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平泉寺白山神社
へいせんじはくさんじんじゃ
福井県勝山市平泉寺町平泉寺56−63
Tel 0779-88-1591
 白山は富士山、立山とともに日本の三名山の一つです。白山は神々の宿る山として山岳信仰の対象となっていました。白山神社は養老年間(720年頃)泰澄(たいちょう)大師が創建した古社で平泉寺はその別当寺です。
 平泉寺は平安時代末期に比叡山延暦寺の末寺としてその勢力を強めてきました。その後、鎌倉・室町時代には、広大な9万石の寺領を有し48社、36堂、6千坊、僧兵8千人といわれるほど政治的・兵力的に黄金時代を迎えました。
 隆盛を誇った平泉寺でしたが一向一揆により一度壊滅させられました。その後桃山から江戸時代に復興され、明治の神仏分離令により神社の方のみ残ったのです。


旧玄成院庭園
 旧玄成院(賢聖院)はもと白山の別当の住んでいたところです。建物は安永7年(1778)に建立たそうです。
 この庭園は室町末期の細川高国の作庭、鮮苔に囲まれ、曲水庭園の様式が取り入れられています。文部省指定名勝にされています。


御手洗池
みたらしいけ
 泰澄大師が養老元年(717)白山登拝の途中この林泉を見つけたそうです。泉の中の影向岩(ようごういわ)に現れた大神から「神明遊止の地なり」という告げを受けたためここに社を建てて白山の神を奉齋されたと伝えられています。
御手洗池
 神泉は今も湧き出ているそうです。平安時代平泉寺は平清水とも呼称されていて寺の名の由来はここからきているのだそうです。
 御手洗池の東には神木である三叉杉がそびえたっています。泰澄大師が植えたものとされています。幹は途中から3本に分かれ白山三社をかたどる形になっているそうです。
 左の鳥居は日本で一番古いそうです。
 平泉寺の僧兵は後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒に呼応して大野郡牛ヶ原の地頭を攻め滅ぼしたそうです。また平泉寺出身の三光坊は能面師の祖とされ有名です。


拝殿
 源義経ゆかりの平泉寺白山神社の拝殿は、天正2年(1574)兵火にかかって焼失するまで、正面45間というわが国最大の規模だったそうです。左右に残る巨大な礎石が規模の雄大さを物語っています。
拝殿
 正面入口にかかる「中宮平泉寺」の額は一品天眞親王の筆です。拝殿内の絵馬は越前藩主松平家以下の奉納で桃山以降の逸品です。
拝殿


本殿
 平泉寺白山神社の御本社(本殿)です。寛政7年(1795)福井藩主松平重富によって再建されたものです。総欅の入母屋造で正面に千鳥破風をつけています。そして前のひさし部分の向拝を唐破風としています。
本殿
 昇り龍、降り龍の丸彫、壁面の浮彫も秀逸でこの地方にはめずらしい華麗な建築です。御本社を中心に右に別山社、左に越南知社(おおなむちしゃ)を配しているのは白山三山のそれぞれの神を祀っているからだそうです。
本殿
 今は失われていますが、中世から近世には金剱社(かなつるぎしゃ)と加宝社(かほうしゃ)もあり、5社が整然と建ち並ぶさまは壮観であったと思われます。
本殿
 源義経が兄頼朝に追われ奥州平泉に落ちのびる途中この白山平泉寺に詣でたことが「義経記」に書かれています。
本殿


納経所
 納経所です。越前ではここにしかありません。平安の頃より66部といって滅罪の経典である法華経を写経して、その一部を日本66ヶ所の神社に納めながら諸国を巡礼したそうです。
納経所
 境内にある結(むすび)神社の傍らには「天下泰平 日月晴明」「大乗妙典六十六部廻國供養塔」と刻した石碑も建っています。
白山禅定道平泉寺登拝口


三ノ宮
 ここから本殿を右手に苔のじゅうたんをもう少し登ると安産祈願の三ノ宮があります。この建物は明治22年(1889)の改築だそうです。
三ノ宮
 三ノ宮は安産の守護神として信仰が厚いところでした。ここ白山平泉寺では昔から安産のお守りとして岩田帯を領布しているそうです。
三ノ宮


楠木正成墓塔
 楠木正成の墓塔です。延元年間の建立だといわれています。周囲の石柵と参道は寛文8年(1668)越前藩主松平光通公が奉納したものだそうです。白山平泉寺は醍醐天皇の建武の中興に際して、北条氏の一族を大野郡牛ヶ原に攻め滅ぼしたりして、官軍との関係が密接でした。
楠木正成墓塔
 楠木正成の甥恵秀律師(えしゅうりつし)は平泉寺宗徒の一人だったそうです。楠木正成は後醍醐天皇のため足利尊氏に立ち向かいました。延元元年(1336)わずか数百名で足利の大軍勢を迎え討つため兵庫に出陣し奮戦しました。
楠木正成墓塔
 延元元年(1336)恵秀律師がここの三之宮に参詣していると夢に大楠公が騎馬姿で現れたそうです。やがて大楠公が湊川で戦死したことを知りその場所に五重の石塔を立てて菩提を弔ったのだそうです。
 芭蕉句碑

「うらやまし 
  浮き世の 北の 山桜」
 凡河内躬恒は白山について、次のように詠んでいます。
 よそにのみこひやわたらん白山の
 雪みるへくもあらぬ我身は



勝山城
かつやまじょう
福井県勝山市平泉寺町平泉寺85−26−1
Tel 0779-88-6200
 勝山市内を一望できる勝山城は、平成4年に完成した5層6階の天守閣で57.8mと日本一の高さを誇っています。越前大仏を建立したタクシー王多田清氏が造ったものです。博物館として見た方が良さそうです。
 本当の勝山城は、現在の勝山市役所付近一帯に建っていたそうです。天正8年(1580)一向一揆を壊滅させた柴田義宣の養子の柴田勝安が袋田に築城しました。この時に地名も勝山と改名したそうです。
 天正11年(1583)柴田勝家は羽柴秀吉に破れ滅亡しました。城は丹波長秀の家臣成田重政がしばらく居城し、後に長谷川秀一が領しましたが、後に廃城となったそうです。



越前大仏
えちぜんだいぶつ
福井県勝山市片瀬50−1−1
Tel 0779-87-3300
 昭和62年(1987)5月に落慶した大師山清大寺にある越前大仏は、身の丈17mもあります。勝山市の名誉市民である多田清氏が、先祖の眠るこの地に建立した寺だそうです。勝山城も個人で建て、よほどタクシーで儲けたのでしょう。

