×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

直線上に配置

更新日:  



あなたは

番目の訪問者です
(ogino作成共通カウント)



旅と歴史ホームページ

OGIさんのHP

信州上田ホームページ

信州長野ホームページ

真田一族のホームページ

Mr.ogino旅ホームページ

上田の旅と歴史HP

信州の旅HP

日本の旅

世界の旅HP



日本の旅
中部・飛騨の旅          高山・郡上・白川

白川郷合掌造り集落
しらかわごうがっしょうづくりしゅうらく
岐阜県大野郡白川村荻町
Tel 05769-6-1013 白川郷観光協会


 白川郷は豊かな自然に囲まれた岐阜県最北部にあります。日本有数の豪雪地帯で、少し前までは日本の秘境といわれ、厳しい気候風土のこの地域で豪雪に耐えながら合掌造りの民家の暮らしが営まれています。
 合掌造りとは掌を合わせたように三角形に組む丸太組みの家の造りです。深い山あいに、寄り添うようにこの合掌造り民家が並んでいます。平成7年(1995)にユネスコ世界文化遺産に富山県上平村菅沼、平村相倉(五箇山)とともに白川郷の3集落が世界文化遺産に登録されました。
 人口わずか2千人程度の小さな白川村に150万人以上の観光客が押し寄せる人気スポットになりました。この中心になるのが荻町合掌集落です。大小100棟余りの合掌造り家屋があり、今でも人々の生活が営まれています。
 集落を歩けば小川に魚が泳ぎ、田んぼのあぜ道に四季折々の花が咲いています。数百年の時を刻む合掌造り家屋を母体となり、村の暮らしを育む大自然と長い歴史と現代の生活が見事に調和している生きている世界文化財なのです。
 代表的な和田家住宅をはじめ、明善寺郷土館、神田家住宅、長瀬家住宅など合掌造りの立派な建物がたくさんあり、見学できるようになっています。合掌造り民家の保護だけでなく、集落全体の農村風景が残されるように考えられています。



和田家住宅
わだけじゅうたく
岐阜県大野郡白川村荻町997
Tel 05769-6-1058


 和田家住宅は萩町合掌造り集落の代表的な民家で、ユネスコの世界文化遺産に指定されている白川村の合掌造り集落の中でで最大の規模を誇っています。合掌造りとは掌を合わせたように三角形に組む丸太組みの家の造りです。
 主屋は桁行22.3m(12間)、梁間12.8m(7間)、切妻造り、茅葺きの1重3階の大型合掌造り民家です。西面する主屋を中心に、前方右手に便所、後方左手に土蔵が建っています。江戸時代末期(1830-1867)の建立とみられています。
 和田家は天正元年(1573)以来、代々弥右衛門の名を継いでいます。江戸時代には牛首口留番所役人や庄屋を務め、苗字帯刀を許されました。そして白川郷の重要な現金収入源であった焔硝(えんしょう)の取引によって栄えました。
 和田家住宅は合掌造りを代表する民家で、式台玄関を備えるなど質、格式ともに優れた建築です。平成7年(1995)に主屋、土蔵、便所ならびに土地が国の重要文化財に指定されました。また、板蔵、稲架小屋は、岐阜県の重要文化財に指定されています。



明善寺郷土館
みょうぜんじきょうどかん
岐阜県大野郡白川村荻町679
Tel 05769-6-1009


 松原山明善寺は浄土真宗のお寺で、荻町合掌集落の北側にあります。延享5年(1748)の創建といわれていますが定かではありません。始めは村内の内ケ戸にありましたが、白川八幡神社別当寺・仙光院の後継となり明善寺となったそうです。
 明善寺は本堂や庫裏、2層の鐘楼門など、全ての建物が茅葺きという珍しい合掌造りのお寺です。 江戸期に高山の大工によって建てられ 、他の合掌造り家屋と同じく、地元飛騨の匠の技が存分に生かされています。

 明善寺の鐘楼門は享和2年(1801)に建てられた門で、桁行1間、梁間2間2階建、寄棟造り、茅葺きです。門と鐘楼を兼用したもので、正面は柱間12尺8寸を1間とし、中央に蟇股を置いています。2階は、鐘楼で方1間、周囲に勾欄を廻し、柱は唐獅子の木鼻付き虹梁になっています。岐阜県の重要文化財に指定されています。
明善寺鐘楼門
 明善寺の本堂は文政10年(1827)に建てられた建物で、白川村の重要文化財に指定されています。桁行15.07m、梁間14.3m、入母屋造り、茅葺きです。正面前及び左右(北・南側にあたる)中央にかけて縁があり、南側はその奥花部屋、北側は半鐘部屋、東側は後堂、そして中央に外陣・内陣があります。
明善寺本堂
 明善寺の庫裏は桁行22.1m、梁間12.1mの合掌造り大きな建物で切妻造り、茅葺きで岐阜県の重要文化財に指定されています。江戸時代末期、高山の大工により建てられたもので、現在は「明善寺郷土館」として一般公開されています。5層の庫裏は、白川郷でも最大規模の合掌造りで、屋根の勾配は60°近くあります。
明善寺庫裏
 明善寺のイチイは岐阜県の天然記念物に指定されています。根元の幹周囲2.6m、目通り幹周囲3.5m、樹高10.6mです。このイチイは、文政10年(1827)に本堂再建の折に副棟梁の与四郎が鐘楼門の横に記念木として植樹したものといわれています。
明善寺のイチイ



