もあります。義経一行の名場面が等身大の人形で再現されています。梯川(かけはしがわ)河口の一帯は安宅海浜公園と整備され安宅関所資料館などもあります。
 関の一角に与謝野晶子が安宅に訪れた際に詠んだ歌碑があります。

 松たてる 安宅の砂丘 その中に
   清きは文治 三年の関



安宅住吉神社
あたかすみよしじんじゃ
石川県小松市安宅町タ17
Tel 0761-22-8896
 安宅住吉神社はかつては安宅住吉大明神・二宮住吉大明神・住吉宮とも呼ばれました。天応2年(782)創建の古社で、当初は琴佩山に鎮座していました。天暦2年(948)に鷹降山、天正5年(1577)小倉野へと遷座を重ね、天保4年(1647)に北陸道の要所である現在の場所に建てられました。
 源義経は安宅のこの住吉神社で休憩したともいわれています。境内の「弁慶の逆植の松」と呼ばれる大きな松は有名です。難関突破に霊験あらたかとされ、難関突破のお守りを出しています。


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