 大仏殿内の越前大仏は、奈良の大仏を上回り、その左右に4体の脇侍仏、壁面には12811体の諸仏が安置されています。

 境内には高さ75mの日本一高い五重塔も配置されています。大仏は中国河南省洛陽市の郊外にある龍門石窟の竜門奉先寺遮那仏座像をモデルに造られたものだそうです。

 龍門石窟は中国三大石窟の一つで北魏鮮卑族が494年に洛陽に遷都してからの中心的な石窟です。

 明治時代、伊藤忠太や岡倉天心がこの龍門石窟の賓陽洞を見学し法隆寺の釈迦三尊の源流と認識したといわれています。

 竜門奉先寺洞の遮那仏は初唐期に造られたそうです。遮那仏は華厳経の教主で、統一することができた唐の国家鎮護を願って作られたようです。遮那仏には則天武皇の面影があるといわれています。



勝山市図書館からくり時計
かつやましとしょかん
福井県勝山市昭和町1−7−28
Tel 0779-88-6000
 勝山市立図書館は雪国の山小屋をイメージした建物です。正面入口上部に、からくり時計が設置されています。 勝山市の300年の伝統をもつ「左義長祭り」を演じる人形達が、毎日5回登場します。
 この祭りは五穀豊穣を祈願する火祭りで毎年2月の最終の土、日曜日に行われるそうです。三味線、鉦、笛の音に合わせて女物の長襦袢を着た男衆によって太鼓囃子が繰り広げられるそうです。



興行寺
こうぎょうじ
福井県吉田郡永平寺町藤巻34−2
 興行寺は本願寺の末寺です。本願寺第5代宋主綽如上人の三男法印権大僧都周覚玄真が開きました。今より約550年前の創立ということです。

 周覚玄真は応永18年(1411)巧如上人より閣号を賜ひ大谷山華蔵閣を志比の庄大谷に開いたそうです。

 孫の蓮助が三代目の住持となり、浄土真宗を興した蓮如上人の息女を嫁にもらったそうです。そして比叡山の弾圧により越前に移り、吉崎で布教する上人を支えたのでした。
 上人中興の大業を補佐したことから、上人より興行寺の号を賜わったということです。真宗未来館ミュージアム「華の蔵」が昭和63年(1988)にオープンしています。



吉峰寺
きっぽうじ
福井県吉田郡永平寺町吉峰35−2
Tel 0776-64-2536
 吉峰寺は道元禅師が永平寺を開く前の年に掛錫(かしゃく)されたお寺です。つまり僧堂に入ることを許された寺だったのです。吉峰寺は吉峰古寺とか吉嶺寺ともいわれていたそうです。

 山深く駐車場からの参道も険しく九十九折りで山へ登ります。元旦にお参りする人が多いようですが想像できないくらい厳しいところです。道元が書いた正法眼蔵の梅華の巻にも「深雪三尺大地漫々」と記しているように昔も雪の深いところだったようです。

 道元は正治2年(1200)に京都で生まれ、貞応2年(1223)宋に渡り、天童山景徳寺において如浄禅師のもとで悟りを開きました。安貞元年(1227)に帰国後、京都深草興聖寺で曹洞宗の弘布に努めました。

 寛元元年(1243)越前志比庄地頭の波多野義重に薦められてこの吉峰寺にきたのです。この寺は白山信仰に関連する天台寺院で道元はここでひと冬を過ごしました。翌年永平寺の前身である大佛寺に移錫するまでの間に、正法眼蔵の多くの巻を示衆しました。

 吉峰寺はその後荒廃したそうです。明治36年(1903)田中佛心和尚が霊跡を振興し諸堂を再建し今に至っているそうです。



永平寺
えいへいじ
福井県吉田郡永平寺町志比5−15
Tel 0776-63-3102
 吉祥山永平寺は横浜総持寺と共に曹洞宗の大本山です。高祖道元禅師が吉峰寺を後にして寛元2年(1244)傘松峰大仏寺を開き、寛元4年に永平寺と改めました。末寺は1万5千寺を有しているそうです。檀信徒は800万人だそうです。
 約760年の伝統を誇る永平寺には、78代住職、宮崎奕保禅師をはじめとする二百余名の修行僧が日夜修行に励んでいます。広大な敷地内には、山門、仏殿、法堂、僧堂、大庫院、浴室、東司などの「七堂伽藍」をはじめ、大小70あまりの堂宇がひっそりと佇んでいます。
 寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢明帝の時の元号「永平」をとっています。これには「永久の和平」という意味があります。
 暦応3年(1340)には兵火で伽藍が焼失、応仁の乱の最中の文明5年(1473)でも焼失しました。
 応安5年(1372)後円融天皇より「日本曹洞第一道場」の勅額・綸旨を受けました。天正2年(1574)には一向一揆により焼失させられています。翌年には織田信長によって禁制を下されました。元和元年(1615)徳川幕府より法度が出され總持寺とならび大本山となりました。
 永平寺は、越前にある本山の意より越山(えつさん)とも呼ばれています。本尊は釈迦牟尼仏です。曹洞宗の念仏は、浄土真宗などの他力本願の念仏とは違って、釈迦牟尼仏に帰依するという意味の本唱名です。
 古来禅宗では伽藍の配置を人体図で説明しています。頭が法堂(はっとう)、心臓が仏殿(ぶつでん)、左手が庫院(くいん)、右手が僧堂(そうどう)、腰が山門(さんもん)、左足が浴室(よくしつ)、右足が東司(とうす)だそうです。


吉祥閣
きちじょうかく
 吉祥閣は、昭和46年(1971)に建てられた地上4階、地下1階、920坪の鉄筋コンクリート造りの建物です。檀信徒のための道場となっているようです。
 研修道場の大広間で、僧侶から見学に際し説明されます。左側通行や通路以外には立ち入らないことなど正座して聞きました。しびれた足をさすりながらここから出発します。


傘松閣
さんしょうかく
 傘松閣は、平成6年(1994)に建てられた鉄筋2階建の建物です。大広間の天井には65年ぶりに修復された天井絵がそのまま復元され、別名「絵天井の間」とも呼ばれています。天井の絵は、昭和5年(1930)当時、文展、帝展に入選した方々によって描かれています。


廻廊
 永平寺は山の斜面につくられた道場であるため、七堂伽藍は斜面をはい上がるように建てられています。七堂伽藍は、全て廻廊でつながれています。
 大小70もの廻廊は永平寺の大きな特色でもあります。滝行や水行などの場はありませんが生活することすべてがみな禅であるという道元禅師の教えで、厳しい戒律を守り、ひたすら仏の道を歩み続ける僧の姿がありました。