野外博物館 合掌造り民家園
やがいはくぶつかん がっしょうづくりみんかえん
岐阜県大野郡白川村荻町2499
Tel 05769-6-1231


 野外博物館合掌造り民家園は、かつて白川郷の中でも最も秘境と呼ばれた加須良集落が集団離村したことをきっかけに誕生した合掌造り集落の博物館です。「白川郷合掌の里」から名称を変えて現在に至っています。
 昭和47年(1972)当時廃屋となっていた合掌家屋9棟を集めオープンし、現在は岐阜県重要文化財指定建造物9棟を含め25棟の建造物を保存公開しています。
 床や柱が建てられた当初のまま保存されている民家もあり、「旧山下家」は、なんと江戸時代中期に建てられた合掌造りの民家です。園内には神社、水車小屋、馬屋などが立ち、田畑なども耕され、昔の村がそのまま残っています。



合掌造り焔仁美術館
がっしょうづくりほむらじんびじゅつかん
岐阜県大野郡白川村荻町2483
Tel 05769-6-1967


 合掌造り焔仁美術館は庄川の対岸、せせらぎ公園駐車場近くに平成8年(1996)にオープンしました。白川郷に約20年間アトリエを構え活動した焔仁(ほむらじん)氏が、作品と建物を村に寄贈してできた合掌造りの美術館です。
 赤、青、黄の3色を基調にした妖艶で美しい抽象絵画、約50点が展示されています。色鮮やかな女性の裸体の作品は、国内外からも高い評価を得ています。



旧遠山家民俗館
きゅうとおやまけみんぞくかん
岐阜県大野郡白川村御母衣125
Tel 05769-5-2062


 旧遠山家民俗館は白川郷の代表的な合掌造り民家として、昭和46年(1971)、国の重要文化財に指定され、村立の民族館として一般公開されています。
 遠山家は大正9年(1920)の国勢調査では家族数31人と、白川村で屈指の大家族制を維持した旧家です。桁行22m(11間半)、梁間13.3m(6間半)、1重4階の大型合掌造り民家です。へんちや(便所)の柱に文政10年(1827)の墨書があり、その頃の建立とみられています。
 手と手を合わせたような急勾配の屋根の形は合掌造りといわれ、豪雪地帯のこの地で雪を落としやすくし、屋内を幾階にもわけて活用できました。1階は住居として、1層から3層は主に養蚕用に使用されました。



飛騨古川の町並み
ひだふるかわのまちなみ
岐阜県飛騨市古川町
Tel 0577-73-3511 飛騨古川まつり会館


 飛騨古川の町並みは、東西の壱之町、弐之町、三之町というあたりが中心となります。高山市から北に15km、飛騨古川は高山と同様、江戸時代に天領となりました。伝統ある城下町には、出格子の商家や白壁の土蔵が続き、鯉が泳ぐ落ち着いた所です。
 戦国時代に越前大野の城主であった金森長近は豊臣秀吉の命で飛騨を治めていた三木自綱を攻め滅ぼしました。天正13年(1585)、秀吉から飛騨の平定の功により、飛騨の国を得ました。その後、狭い古川盆地から、高山に移り、高山城を築きました。
 長近は古川も重視し増島城を築き、息子の可重に治めさせました。碁盤目状の町割りになり、京都の町並みを真似た町づくりを行いました。江戸時代、一国一城令で、増島城は取り壊わされましたが、経済的に発展し現在も古い町並みが残り当時の繁栄が偲ばれます。
 壱之町、弐之町などの、本光寺参道へと続く通り沿いには、造り酒屋をはじめ和ろうそくの老舗や、切り絵工房、伝統工芸・一位一刀彫の工房、美術館など商家の古い町並みが続きます。

 三嶋和ろうそく店は明和年間(1764-1772)創業の老舗です。全国でも希少な手作り和ろうそくの店で日本一大きな和ろうそくも展示しています。NHK連続テレビ小説「さくら」の舞台となりました。
三嶋和ろうそく店
 蓬莱の渡辺酒造店と白真弓の蒲酒造場の2つの酒屋が並んでいます。造り酒屋の入口の上に掛かる大きな杉玉は、新酒ができると新緑の杉玉に取り替えられます。良い酒は良質の水と米そして温度管理といわれています、古川の風土はすべてを満たしているといわれています。
渡辺酒造店
 起し太鼓で有名な飛騨古川祭をいつでも体験できるのが飛騨古川まつり会館です。古川祭をハイビジョンの立体映像で再現しています。実物の古川祭屋台の展示や、コンピュータ制御によるからくり人形の実演、祭資料の展示や一位一刀彫、飛騨絵馬の伝統工芸の実演なども行っています。
飛騨古川まつり会館
 国の重要無形文化財の古川祭は4月19、20日に行われます。起し太鼓とともに裸と裸の男がぶつかり合い、春をまちわびたエネルギーが一気に噴き出す勇壮な裸祭りです。この時に飛騨の匠の技術の粋を集めた絢爛豪華な9台の「屋台」が曳き廻され、からくり人形や子供歌舞伎が演じられます。
起し太鼓の里
 起し太鼓会館は養蚕の製糸工場「吉城蚕糸」の敷地にあり、当時の繭蔵を資料館にしたものです。千貫神輿を中心に、世界各地の祭祀に関する民俗資料を展示しています。下呂の狛犬博物館の姉妹館でもあります。
起し太鼓会館
 飛騨の匠文化館は飛騨で育った木材を使い、飛騨の匠の技を受け継ぐ地元の大工たちによって建てられ、釘を1本も使っていない建物です。館内では各種の継ぎ手や木組みの見本展示、千鳥格子などを組んでみることのできる体験コーナーもあります。
飛騨の匠文化館