山門
さんもん
 永平寺の表玄関の山門は、永平寺山内では最も古い建物で、寛延2年(1749)に再建された中国唐風総欅造りの禅宗様重層楼門です。2階には、釈迦牟尼仏を中央に、十六羅漢像、五百羅漢像が安置されています。
 山門は三解脱門(さんげだつもん)とも称され、仏の世界に入る関門です。中に入ると両側に仏法の守護神である四天王が祀られています。東側には東方の守護神「持国天(じこくてん)」と北方の「多聞天(たもんてん)」が立っています。
 西側には西方の守護神「広目天(こうもくてん」と南方の「増長天(ぞうちょうてん)」が立っていて外部から進入する悪魔を追い払ってくれます。また上には「日本曹洞第一道場」の勅額が掲げられています。


鐘楼堂
しょうろうどう
 山門前にある鐘楼堂は昭和38年(1963)の改築で除夜の鐘で有名な大梵鐘は口径1.5メートル、高さ3メートル、重さ5トンの巨鐘です。左に見える五代杉は永平寺中興の祖、5世義雲禅師が植えたので「五代杉」と呼ばれています。


僧堂
そうどう
 仏殿の左側、大庫院に対している建物が僧堂です。間口14間、奥行10間の僧堂は明治35年(1902)道元禅師650回大遠忌を記念して改築されたものです。僧堂は別名、雲堂(うんどう)とか選仏場(せんぶつじょう)等とも呼ばれ、修行の根本となる堂です。
 この堂で修行僧が教えに従い坐禅、打眠(だみん)、食事をするそうです。堂は内部中央に智慧の象徴、文殊菩薩(聖僧)を祀っています。
 僧堂入口には永平寺50世玄透禅師(げんとうぜんじ)揮毫の「雲堂(うんどう)」という額や「王三味(おうざんまい)」という額が掲げられています。


仏殿
ぶつでん
 明治35年(1902)道元禅師650回大遠忌を記念して改築された総欅(けやき)造りの建物です。中国宋代様式の二重屋根と床は石畳となった大変美しい伽藍です。七堂伽藍の中心に配されています。
 仏殿は寺院の本堂にあたる建物です。須弥壇(しゅみだん)と呼ばれる壇の上には本尊のお釈迦様である釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)が祀られています。
 釈迦牟尼仏の隣には右に未来弥勒仏(みろくぶつ)、左側に過去阿弥陀仏(あみだぶつ)の三世如来を祀っています。三体の仏像は過去・現在・未来の三世を現わしているのだそうです。国土安穏と万民和楽を祝祷する場です。
 仏殿は別名「覚王宝殿(かくおうほうでん)」あるいは「三世如来殿(さんせにょらいでん)」とも呼ばれています。仏殿の下層眉間(みけん)には永平寺50世玄透禅師(げんとうぜんじ)揮毫の「覚王宝殿」という額が掲げられています。


承陽門
じょうようもん
 承陽殿へ入る正門で「一天門(いってんもん)」とか「承陽門」、「承陽中雀門」と呼ばれ、この奥に承陽殿があります。
 承陽門正面に「照第一天」(だいいつてんをてらす)の竪額が掲げられています。


承陽殿
じょうようでん
 境内の北西隅の幽寂の地にある承陽殿は下壇の拝所と上壇の内陣に分かれています。正面「承陽」という額は明治天皇より下賜(かし)されたものだそうです。拝殿入り口の「承陽殿」という額は久我道久の揮毫です。
 承陽殿は明治14年(1881)の改築で、永平寺の開山道元禅師(承陽大師)の御開山御真廟(ごかいさんごしんびょう)(お墓)であり、曹洞宗の聖地とでもいうべき場所です。
 土蔵造りの本殿(間口3間、奥行4間)と拝殿(間口6間、奥行7間)とに区別されています。正面左には尽力した越前志比庄地頭の波多野義重の像も安置しているそうです。


法堂
はっとう
 法堂は住職が須弥壇(しゅみだん)上に登って修行僧に説法をする場所だそうです。天保14年(1843)永平寺57世載庵禹隣禅師(さいあんうりんぜんじ)の改築です。
 法堂は一般のお寺では本堂に相当します。正面32.2m、側面24.7m、380畳敷と、七堂伽藍の中では最大規模の壮大な建物です。客殿を兼ね、朝課(おつとめ)や法要儀式も行なわれているそうです。
 須弥壇の中央には藤原時代作の聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)を祀っています。中央階段の左右には阿吽(あうん)の白獅子(しろじし)が置かれています。
 永平寺の伽藍で一番高いところにあるので四季折々の美しい景色が眺められます。法堂眉間に有栖川宮幟仁親王(ありすがのみやたかひとしんのう)筆による「法王法(ほうおうほう)」という額が掲げられています。
 これは世尊一日しん座、文殊白鎚して云く、諦観法王法王法如是という故事からきています。仏の無言の説法を文殊が証明白追(びゃくつい)した時の語、「諦観法王法(たいかんほうおうほう)法王法如是(ほうおうほうにょぜ)」によるものです。


大光明蔵
だいこうみょうぞう
 昭和5年(1930)に再建されたもので、総檜本造りで桃山時代の形式に準じた格式のある建物です。貫首の表方丈です。畳298枚の大広間で住持が公式に来山寺院や檀信徒と相見します。


妙高台
みょうこうだい
 大光明蔵の後ろにあります。法堂より通天廊を通って妙高台に行かれます。貫首の方丈にあたります。この建物は昭和55年の二祖弧雲懐奘禅師700回忌を記念して改築されたそうです。


浴室
よくしつ
 浴室は、僧堂、東司とともに三黙道場の一つです。私語の禁じられた修行道場で身体だけでなく心をも清浄にすることを念じて沐浴します。水印三昧で悟りを開いたといわれる跋陀婆羅菩薩(ばつだばらぼさつ)が祀られています。 


大庫院
だいくいん
 東側の回廊を登った所に在る建物が大庫院です。僧堂に対しています。昭和5年(1930)に改築され地下1階地上4階、延べ750余坪の豪壮な建築物です。一般の寺院でいう庫裡(くり)にあたります。 
 一階には仏祖供養の献膳や禅師や衆僧の食事を作る典座寮と呼ばれる台所があります。玄関の正面には足の速いことで有名な章駄尊天(いだそんてん)が祀られています。
 庫院の入口には永平寺50世玄透禅師(げんとうぜんじ)揮毫の「庫院(くいん)」という額があり、また中にはいると永平寺67世元峰禅師(げんぽうぜんじ)の筆になる「法喜禅悦(ほうきぜんえつ)」という額が掛けられています。


中雀門
ちゅうじゃくもん
 中雀門は、嘉永5年(1852)の新築で、山門と仏殿の間にあり、左右に続く廻廊は僧堂と庫院に通じています。永平寺山内で、最も優美な姿をしていると思います。
 中雀門は、仏殿と山門の一直線上に置かれ、仏殿への正門であり、南面しています。山門とともに県の文化財に指定されています。


祠堂殿
しどうでん
 祠堂殿は全国各地の末派寺院による檀信徒の入牌(にゅうはい)、納骨をする殿堂です。堂内の位牌壇には各都道府県別に分けられた多くの位牌が祀られています。昭和5年(1930)に新築されたもので、追善供養などの法要も行われます。


報恩塔
ほうおんとう
 報恩塔は納経塔ともいわれています。宮崎奕保(えきほ)禅師の発願により平成8年(1996)に建立された写経を納める塔です。


唐門
からもん
 参道の前方奧に見えるのが唐門です。勅使門とも呼ばれ、勅使を迎えるために備えられた門で日頃は扉を固く閉ざしています。天保10年(1839)の改築で、門扉には菊花の紋章が輝いています。豊かな彫刻が施されています。





大野市郷土歴史館
おおのしきょうどれきしかん
福井県大野市城町2−13
Tel 0779-66-0238
 大野市郷土歴史館は現在は柳廼社(やなぎのしゃ)境内にあります。明治15年(1882)福井地方裁判所大野支所として大野城の外堀に面して建てられた建物です。。
 昭和42年(1967)裁判所の移転改築に際し大野市はこの建物を譲りうけ、翌年移築させたものです。農耕、養蚕、紙すき、むしろ編道具、商家の道具、看板、衣食住の用具、消防の用具など展示しています。



越前大野城
えちぜんおおのじょう
福井県大野市城町3−109
 越前と美濃を結ぶ交通の要所であった大野の町の起源は、南北朝の初めごろ元弘年間(1332年前後)頃といわれています。大野城は大野市街の西のはずれにある海抜249mの亀山に建っているところから亀山城とも呼ばれています。
 大野城一帯は現在遊歩道が整備されていて亀山公園となっています。園内には約600本の桜があり名所になっています。大野城の南口には土井利忠を祀った柳廼社があります。
百間坂
 この柳廼社付近から城に通ずる道は「百間坂」といわれ、急な坂道です。明治時代より前は百間坂以外なかったので武士達はこの道で登城したそうです。
復元された搦手門
 天正元年(1573)朝倉氏の滅亡後、大野は一時は一向一揆によって一向宗徒の支配下となりました。天正3年(1575)織田信長は一向一揆を制圧するため、二度めの越前進攻に踏み切 りました。 
 その後、越前を平定した織田信長は軍功のあった金森長近に大野を治めさせました。当初、朝倉景鏡の居城だった戌山城に入りました。
金森長近像
 戌山城は交通の不便な場所にあったため大野盆地を見渡せる亀山に新城の築城を開始し、約4年かけ天正8年(1580)越前大野城を完成させたのでした。
 大野の城下も本格的に整備されました。南北に6筋、東西に6筋の通りで町割りをして碁盤の目のように整った城下町を形成させたのです。そして山側から武家屋敷、町家を配置して、その外側を囲むように寺町を置いたのでした。
 近長は茶器の収集家としても知られる文化人で千利休に師事していたそうです。城内には金森長近の正室であり濃姫の付き人でもあったお福の名前がついた池「お福池」があります。そこからは今も水が湧きだしているそうです。
お福池
 天正14年(1586)長近は飛騨高山へ転封となりました。青木秀以(ひでもち)を経て、信長の息子である信雄の長男織田秀雄が城主になりました。秀雄は関ヶ原の役で西軍に組したため除封になってしまいました。
 寛永元年(1624)結城秀康の三男である松平直政が5万石で入り、秀康の四男である松平直基、その弟の松平直良と入れ替わりました。直良の息子の松平直明が後を継ぎ、天和2年(1682)播磨明石へ移封になり土井利房が七代藩主になりました。
 土井利忠は桜田門外の変で殺害された大老井伊直弼の従兄にあたります。利忠は名君として知られています。藩政改革を行い、藩借財の整理をしました。藩校を設立して洋学の奨励もしました。
土井利忠像
 積極的な殖産興業も行ないました。洋式帆船「大野丸」を建造して、函館戦争では五稜郭で榎本武揚を破りました。その船で藩の物産を輸送させたのです。藩直営の販売店「大野屋」を大坂、箱館などに開設して4万石の小藩の名を全国に高らしめたのです。
 安永4年(1775)4月8日の大火で、本丸も含めた城郭や町屋の大部分を焼失してしまいました。寛政7年(1975)に再建されましたが、天守閣は再建されなかったため石垣だけの城となってしまいました。
 天守台の石垣は野面積み(のづらつみ)といわれるめずらしい積み方で石を横に寝かせて大きい石を奥の方に押し込んで積んでいくやり方です。自然石を加工せずに積んでいく天正以前の古い形式なのです。
武者登り
 天守に行く急な階段は「武者登り」といわれ石組みは、創建当時そのままで貴重なものだそうです。
 大野城は2層3階の大天守と2層2階の小天守で構成されています。創建当時は天守台には大天守、小天守と天狗書院が並ぶ連郭式天守が堂々と建っていたそうです。姫路城の模範になったともいわれています。
 明治の廃藩で城の建造物は取り壊されていましたが昭和43年(1968)に古い絵図面を元に現在の天守閣が復元されたということです。
 大野城へ通ずる遊歩道のまわりには大野市の木「ケヤキ」があります。



百間堀
ひゃっけんぼり
福井県大野市城町
 大野の旧市街地には、金森長近の建設当時の町割や道路割・用水路などがよく残されています。百間堀は城郭の周囲を巡っていた外堀で柳町に沿う34mが現在残されています。
 この旧大野城の外堀である百間堀は大野市の市指定史跡にもなっています。かつては湧水も豊富で、堀の深さも現在の倍近くあったそうです。



武家屋敷 旧内山家
ぶけやしき きゅううちやまけ
福井県大野市城町10−7
Tel 0779-65-6122
 武家屋敷旧内山家は大野藩家老・内山七郎右衛門良休と弟の隆佐良隆の生家を復元したものです。
 天保13年(1842)、大野藩主土井利忠は行き詰まった藩財政を立て直すため、「更始の令」と呼ばれる改革令を出しました。内山兄弟はこの藩政改革に尽力したのです。
 良休は藩営商店の「大野屋」を開設させました。銅山経営など経済面で手腕を発揮し、80年分といわれた藩の借財を20年で完済するなど藩財政を立て直したのです。万延元年(1860)家老になりました。
 良隆は洋式帆船「大野丸」の建造させ、蝦夷地や特産物流通を進め函館戦争でも活躍しました。