安国寺
あんこくじ
岐阜県高山市国府町西門前474
Tel 0577-72-2173


 太平山安国寺は臨済宗妙心寺派のお寺で、経蔵は唐様素木造りの建物で、飛騨唯一の国宝です。正平2年(1347)、足利尊氏・直義兄弟が瑞厳和尚を開山として、南北朝動乱での戦死者の慰霊のため、国ごとに一寺一塔を建立させたのが始まりと伝えられています。
 安国寺は文安2年(1445)には諸山となり、宝徳元年(1449)には十刹に数えられなど繁栄しました。永禄年間(1558-1570)には兵火により多くの堂宇が焼失し、寛永元年(1624)金森重頼が再建しています。
 国宝の経蔵は墨書によると、応永15年(1408)に願主超一によって建立されました。この墨書は大正11年(1922)の解体修理のときに発見されたものです。入母屋造り、こけら葺きで、外観は3間4方のようですが内部の1間4方の身舎(もや)の外側に1間の束を廻し裳階を付けています。
 唐様建築の経蔵の中には、中央に八角の輪蔵(回転式の経蔵)があります。八方に出ている木鼻を押すと、中心の軸で回転するようになっています。年代の明らかな輪蔵として日本最古のものです。経蔵は明治42年(1909)に国宝に指定されました。
 内部に納められている経本は中国の元の時代に、杭州の大晋寧寺で出版された一切経です。春日版大般若経とあわせ2208巻が岐阜県の文化財に指定されています。
 瑞巌和尚は観応元年(1350)に没し、その弟子本瑞が師の徳を慕い、明徳3年(1392)師の火葬された灰をねんどを混ぜて和尚の坐像を造立しました。この塑造瑞巌和尚坐像と木造須弥壇、像内納入経は国の重要文化財に指定されています。



宇津江四十八滝
うつえしじゅうはったき
岐阜県高山市国府町宇津江
Tel 0577-72-3948 四十八滝総合案内所


 宇津江四十八滝は宮川(神通川)の支流・宇津江川にあり、複数の滝が存在する渓谷です。岐阜県の天然記念物、全国自然百選、飛騨・美濃紅葉33選、県名水50選などに指定されている県立自然公園です。最上部の滝まで880m、ゆっくり歩いて1時間のハイキングコースで散策できます。
 江戸時代、美濃国の白心(はくしん)法師がこの地で修行して以来、霊場として知られるようになりました。安永8年(1779)に出された赤田臥牛の「打江観瀑記」以降この滝を訪れる人が多くなったそうです。宇津江四十八滝には大蛇と「よそ八」の伝説が残されています。
 孝行息子「よそ八」は川の奥の沼で大蛇に出会い妖気で寝込んでしまいました。大蛇は娘に身を変え、自分の血を使って看護し全快させましたが、そのために力がなくなり天に昇ることができなくなりました。「よそ八」は旅の行者に相談しました。
 行者は不動明王に断食願掛けを行い、21日間の祈祷の末、雷雨をさそい、大蛇は龍になって天に昇っていきました。後にこの話を聞いた弘法大師は、「行者は不動明王の化身。よそ八は四十八、つまり仏法四十八願である」とし、四十八滝と呼ばれるようになったそうです。



高山城跡(城山公園)
たかやまじょうせき(しろやまこうえん)
岐阜県高山市城山1
Tel 0577-32-3333 高山市観光課


 高山城跡は明治6年(1873)に臥牛山を整備して城山公園となりました。園内には約千本のソメイヨシノが植樹され、桜の名所になり、「飛騨・美濃さくら33選」に選ばれています。紅葉の名所でもあり、野鳥の観察もできます。「日本の歴史公園百選」「森林浴の森百選」にも選ばれています。
 高山城は、文安年間(1444-1449)に飛騨守護職・京極氏の被官・多賀出雲守徳言が天神山城(多賀山城)を築城したのが始まりと伝えられています。永正年間(1504-1521)に高山外記によって標高686.6mの城山山頂に城が築かれました。その後、三木自綱が高山へ進出し、飛騨を平定しました。
 天正13年(1585)、豊臣秀吉は越中富山・佐々成政を攻めました。そして越前大野城主・金森長近に佐々と同盟関係にあった三木自綱攻略を命じました。金森長近は松倉城を攻め落として飛騨を平定し、翌年、秀吉から飛騨3万3千石を与えられました。
  長近ははじめ鍋山城を居城としましたが、天正16年(1588)天神山城跡を利用して高山城を築城し、慶長5年(1600)までに本丸・二の丸を完成させました。本丸屋形は2層3階の天守で、御殿風城郭でした。築城と同時に城下町の整備も進め、三町を町人の町とし、東山に寺院を集めました。
 元禄5年(1692)、高山藩6代藩主・金森頼時の時、出羽国上山藩(山形県上山市)に金森氏は転封され、高山は天領となりました。加賀金沢藩主・前田綱紀が城番として管理していましたが、管理に莫大な費用がかかると幕府へ願い出て、元禄8年(1695)に廃城となりました。
 曲輪、堀、石垣、土塁などが残り、高山城跡として県の史跡に指定されています。三の丸にあった評定場が素玄寺の本堂に、月見殿が東山神明社の絵馬殿に、土蔵が高山陣屋の御蔵へ、二の丸にあった黄雲閣が雲龍寺の鐘楼門へ、城の一部が法華寺の本堂へそれぞれ移築されています。



日下部家住宅(日下部民藝館)
くさかべけじゅうたく(くさかべみんげいかん)
岐阜県高山市大新町1−52
Tel 0577-32-0072


 日下部家住宅は日下部家住宅は明治12年(1879)に建てられたもので、名工棟梁・川尻治助が江戸時代の建築を見事に再現したものといわれています。日下部家は幕府(代官所)の御用商人として栄えた商家で、屋号を「谷屋」といいました。
 嘉永5年(1851)には、役所の御用金を用立てする掛屋〈かけや〉をつとめ、後には両替屋を営みました。当時の邸宅は明治8年の大火で類焼し、再建されたのが現在の住宅です。明治時代に入り軒の高さや用材の規制が取れたため江戸時代に比べ軒が高く檜材をふんだんに使用されています。
 主屋は木造平屋建(1部2階建)、桁行17.4m、梁間17.3m、切妻造り、平入、桟瓦葺きです。梁と束柱の力強い木組みがすばらしく、10mある吹き抜けはなんとも美しい空間をつくりだしています。隣の吉島家住宅は女性的で、日下部住宅の大胆な構造は男性的といわれています。
 文庫倉は土蔵2階建、桁行10.2m、梁間5.8m、切妻造り、桟瓦葺きです。新倉は桁行9.5m、梁間7.6m、土蔵2階建、切妻造り、桟瓦葺きです。主屋、文庫倉、新倉は昭和41年(1966)、明治建築の民家として初めて国の重要文化財に指定されました。(板塀、門、火垣、板塀、板絵図が附指定)。以後、日下部民藝館として公開されています。