御清水
おしょうず
福井県大野市泉町
 天正年間(1584〜1591)、金森長近がこの大野に築城の際、城近くに40間四方の水たまりを設け、内濠を満たす水の源泉としたことが始まりとされています。
 古くは殿様のご用水としても用いられたことから、殿様清水とも呼ばれています。環境庁の名水百選にも選ばれています。
 飲料、炊事、洗濯用と目的に合わせて3つに分けられています。地元の人たちはここで野菜を洗ったり、洗濯をしたりしていました。
 夏は冷たく冬は暖かい御清水は「命の水」として暮らしに活かされてきたのです。大野は地下水が豊富で、市内のあちこちに湧水池があり地酒やそばがおいしいのです。



義景公園
よしかげこうえん
福井県大野市泉町10
 朝倉義景の墓所の隣にある公園です。義景は当初は延景と名乗りましたが室町幕府の第13代将軍の足利義輝より「義」の字を頂き義景と改名したのでした。



朝倉義景墓所
あさくらよしかげぼしょ
福井県大野市泉町10
 御清水からほど近いところに越前一乗谷5代城主朝倉義景の墓所があります。天正元年(1573)義景は織田信長に攻められて一乗谷の刀禰(とね)坂の戦いで大敗してしまいます。
 敗れた義景は大野に逃れました。信長と手を組んだ一族の朝倉景鏡が洞雲寺にいた義景を六坊賢松寺に誘い出し自害させたのでした。
 墓は寛政12年(1800)曹源寺境内に子孫によって建てられた五輪塔で文政5年(1822)にここに移転したものだそうです。近くには家族や家臣の墓もあります。
 「松雲院殿太球宗光大居士」というのが義景の法名です。弱冠13歳で、当主になった義景は文武に優れ、足利義昭を迎え、一乗谷の黄金時代を築きましたが最後は無念だったでしょう。



大野市歴史民俗資料館
おおのしれきしみんぞくしりょうかん
福井県大野市天神2−4
Tel 0779-65-5520
 大野市歴史民族資料館は、大野市の縄文時代から近代までの歴史資料を収集・保存・展示してあります。
 展示室の中央には、大野のシンボルとも言える藩船「大野丸」の1/10の模型と関係年表、関係資料等を展示してあります。万延元年(1860)樺太に大野藩が許可された土地は大野領と同じ大きさであったそうです。
 文久2年(1862)藩主利忠が引退し、自慢の大野丸は元治元年(1864)根室で座礁し沈没してしまいました。樺太の開拓もうまくいかず、明治元年(1868)新政府へ許可地の返上を上申しました。



七間朝市
しちけんあさいち
福井市大野市元町七間通り
 七間商店街は越前大野市街地のほぼ中央にあります。商店街の路上では、毎年春分の日から大晦日までの毎日、午前7時から11時半頃まで朝市が開かれます。七間朝市とよばれています。
 金森長近が城下を建設してまもなく始められたと伝えられているので七間朝市には400年余りの歴史があるそうです。生活に密着した朝市として、現代まで続いているのです。



九頭竜ダム
くずりゅうだむ
福井県大野市長野
 九頭竜川は、全長116kmの川で、その源は岐阜県との県境にある和泉村の油坂峠から発しています。九頭竜ダムは洪水調節と発電のために、九頭竜川上流に昭和42年(1968)に完成した日本第2の規模を誇るロックフィルダムです。
 九頭竜ダムに貯えられた水は大野市で真名川と合流します。福井県の穀倉地帯を潤し、福井市で足羽川、日野川と合流、三国町で日本海に注いでいます。
 九頭竜湖は九頭竜ダム建設によって出来た湖です。東西の長さは13km、堤の高さは128m、中間40m、堤の長さは355mです。貯水池面積890haは十和田湖とほぼ同じ大きさで近畿では1番、全国でも9番目の規模です。
 エメラルド色に静かに水を湛える湖は四季折々の大自然の風景を湖面に映し出してくれるそうです。ダム完成を記念して植えられた万本桜は桜の名所となり、雄大な変化に富んだ渓谷の紅葉も有名です。



一乗谷朝倉氏遺跡
いちじょうたにあさくらしいせき
福井県福井市城戸ノ内町
 福井市の南東約10キロ、一乗谷にある朝倉氏遺跡は、戦国時代に朝倉氏5代が103年間にわたって越前の国を支配した城下町跡です。戦国時代の城下町が現代によみがえっています。
 文明3年(1471)戦国大名朝倉孝景は応仁の乱で頭角を現し、守護斯波氏や守護代甲斐氏を追放、越前を押領し、守護職に就くと同時により軍事環境に適した一乗谷に本拠を移したのでした。
 朝倉氏は孝景、氏景、貞景、孝景、義景と続き越前を支配しました。京の文化を積極的にとり入れ北陸の小京都とも呼ぶべき城下町を築いたのです。
 弱冠13歳で、当主になった義景は文武に優れ、後に15代将軍になった足利義昭を迎え歓待し一乗谷は黄金時代を迎えました。近江・浅井長政と共に反信長の戦いを挑みましたが、刀禰(とね)坂の戦いで大敗してしまいました。
 敗れた義景は大野に逃れましたが、一族の朝倉景鏡の裏切りにあい自害してしまいました。一乗谷は 天正元年(1573)信長勢によって火を放たれ、城下は三日三晩燃えつづけ栄華の永い歴史を閉じたのでした。
 信長から越前を任された柴田勝家は国府を北ノ庄(現在の福井市中心部)に構えたので、一乗谷は長い間、歴史から忘れ去られていたのです。
 昭和42年(1967)に奈良国立文化財研究所の指導で本格的な発掘調査で当時の姿がよみがえりました。
 これによって、当時山の斜面に当主や妻子の館があったことが判明し武家屋敷・寺院・町屋・職人屋敷や道路に至るまで町並がほぼ完全な姿で発掘されたのです。
 約400年ぶりに当時の生活文化を物語る茶器、文具、火縄銃、札、職人の道具など150万点にも及ぶ貴重な遺産も発見されました。
 その極めて貴重な歴史的価値から昭和46年山城跡を含む延べ278ヘクタールが「特別史跡」に指定され、平成3年には遺跡内の南陽寺、湯殿、諏訪、朝倉義景館跡の4つの庭園が「特別名勝」に指定されました。
 朝倉館跡庭園などが一般公開されています。また当時の歴史文献を参考に復元した武家屋敷や商家なども再現されています。
 唐門(からもん)です。朝倉義景館跡の正面、濠に面して建っています。江戸時代中頃に再建されたこの門は5代朝倉義景の菩提を弔うために建てられた松雲院の寺門です。幅2.3メートルの向唐門形式で、質素な中にも堂々とした気品をたたえています。