吉島家住宅
よしじまけじゅうたく
岐阜県高山市大新町1丁目51
0577-32-0038


 吉島家住宅は、飛騨の匠の誉れ高かった西田伊三郎によって明治40年(1907)に建てられました。明治38年(1908)に表側を残し類焼し、再建されたのが現在の建物です。隣には親類の日下部家の立派な住宅が並んでいます。吉島家の初代は文政6年(1823)に没した休兵衛でした。
 代々生糸、繭の売買、金融、酒造業を高山で営んだ豪商で、大名にもお金を貸していたそうです。主屋は木造平屋建(1部2階建)、桁行16.7m、梁間13.6m、切妻造り、平入、桟瓦葺きです。全体に立ちが比較的低く細部の表現も穏やかで、洗練された町家の手法をみせています。
 大黒柱を中心に、梁と束(梁に垂直の短い柱)によって構成される吹き抜けは、高窓からの光線をたくみに屋内に取り入れています。日下部家住宅が男性的な建物に対し、この吉島家住宅は建物のすみずみまで神経のゆきとどいた、繊細さと女性的な美しさのある建物といわれています。
 昭和52年(1977)来日したアメリカ現代建築界の巨匠・チャールズ・ムーアは「庭園では京都の苔寺(西芳寺)、建築では吉島家」をあげて絶賛したそうです。吉島家住宅は昭和41年(1966)に国の重要文化財に指定されています。
 吉島家住宅には、防火用の「火垣」が設けられています。火垣は板塀上部に立ち上がっている袖壁です。敷地の北側面に北西側からの延焼を防ぐ為設けられたもので延長21.7m、桟瓦葺きです。
吉島家火垣



飛騨高山の町並み
ひだたかやまのまちなみ
岐阜県高山市上三之町・上二之町
Tel 0577-32-3333 高山市観光課


 金森長近は天正16年(1588)より高山城の築城を開始し、同時に城山の麓に城下町の整備を進めました。三本の道路を通し、そこを町人の住む三町(さんまち)としたのです。また、寺院は京都を参考に東山へ集められ、城下町高山は形作られました。
 この三町と呼ばれる町割を基礎として、江戸から明治にかけて建てられた、洗練された意匠の商家町家が連なっています。特に上三之町付近は、狭い通りに沿って、往時の町並みが良く保存されています。
 三之町を中心とした一帯、南北約420m、東西約150mの範囲が「高山市三町」として重要伝統的建造物群保存地区に選定され、商家町として栄えた当時の様子をそのまま今に伝えています。
 有力な商家が数多くあり、高山は商家町として発展しましたが、その地理的な問題により近代化が遅れました。建物の建材や造作がしっかりしていたので建替えることがなく、伝統的建造物が林立する古い町並みが残ったのでした。
 三町の北半分である下之町に越中街道沿いの町並みを加えた範囲もまた、高山市下二之町大新町という名で平成16年(2004)に重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
 上三之町では3、4mほどの狭い通りの両側に、統一された意匠の町家が途切れなく連なっています。これらの町家の多くは、板葺の切妻屋根で平入で、軒高は低く抑えられています。これは高山陣屋より低くしているためです。
 その反面、内部は商家の繁栄を物語るように大変立派な作りです。これらの町家は、いずれも黒っぽい色彩で統一されています。これは柿渋にベンガラとすすを混ぜた塗料で着色されているためです。
 格子が多用されていて、一階部分では目の細かい千本格子や吹寄せ連子格子、または高山格子と呼ばれる升目状に組まれた格子となっています。二階部分は板連子や板格子がはめられています。飛騨の匠と称される飛騨大工の腕の結晶です。

  平田記念館は「打保屋」(うつぼや)の屋号でびんつけ油、ろうそく屋を家業として財をなした平田家の住宅です。主屋は明治時代に建てられた典型的な高山の町屋建築とされ、贅を尽した飛騨商人の旦那衆の暮らしぶりがうかがえます。12代にわたって愛蔵してきた美術品、調度品を江戸期の土蔵3棟で公開しています。
平田記念館



桜山八幡宮
さくらやまはちまんぐう
岐阜県高山市桜町178
Tel 0577-32-0240


 仁徳天皇の頃、飛騨山中に両面宿儺(りょうめんすくな)という顔が前後にある怪物が現われ、天皇の命に背いたため、難波根子武振熊命(なにわねこたけふるくまのみこと)に討伐を命じました。武振熊命が応神天皇の御霊を勧請し戦勝祈願したのが桜山八幡宮の始まりと伝えられています。
 大永年間(1521-1527)に京都の石清水八幡宮から分霊を勧請し合祀しました。その後戦乱の時代が続き一時荒廃しました。元和9年(1623)、高山藩2代藩主金森重頼が再興し、神領を寄進し、高山の安川以北の産土神に定め、神事を管理高山府の総鎮守府としました。
 金森氏が移封された後も、歴代代官、郡代の篤い崇敬を集め社運が隆盛しました。明治の神仏分離令により神社として独立し、明治4年(1871)郷社に指定されました。明治8年(1875)の大火で類焼し、秋葉社を除き灰燼に帰しましたが、明治33年(1900)に再建されています。
 例祭の「秋の高山祭」は金森氏が再興時に奉行祭として奉納したもので現在でも受け継がれて、大勢の人が訪れます。境内には巨石の手洗鉢や逆さ桐の灯籠などがあって名物になっています。
 桜山八幡宮の敷地内に屋台会館があります。高山祭の実物屋台を常設展示しています。 神楽台、鳳凰台、布袋台、金凰台など11台のうち4台の屋台が交替で展示されています。それぞれの屋台に、それぞれ固有の歴史があり、一位一刀彫の彫刻も見事です。これらは国指定重要有形文化財に指定されています。
屋台会館
 桜山日光館は屋台会館に付属しています。日光東照宮の本殿、陽明門、拝殿、鳥居など28の建造物を精巧な10分の1の模型で再現しています。33人の技術者が15年の歳月をかけて造ったそうです。
桜山日光館



高山陣屋
たかやまじんや
岐阜県高山市八軒町1ー5
Tel 0577-32-0643


 高山陣屋は、幕末には全国に60数ヵ所あった郡代・代官所の中で、当時の建物が全国で唯一残っている建物です。陣屋とは、江戸時代に郡代・代官が治政を行った場所で、役所や郡代(代官)役宅、御蔵などを総称して陣屋と呼んでいます。
 もともと高山陣屋は飛騨高山藩主の金森氏の下屋敷でした。元禄5年(1692)に幕府が飛騨を天領として、伊奈忠篤らによって代官所として用いられるようになりました。安永六年(1777)に飛騨代官から飛騨郡代に昇格し、当時4ヵ所あった郡代役所の中でも重要な直轄地となりました。
 郡代役所は玄関、御役所、大広間などの部分に文化13年(1816)に改築されたものが現存しています。また敷地内の土蔵は、慶長年間(1596-1615)に高山城内に建てられ、元禄8年(1695)に陣屋内に移築されたものです。
 建物の屋根は熨斗(のし)葺き、こけら葺き、石置長榑(いしおきながくれ)葺きと、雪に弱い瓦ではなく、板で葺かれています。蔵番長屋、郡代役宅などは古図をもとに復元されたものです。高山陣屋は昭和4年(1929)に国の史跡に指定されています。
 表門の手前では毎日朝市が催されており、高山市内においては宮川朝市と並び陣屋朝市として親しまれています。
陣屋朝市



飛騨国分寺
ひだこくぶんじ
岐阜県高山市総和町1ー83
Tel 0577-32-1395


 飛騨国分寺は天平13年(741)、聖武天皇の勅により、全国の国ごとに建てられた国分寺の一つです。天平勝宝9年(757)頃、行基菩薩により建立されたといわれています。弘仁10年(819)火災で焼失しましたがすぐに再建されたようです。
 天正13年(1585)、金森長近が松倉城にこもる三木自綱(よりつな)を攻めた時、兵火で多くの堂宇が焼失しました。その後の天正年間(1573-1592)に長近は千光寺の玄海和尚を招いて再建しました。現在の本堂はこの頃のものと推定されています。
 本尊の「薬師如来御像」は平安時代のもので、像高145.7cmです。また「聖観世音菩薩」は国分尼寺の本尊であったものといわれ、平安時代のもので、像高204cmです。いずれも国の重要文化財に指定されています。境内には下層の一部が高山城の門の一部を移したという鐘楼門や、太師堂、護摩堂などがあります。

 飛騨国分寺の本堂は桁行5間 梁間4間 1重入母屋造り、向拝1間、銅板葺き、総桧造りの室町時代の建物です。天正15年(1587)に川上郷から移築されたといわれています。柱など太くて荘重 内陣と外陣は厳重な格子で間仕切され、外陣の虹梁、蟇股などは古風な造りです。本堂は国の重要文化財に指定されています。
飛騨国分寺本堂
 飛騨国分寺の三重塔は寛政3年(1791)に暴風雨で倒壊し、文政3年(1820)に再建された三重塔です。天平の七重塔の跡に建てられています。飛騨地方唯一の三重塔で、全国の国分寺の中でも塔建築としてはここだけといわれています。桁行、梁間ともに4.24mで、高さ22m、屋根は鋼平板葺き(建立当初はこけら葺き)です。三重塔は岐阜県の重要文化財に指定されています。
飛騨国分寺三重塔
 飛騨国分寺本堂の前にある大イチョウは「乳イチョウ」とよばれ、推定樹齢1200年、幹周10m、高さ37mの大イチョウです。国の天然記念物に指定されています。
乳イチョウ



飛騨民俗村・飛騨の里
ひだみんぞくむら・ひだのさと
岐阜県高山市上岡本町1ー590
Tel 0577-34-4711 飛騨民俗村管理事務所


 飛騨民俗村・飛騨の里は豪雪に耐えてきた合掌造りや榑(くれ)葺き(木の幹を裂いた榑板で屋根を葺くやり方)の屋根など、飛騨の代表的な民家群が立ち並び、昔の農山村風景を形づくる民家の博物館です。
 また、飛騨の伝統産業である一位一刀彫、飛騨春慶塗、草木染めなどの伝承保存や、飛騨地方の民具なども展示されています。
 昭和30年代、御母衣ダムにより水没する荘川村の合掌造り民家の矢篦原家(やのはらけ)住宅が横浜市の三渓園に移築されました。
 旧若山家住宅も、御母衣ダムの建設にともなって昭和34年(1959)に高山市に移築された民家です。「飛騨民俗館」として一般公開され、飛騨の古い民家の保存の足がかりとなりました。
 昭和46年(1971)には「飛騨民俗村」がオープンしました。飛騨民俗村と飛騨の里を合体させたものでした。旧若山家は「飛騨民俗館」の最初の建物でしたが、平成11年(1999)に再移築され、その後、国の重要文化財に指定されました。
 他に旧田中家、旧吉真家 、 旧田口家が国の重要文化財に指定され、旧西岡家、旧新井家、旧富田家、旧道上家、旧前田家、旧中薮家、旧野首家が県の重要文化財に指定されています。
 民家の他、土蔵、和紙漉小屋、バッタリ(唐臼)小屋、車田があり、国の登録有形文化財に指定されている山岳資料館(旧高山測候所)などもあります。
 工芸集落内では、わら細工、刺し子、壁飾り、草木染め、さるぼぼ、版画の製作の体験教室や、わら細工、刺し子、機織り、ひのき笠、バンドリ(雨や雪用の蓑のことです。バンドリ「飛騨弁でムササビ」に由来しています)、ショウケ(ザルの一種)など民芸品作りの実演が行なわれています。