一乗谷朝倉氏遺跡資料館
いちじょうたにあさくらしいせきしりょうかん
福井市波賀町
 福井駅から越美線に乗り一乗谷駅で下車すると駅の前方に一乗谷朝倉氏遺跡資料館が見えます。
  ここは一乗谷入口の安波賀というところです。平成16年(2004)の台風23号により線路は寸断されていました。資料館では一乗谷の発掘調査で出土した武具や生活用品、朝倉氏の館の模型など多くの資料を展示しています。



藤島神社
ふじしまじんじゃ
福井県福井市毛矢町3-8-12
 鎌倉から南北朝時代の有名な武将、新田義貞を祭る神社です。義貞が戦死したとされる燈明寺畷(とうみょうじなわて)の新田塚に福井17代藩主松平茂昭(もちあき)によって建てられていました。
 明治34年(1901)現在の足羽山中腹に移されました。新田義貞のほかその子、義興、義顕、義宗と弟の脇屋義助が祀られています。
 藤寿殿には義貞ゆかりの遺品や美術品を収蔵しています。明暦2年(1656)燈明寺畷の水田から出土したと伝わる四十二間筋冑鉢(しじゅうにけんすじかぶとばち)は神宝とされています。
 これは鉄製銀象眼胄(てつせいぎんぞうがんちゅう)とも呼ばれ新田義貞が使用したものと伝わっています。結城宗広公御書簡など、国の重要文化財も数多く所有しています。



足羽山公園
あすわやまこうえん
福井市足羽山公園
 藤島神社がある足羽山は標高116.8mで山全体が公園になっています。桜の名所百選にも選ばれ、春には3500本もの桜が咲き乱れます。6月中旬には園内の足羽山アジサイロードのアジサイが花を咲かせます。



福井市
ふくいし
 福井市は、福井県の県庁所在地です。戦国時代の武将柴田勝家の北ノ庄城から城下町として形成されました。江戸時代に福居、福井と地名を変えました。福井県庁は福井城天守閣のあった場所に建っています。
 明治22年(1889)市制執行され福井市となりました。当時の人口は4万人で全国で17番目で城下町としては大きい方だったようです。明治に入ってから京都などの技術を入れ織物工業が盛んなところです。



福井城址
ふくいじょうし
福井県福井市大手3
 福井城は慶長11年(1606)、徳川家康の次男・結城秀康が築城しました。以降270年間にわたり、福井藩主松平家の居城になりました。
 4層5階、高さ37mに及ぶ天守閣がありました。現在は石垣とそれを囲む堀だけが残っているだけです。城址は、本丸緑地として整備され、人々の憩いの場として親しまれています。
 結城秀康は幼名は於義丸といい天正2年(1574)徳川家康の次男として生まれました。兄・徳川信康が家康の命で自害したことから嫡男となりました。
 天正12年(1584)小牧長久手の戦いの後、豊臣秀吉の養子になり、養父と実父の1字ずつを取り「秀康」と名乗りました。天正18年(1590)秀康16歳の時、秀吉の意向で下総国結城城主の名門結城晴朝の元へ養子に出されました。
 関ヶ原の戦いの後、加賀藩への牽制の意味もあって福井68万石の初代藩主になりました。慶長6年(1601)5月、越前に入国した秀康は北ノ庄城の改修に着手しました。広大な城郭と五層の天守閣を建設し、九頭竜川から芝原上水を掘削して城下の飲料水を確保し、城下町の形成に努めたのでした。
結城秀康像
 慶長12年(1607)4月、病床に就いていた秀康は34歳の若さで不運な一生を終えました。その後は長男の忠直が継ぎました。これより松平姓になりました。忠直は乱行を尽し、豊後に配流となってしまいました。
 越後高田から、秀康の二男で、忠直の弟、松平忠昌が52万石で入封しました。この時地名を福井と改めたそうです。本丸跡には福の井という井戸がありこれが福井という地名になったそうです。
  忠昌の後は光通が継ぎました。松平光長の娘国姫を正室として迎えますが、国姫の母は秀忠の娘ということで側室の間の子、松平直堅を認めませんでした。直堅は危機を感じ、江戸に出奔。国姫は男子が生まれず、母と夫の板ばさみで自殺。光通もこれらの経緯を苦に、後を追って自殺しまったのです。
 遺言により後継は弟の松平昌親になりましたが早々に庶長兄の昌勝の子の甥の綱昌に家督を譲ってしまいます。綱昌は16歳と若年のうえ近臣を斬ったり、不審な点があったため領国を没収されてしまったということです。
 昌親が再び減封された25万石に藩主に返り咲き、綱吉の一字をもらって吉品となりました。
吉品は、嗣子に同じく兄昌勝の六男を迎え、松平吉邦としたのでした。次ぎの宗将も昌勝の三男でした。結城秀康の血筋は次ぎの宗矩で絶えました。福井藩は藩主に恵まれず、幕府から意図的に力を弱められた感があります。



中央公園
ちゅうおうこうえん
福井市大手3
 本丸跡西の福井城址一帯を占める公園です。敷地1万7千平方mと広大で年末には噴水広場を中心に、街路樹や福井の冬の風物詩でもある雪吊を約1万8千球の電球でライトアップさせています。
 園内には震災記念碑が建てられています。昭和23年(1948)に発生した福井地震は短期間2度にわたり市のほぼ全域が壊滅的被害を受けました。気象庁が震度7を設定するきっかけともなった大地震でした。どん底から復興し、不死鳥のまちを宣言しています。
 また、中央公園には岡倉天心の銅像が建てられています。明治22年、東京美術学校校長となります。横山大観、菱田春草らに大きな影響を与えた人物です。
 岡倉天心は福井藩士岡倉勘右衛門の次男として横浜に生まれました。彼は急激な西洋化の荒波が押し寄せた明治という時代の中で、日本の伝統美術の優れた価値を認め、美術行政家、美術運動家として近代日本美術の発展に大きな功績を残しました。
 天心はフェノロサと協力して、日本の古美術の保存と研究に努めました。晩年、思索と静養の場として太平洋に臨む人里離れた茨城県五浦に居を構え、横山大観ら五浦の作家達を指導し新しい日本画の創造をめざしました。