旧若山家住宅
 旧若山家住宅は、御母衣ダムの建設にともなって水没した荘川村下滝に建っていた民家です。昭和34年(1959)に高山市に移築され「飛騨民俗館」として一般公開されました。飛騨の古い民家・農山用具などの保存の足がかりとなり、後に作られた飛騨の里に平成8年(1996)から約3年かけて再移築されました。
旧若山家住宅
 宝暦年間(1751-1764)の初め頃の建立とみられ、桁行16.9m、梁間14.3m、合掌造り、茅葺きです。背面に1間半程の「ミンジャ、フロバ」などが出でいます。4階建てのうち、1階は居住用に使い、2階から上は養蚕のためのカイコの飼育場として活用されました。昭和52年(1977)に国の重要文化財に指定されています。
旧若山家住宅

旧田口家住宅
 旧田口家住宅は、飛騨と美濃との国境に位置する下呂市金山町卯野原にありました。代々名主を務めた大きな農家です。桁行25.2m、梁間13.3m、切妻造り、鉄板葺き(建築当時は榑葺き)です。家の前から右横へ雨戸の外に濡れ縁がまわっていて、雪深い地域の民家と比べると開放的な造りです。
旧田口家住宅
 旧田口家住宅は文化6年(1809)の建立です。規模が大きくて質が良く、大きな修繕などもなかったようで、江戸後期の上級農家の貴重な遺構です。昭和45年(1970)、飛騨民俗村に移築され、昭和52年(1977)に国の重要文化財に指定されています。
旧田口家住宅

旧田中家住宅
 旧田中家住宅は、高山市冬頭町にあった田舎(でんしゃ)だった建物です。田舎とは、田畑の管理や年貢の徴収、農産物の作納状況などを主人に代わって行った所で作業所・休憩所のような場所でした。建てられたのは江戸時代中期ごろです。
旧田中家住宅
 桁行12.1m、梁間10.9m、切妻造り、榑葺き(板葺き)です。屋根は勾配が緩やかで、榑板の上には石が置かれています。東面に一間の庇(ひさし)がついています。一之町で薬種商を営む「田中屋」の建物で、国学者田中大秀の実家です。昭和46年(1971)に国の重要文化財に指定されています。
旧田中家住宅

旧吉真家住宅
 旧吉真(よしざね)家住宅は、桁行13.9m、梁間9.4m、入母屋造り、茅葺きの2階建です。飛騨市河合町角川にあったものを移築しています。安政5年(1858)の角川地震(飛越地震)にも耐えた頑丈な造りになっています。マグニチュード7をこえた角川地震は全壊家屋378軒、半壊497軒、死者207名という大規模なものでした。
旧吉真家住宅
 豪雪地帯ならではのどっしりとした土台や太い柱や梁、桁などで組まれています。なかでも左右側面の四隅などに立つ柱は、上部が二股になった「むかい柱(のぞき柱)」と呼ばれ、全国でも飛騨の一部だけに見られる地域色の強いものです。昭和52年(1977)に国の重要文化財に指定されています。
旧吉真家住宅



飛騨高山美術館
ひだたかやまびじゅつかん
岐阜県高山市上岡本町1−124−1
Tel 0577-35-3535


 飛騨高山美術館は平成9年(1997)にオープンしたガラス工芸作品と家具を展示する私立の美術館です。小高い丘にあり、高山の町並みや北アルプスを見渡すことができます。
 16世紀から20世紀の世界中から収集したガラス工芸と、アール・ヌーヴォー、アール・デコのガラス工芸品、19世紀末の家具や照明器具などを収蔵展示しています。



郡上八幡城
ぐじょうはちまんじょう
岐阜県郡上市八幡町柳町一の平
Tel 0575-67-1819 郡上八幡産業振興公社


 郡上八幡城は吉田川、小駄良川を自然の濠とし、要害の標高354mの八幡山山頂に建てられています。現在の城は、昭和8年(1933)に建立された模擬天守閣です。天守台跡に大垣城をベースに4層5階の天守閣・隅櫓・高塀が木造建築で再建されています。
 永禄2年(1559)、千葉氏の末裔・遠藤盛数によって砦が築かれたのが郡上八幡城のはじまりです。その後盛数の長男慶隆が城主となりました。本能寺の変後羽柴秀吉と対立する織田信雄に通じていた疑いで転封され、稲葉貞通が城主となり、天守や二の丸などが建造されました。
 関が原の役後、西軍についた稲葉氏の守る八幡城を、徳川に味方した遠藤慶隆が、娘婿の飛騨高山城主・金森可重と攻めました。後に和議が結ばれ、貞通は豊後臼杵に転封され、慶隆が2万7千石で郡上八幡城主に返り咲きました。
 寛文7年(1667)3代藩主・遠藤常友の時、城郭と城下町を整備し幕府から城郭として格上げされました。5代藩主・常久は7歳で世を去り、笠間より移封した井上正任が5万石で入城し、2代続きました。
 元禄10年(1697)、羽前上山(山形県上山市)より金森頼時が3万8千石で入封し、次ぎの金森頼錦の時に5年に渡る大一揆が勃発し改易となりました。丹後宮津より青山幸道が4万8千石で入り、青山家が7代続き、青山幸宜の時、明治を迎えました。
 廃藩置県により廃城となり、廃城の翌年、石垣のみを残し取り壊されました。現在は石垣が岐阜県史跡に指定され、天守閣は歴史資料館になっています。この天守も郡上市有形文化財に指定されています。