福井駅
  明治29年(1896)7月に北陸本線が開業しました。8月に福井駅が開業しました。現在はJR北陸線・越美北線・えちぜん鉄道の乗入れ駅となっています。



養浩館
ようこうかん
福井県福井市宝永3-11-36
 御泉水(おせんすい)の名で親しまれる養浩館は江戸中期を代表する書院建築と回遊式庭園です。福井城址から北に約400mの位置にあります。
 福井藩主松平家の別邸で藩の迎賓館として使われるなど、福井の華やかな文化を反映してきました。しかし、昭和20年(1945)7月19日の福井大空襲で建築物が焼失してしまいました。
 昭和57年(1982)国の名勝に指定されました。それを機に本格的な復元が始まり、戦災で焼失した建物群も主要部分である主家(母屋)などが18世紀前半の図面に基づき復元されたのです。

 池北西の眺めです。動物が座っているようにも見える岩島が、景観のアクセントになっています。岩の周辺には玉石が州浜状に敷き詰められています。池から流れ出る水路には曲線の美しい切石橋が架けられています。
 庭園は、大きな池を中心とした回遊式林泉庭園です。広い水面に対して立体的な変化をもたせるさまざまな工夫がなされてます。全国でも屈指の規模を誇る石橋なども配されています。
 池の東畔に建つ主家の外観です。柿葺寄棟の数寄屋造建築です。外壁は趣のある聚楽壁で仕上げられています。庭園に融和した風情ある姿です。

 復元する際の図面は「御泉水指図」といわれるもので文政6年(1823)に描かれた、現存する最古の絵図面だそうです。 
 屋敷の東南部から芝原上水を、遣水(やりみず)のように蛇行する幅広い水路で池に引き入れていました。なお現在は水路の幅が狭められ、池の水も芝原上水ではなく地下水をくみ上げて利用しているそうです。



丸岡城
霞ヶ城

まるおかじょう・かすみがじょう
福井県坂井市丸岡町霞町1-59
 丸岡町の中心部の丘にたつ丸岡城の威厳ある天守閣は現存する天守閣では最古であるそうです。天守閣は昭和9年(1934)に国宝に指定されました。
 昭和23年(1948)福井大震災で城は倒壊してしまいました。その古材を70%も使い昭和25年(1950)に修復再建されたのです。現在は国の重要文化財に指定されています。
 天正3年(1575)、織田信長は北陸地方の一向一揆を平定するため大軍を派遣しました。丸岡の東方4kmの山中にあった豊原寺を攻略し焼き払いました。信長は柴田勝家に越前の国を与えたのです。
 丸岡城は、勝家の甥の柴田勝豊が天正4年(1576)北ノ庄城(福井)の支城として築城されました。丘の上の本丸を中心に二の丸、東の丸連郭式に設けられ、その周囲を五角形の内堀で囲んでいます。2層に見える内部は3階建てで望楼型天守閣です。屋根が笏谷石製瓦という珍しい瓦で葺かれています。
  柴田勝豊以後、安井家清、青山修理亮、青山忠元、今村盛次、本多成重以下4代、有馬清純以下8代の居城を経て明治維新となりました。
 石製の鯱(しゃち)です。もともとは木彫銅板張りのものでしたが昭和15年から17年の修理の時に石製の鯱の改めたそうです。昭和23年の福井大震災で棟より落下してしまったそうです。今の鯱は木彫銅板張りを復元しています。
 春は日本のさくら名所百選にも認定された400本のソメイヨシノが霞ヶ城の別名にふさわしく古城に美しさをそえます。天守閣石垣のそばに、本多作左衛門が書き送った「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ」の書翰碑が建てられています。



東尋坊
とうじんぼう
福井県坂井市三国町安島
  東尋坊(とうじんぼう)は、福井県坂井郡三国町の三国港北西3kmに位置します。巨大な輝石安山岩がみごとな柱状節理(5角形、6角形の柱状の岩石の集まり)を見せてくれます。
 駐車場から海岸まで出店が続いています。イカの焼いた臭いや新鮮なカニのゆでた香りが漂います。
 海抜100m、地上55mからの眺望が楽しめる「東尋坊タワー」も人気があります。東尋坊の陣ヶ丘台地に建てられた白く四角いタワーです。
 遊覧船は東尋坊下と三国港から出ています。東尋坊の北1.5kmにある雄島(おじま)へも寄港します。
 遊覧船に乗ると、また違った眺めに出会えます。ライオン岩、ろうそく岩、船付岩などの日本海が生んだ迫力ある名勝奇岩を楽しめます。
 東尋坊一帯は、米ケ脇類層と呼ばれ鮮新世に噴出した各種の安山岩類と、湖沼に堆積した凝灰岩類、そして地表に流れた溶結凝灰岩から構成されています。
 巨大な輝石安山岩の柱状節理は韓国の金剛山、遠くはスカンジナビア半島と、ノルウェーの西海岸に見られるそうです。岩肌はやわらかく見えても硬いのがこの岩の特徴です。
 海食によって海岸の岩肌が削られ、高さ25mの絶壁が続いています。この絶壁に日本海の荒波が打ち寄せる様は、実に豪快です。地質学的にも貴重で、国の天然記念物にも指定されています。
 ここは自殺の名所としても有名で、各所に自殺を思いとどめる句碑が建っています。この「東尋坊」という名前はこの崖から突き落とされた平泉寺白山神社の東尋坊という僧の名前からきているそうです。
 東尋坊は自分の力が強いことを誇示して悪さを重ねていました。やりたい放題、好き勝手に悪行を重ねていたので、平泉寺のお坊さんたちは困り果てていました。
 寿永元年(1182)4月5日にお坊さんたちが東尋坊を連れて海辺に遊びに来て酒盛りをしたそうです。目くばせをうけた真柄覚念(まがらかくねん)は酒に酔った東尋坊を岸壁から突き落としてしまいました。晴れ渡っていた空は曇りだし、稲妻が光り、たくさんの人が亡くなったそうです。
 この命日の4月5日前後になると烈しい風が吹き荒波が立ち沖に船を出すことができなくなったそうです。福井東光寺の長老瑞雲はこの岸にのぞみ、
 好図見性到心清 迷則平泉不太平
 北海漫々風浪静 東尋何敢碍舟行
と詠んで波に沈めたそうです。するとそれまで例年続いていた東尋坊の祟りがなくなったということです。



越前松島
えちぜんまつしま
福井県坂井市三国町崎
 越前加賀海岸国定公園にある越前松島は国の名勝天然記念物に指定されています。輝石安山岩の柱状節理が良く発達し、東尋坊と趣を異にして壮観優美な景観を呈しています。



越前松島水族館
えちぜんまつしますいぞくかん
福井県坂井市三国町崎74-2
Tel 0776-81-2700
 奇勝「越前松島」に隣接していて、美しい海岸をバックに楽しいダイナミックなイルカショーが毎日開催されています。
 ここでは日本海の魚を中心に約350種類の魚介類を展示し、不思議な海の生物に出会えます。他にも洋鳥館やプラネタリウム、3D立体シアターなどもあります。