 本丸御殿の跡地には山内一豊とその妻・千代の銅像があります。賢妻の鑑といわれる「千代」は初代郡上八幡城主・遠藤盛数の末娘という説が有力です。山内一豊は関が原の戦いで徳川家康に味方し、土佐を与えられ、高知城を築きました。
山内一豊と千代の銅像
 ここには一基の浅井戸があり、「首洗いの井戸」または「血の井戸」と言い継がれています。慶長の合戦に際して討ち取られた寄せ手の名のある武士の首が洗い清められ、首実検に供されたといわれるものです。
首洗いの井戸



宗祇水
そうぎすい
岐阜県郡上市八幡町本町
Tel 0575-67-1808 郡上市観光課


 宗祇水は小駄良(こだら)川のほとりにある湧き水で、別名・白雲水ともよばれています。環境庁が選定した「日本名水百選」の第1号に指定されたことで有名になった湧水です。
 郡上八幡は長良川、吉田川、小駄良川、乙姫川が流れ、水が豊富なところです。宗祇水は、吉田川と小駄良川の合流点の近くにあり、水の神を祭る御堂の下から澄み切った水がこんこんと湧き出しています。
 宗祇水という名は、室町時代末期の連歌の宗匠・飯尾宗祇に由来しています。宗祇は郡上領主の東常縁に古今集の奥義を伝授してもらうために郡上を訪れ、宗祇水のほとりに草庵を建て、この清水を愛飲したそうです。
 文明3年(1471)、当時の2大歌人であった東常縁と宗祇はこの泉のほとりで別れを惜しみ2首の和歌を残しています。
  「もみじ葉の 流るるたつた白雲の 花のみよし   野思ひ忘るな   常縁」
 「三年ごし 心をつくす思ひ川 春立つ沢に湧き出  づるかな   宗祇」



慈恩寺
じおんじ
岐阜県郡上市八幡町島谷339
Tel 0575-65-2711


 鐘山慈恩寺は臨済宗妙心寺派のお寺で、元文3年(1738)に護国の号を下賜されたので、慈恩護国禅寺と称しています。慶長11年(1606)郡上八幡城主・遠藤慶隆が開基となり、京都妙心寺の定慧円明を勤請開山として、その十徹の一人・半山紹碩禅師を迎え、釈迦如来を本堂とし創建されました。
 慈恩寺は遠藤家の菩提所となり繁栄しましたが、元和8年(1621)の山火事の類焼で全焼しました。寛永8年(1631)、青蓮院一品法親王筆による慈恩護国禅寺の勅額を賜り、再建されました。
 元禄13年(1700)、高山城主だった金森氏が移封になり、慈恩寺は金森家香花所となりました。その後、堂宇が建立して堂々たる禅寺の威容となりましたが、明治の廃仏毀釈で困窮する状態になりました。
 明治26年(1893)、未曾有の豪雨があり、裏山が崩れて土砂に埋まり、20余人の死者が出て、慈恩寺崩れと呼ばれる大災害が起こりました。明治29年(1896)には本堂が再建されました。庭は池泉回遊式の禅宗庭園でこの地方随一といわれています。



郡上八幡博覧館
ぐじょうはちまんはくらんかん
岐阜県郡上市八幡町殿町50
Tel 0575-65-3215


 郡上八幡博覧館は大正9年(1920)に建てられた旧税務署を、当時の外観はそのままに利用した、現代とレトロが融合したミュージアムです。
 郡上八幡博覧館の中は、八幡町にまつわる事柄を「水」「歴史」「わざ」「郡上おどり」のコーナーに分けて紹介しています。郡上おどりコーナーでは、1日4回(11時、13時、14時、15時)の郡上おどり実演を行っています。郡上おどりは7月中旬から9月下旬にかけて32夜に渡って踊られます。
 また、伝統工芸の郡上つむぎ、郡上本染めなどの資料や作品なども展示されています。最初に訪ねれば郡上八幡の楽しみが一見で分かるところです。



郡上八幡旧庁舎記念館
岐阜県郡上市八幡町島谷520−1
Tel 0575-67-1819


 郡上八幡旧庁舎記念館は町の中心新橋のたもとにあり、郡上八幡を訪れる観光客の休息、便宜を図る施設です。観光アドバイスをしてくれるインフォメーションや無料休憩サロン、郡上おどリ伝承のホール、レンタサイクル、地元食材の食事処と特産品販売コーナーもあります。
 郡上八幡旧庁舎記念館は昭和11年(1936)に建てられた木造2階建て、床面積は約800平方mの洋風建築です。外壁は板張りに縦長の端正な窓、屋根組みは当時最新の技術であったトラス工法が用いられています。平成6年(1994)まで八幡町役場として使われていたこの建物は、平成10年(1998)に国の登録文化財に指定されています。平成11年(1999)に「郡上八幡旧庁舎記念館」としてリニューアルオープンしました。
 郡上は古くから養蚕が盛んで、明治時代八幡町内には12の製糸工場があったそうです。八幡町役場が建つ前のこの地には、開祥社という製糸会社がありました。吉野川の水を利用し、大きな水車によって動力をとっていたそうです。



郡上八幡の町並み
ぐじょうはちまんのまちなみ
岐阜県郡上市八幡町本町
Tel 0575-67-1808 郡上市観光課


 八幡町柳町・八幡町職人町・八幡町鍛冶屋町には古い町並みが残されています。「袖うだつ」を持つ家屋がずらりと並ぶ様は時代が違うと思えるほどです。しかし、それらのほとんどが大正時代に町を焼き尽くした大火の後で建て換えられたものです。
 間口が3間から3間半の京都に似た間口は狭く奥に深い造りです。軒先にはほとばしるように流れる水路があります。 職人町の全ての家の軒先には防火用のバケツが吊り下げられています。

 斎藤美術館の主屋の建物は国の登録文化財に指定されています。代々茶人を輩出してきた齋藤家が、長年にわたり収集してきたコレクションを所蔵、展示しています。江戸時代から約270年かけて集められたもので、書画、茶道具、掛軸、香炉などの美術品から生活雑器まで幅広く及んでいます。
斎藤美術館
 郡上八幡楽藝館は登録有形文化財に指定された木造2階建て、トラス組の漆喰壁仕上げの洋館風建物です。元は林療院という明治時代からある民間の病院でした。現在は画廊、展示室、民俗資料室、林療院記念室などがある郡上八幡楽藝館として生まれ変わっています。
郡上八幡楽藝館



那比新宮神社
なびしんぐうじんじゃ
岐阜県郡上市八幡町那比6594ー1
Tel 0575-63-2544


 那比新宮神社は、新宮神社ともいわれ、高賀山を囲む高賀六社の一社です。近くにある本宮とともに、天暦年間(947-956)瓢ケ岳(ふくべがたけ)の鬼退治に来たという藤原高光が創建したと伝えられています。
 社伝によると、この地に妖怪さるとらへびが住み付き、村人に危害を加えているのを聞いた朝廷が、藤原高光をこの地に派遣して、妖怪を退治したそうです。この時、高賀山大本神宮大行事神社(現・高賀神社)を再建し、七昼夜妖怪退治の祈願をしたそうです。
 その後、高賀山麓の六ヶ所に神社(高賀六社)を建立したとされています。高賀神社、本宮神社、星宮神社、瀧神社、金峰神社、そしてこの那比新宮神社もこの高賀六社の中の一つとでした。
 平安時代後期以降は高賀山巌屋(いわおや)新宮といい、神体が仏像(金銅宝冠虚空蔵菩薩坐像)で、神仏習合により独自の信仰形態をとっていました。七堂伽藍も整い、別当社家40、末寺末社の数も85を数えたという由緒と格式を備えた神社でした。
 明治時代の廃仏毀釈の際には、村人たちが寺にあった仏像、仏具などを自宅に隠して守ったため、金銅宝冠虚空蔵菩薩坐像や247面もの懸仏(かけぼとけ)や、数々の貴重な文化財が残され、国の重要文化財に指定され、今も神社に保存されています。
  他にも、金銅地蔵菩薩坐像(平安時代後期)、金銅大錫杖頭(南北朝時代)、銅錫杖頭(鎌倉時代)、鰐口 文永5年銘(1268)、鉄鰐口(南北朝時代)、梵鐘 観応3年銘(1352)などが国の重要文化財に指定されています。
 那比新宮神社境内の杉は樹齢300年以上と推測されています。境内林全体は「那比新宮神社社叢」として、昭和37年(1962)に岐阜県指定天然記念物に指定されています。
那比新宮神社社叢



星宮神社
ほしのみやじんじゃ
岐阜県郡上市美並町粥川高砂1252
Tel 0575-79-3440


 星宮神社は長良川支流にある粥川谷にあり、高賀山を囲む高賀六社の一社です。近くにある本宮とともに、天暦年間(947-956)瓢ケ岳(ふくべがたけ)の鬼退治に来たという藤原高光が創建したと伝えられています。
 この地に妖怪さるとらへびが住み付き、村人に危害を加えているのを聞いた朝廷が、藤原高光をこの地に派遣して、妖怪を退治したそうです。この時、高賀山大本神宮大行事神社(現・高賀神社)を再建し、七昼夜妖怪退治の祈願をしたそうです。
 その後、高賀山麓の六ヶ所に神社(高賀六社)を建立したとされています。高賀神社、本宮神社、那比新宮神社、瀧神社、金峰神社、そしてこの星宮神社もこの高賀六社の中の一つとでした。
 高賀六社は高賀山を主峰とした山(瓢ケ岳、今渕ケ岳、片知山など)の山麓にあり、高賀山を囲む6つの神社で、かつては六社めぐりという、6つの社を尾根伝いに一日で歩いて巡る苦行が盛んだったそうです。
 かつて別当寺であった粥川寺は、円空ゆかりの寺であり、雑役のかたわら経文や手習いを教えられた場所と伝えられています。粥川谷(矢納ケ渕)の水は岐阜県の名水50選に指定されています。また、「粥川ウナギ生息地」は大正13年(1924)に国の天然記念物に指定されています。
 伝説によると、藤原高光がこの辺りまできたときに、道がわからなくなってしまったそうです。粥川谷の鰻が正しい道を教え、無事さるとらへびを退治したということです。このため粥川地区の氏子の多くは、今でも鰻を口にしないそうです。また、粥川という名は藤原高光に義貴星という神が粥を施したことに由来しているそうです。
 星宮神社の祭神は明星天子で、眼病やぜんそくにご利益があるといわれています。平安時代後期以降は神仏習合により独自の信仰形態をとっていました。鎌倉時代から南北朝時代、高賀修験集団の中心地として最盛期を迎えました。本殿、拝殿、護摩堂、三重塔、宝蔵、鐘楼があり、12院あったそうです。現在の建物は、享保12年(1727)に再建された建物で、国重文指定の大般若経113巻を所蔵しています。


トップ アイコン旅と歴史のホームページへもどる トップ アイコン  日本のページへもどる    


直線上に配置