吉崎御坊跡
よしざきごぼうあと
福井県あわら市吉崎2-148
 かつて蓮如上人が布教の拠点としたところが吉崎御坊です。海抜33mの小高い丘である御山とよばれる吉崎山山上の約3万3千平方mの平坦地にありました。ここは北・西・南の三方を北潟湖に囲まれた天然の要害です。
 吉崎御坊は文明3年(1471)蓮如上人が浄土真宗の根本道場として創建し隆盛を極めました。古い石段の階段を上り詰めた高台には本堂の礎石や上人腰掛石などが残っています。昭和50年(1975)国の史跡に指定され公園として整備されています。
 蓮如上人銅像です。この銅像は東京美術学校教授であった高村光雲が造ったものです。亀山上皇、大楠公、西郷隆盛像とともに光雲4大作の一つに数えられています。
 銅像の高さは5m、御影石の台座は7mあるそうです。昭和9年(1934)10月に完成し除幕式が行なわれたそうです。
 蓮如上人腰掛けの石です。
この石は蓮如上人在世の頃から吉崎御坊にあったもので文明6年(1474)の「吉崎山絵図」の中に描かれていたものと同じものであろうといわれています。
 吉崎御坊の本堂跡です。文明6年(1474)南大門の多屋(門徒たちの宿坊)から出火し、本坊など焼失しました。翌年には朝倉敏景の弟経景(つねかげ)の襲撃で堂宇のすべてが灰燼に帰しました。
 蓮如上人は本願寺第8代法主で真宗中興の祖といわれています。比叡山を追われて以後、この地で真言布教を行ないました。現在でも付近一帯は「蓮如の里」と呼称されていて全国からの参拝者が絶えないそうです。



吉崎御坊吉崎寺
よしざきごぼうよしざきじ
福井県あわら市吉崎2-902
 吉崎御坊の周辺に東本願寺・西本願寺の別院、本願寺派の吉崎寺と大谷派の願慶寺などの寺院があります。記念館、資料館などもあります。
 吉崎寺は文明3年(1471)に蓮如上人が土地の領主と協力して創建した根本道場の一つだそうです。西別院(本願寺派)は延享3年(1746)、東別院(大谷派)はその翌年の建立だそうです。
 「念力門」です。天正19年(1591)豊臣秀吉が京都の西本願寺に寄進されたものです。元治元年(1864)蛤御門の戦いの時兵火から本願寺の堂宇を守ったことから火消門とも呼ばれたそうです。
 この門は昭和24年(1949)西本願寺より御下附100名余りの信徒の人によって運ばれたそうです。60里の道を16台の荷車で念仏のかけ声とともに運ばれたそうです。
 本堂です。大きさ11間4面、総檜の紫宸殿造りです。極彩色の本尊阿弥陀如来を安置しています。延宝6年(1678)に建立されましたが、寛政7年(1795)に焼失、2年後に再建され今日に至っています。
 文明7年(1475)蓮如上人が吉崎をあとにした後、幾人かの弟子達によって遺跡が守られ、道場も設けられました。その内、山下道場が発展したものが今日の吉崎御坊だといわれています。
 吉崎御坊跡参道です。蓮如がいた室町時代からの唯一現存する参道だそうです。この参道の先には有名な嫁おどし肉附面などを展示する宝物館があります。
 嫁おどし肉附面
昔、信心深い夫婦と仏嫌いの姑がいたそうです。嫁が田畑仕事を終え吉崎へ説法を聞きに通うのを快く思わない姑は鬼の面をかぶって驚かそうとしました。
 しかし嫁は動じずに「はまばはめ 食らわば食らえ金剛の 他力の信は よもやはむまじ」と詠んだそうです。帰宅した姑は面を外そうとしましたが外れません。嫁が帰って来て、優しく改心させ信仰心を持つようになったとき、自然と面が外れたそうです。



敦賀
つるが
 敦賀の地名はここに渡来した任那(みまな)(韓国南部)皇子である都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)に由来するそうです。額に角のある人という意味だそうです。皇子は帰化して国司になったそうです。
 日本書紀には、崇神天皇の時代に「都怒我阿羅斯等」がこの地に渡来したことにちなんで「角鹿」と呼ばれるようになったと記してあるそうです。和銅6年(713)「敦賀」の文字に改められたそうです。都怒我(つぬが)から角鹿(つぬが)、そして敦賀(つるが)になったようです。
 天然の良港をようする敦賀は「笥飯(けい)の浦」と呼ばれ、昔から朝鮮半島や中国大陸との交流が盛んでした。古代三関の一つ「愛発の関」や、渤海国からの使節を迎えるための「松原客館」が置かれるなど、海陸交通の要地だったのです。
 中世から近世にかけては都と北国を結ぶ物資の中継地となって栄え裏日本第一の港だったようです。朝倉、大谷吉継、結城秀康、京極、酒井など領主も変わり、越前藩から小浜藩に変わるなど要衝地ならではの歴史があるのです。




北前船の館 右近家
きたまえぶねのやかた うこんけ
福井県南越前町河野2−15
Tel 0778-48-2196
 江戸中期から明治末にかけて、蝦夷地(北海道)と上方(大阪)を日本海廻りで結ぶ廻船がありました。各港で商いをしながら不定期に往復した廻船を北前船と呼びました。
 右近家は、幕末には日本海5大船主の一人に数えられ、最盛期には30数隻の廻船を所有していたそうです。国道305号線沿いにある右近家の邸宅は現在、北前船歴史資料館として一般公開されています。
 母屋は明治34年(1901)に建てられたそうです。上方風切妻造瓦葺2階建の家は、北前船による産地直送の材料を使用したそうです。
 海の男たちの夢と情熱を乗せた北前船です。北前船の館の道路を挟んだ海岸側に飾られている北前船です。これによって日本海の物流産業は栄えたのです。



甲楽城下長谷の洞窟
かぶらぎしもはせのどうくつ
福井県南越前町河野
 延元2年(1337)敦賀金ヶ崎城の落城の時、後醍醐天皇の皇太子である春宮恒良(つねよし)親王は気比神宮の神官に連れ出され船で脱出しました。そして、この下長谷洞窟に一時身を隠したと伝えられています。
 南北朝時代、後醍醐天皇に味方する南軍方の新田義貞は敦賀の金ヶ崎城に2千人の兵と籠もりました。足利尊氏は10万の大軍で城を攻撃しました。義貞嫡男の新田義顕と尊良親王はともに自害したのでした。
 洞窟は奥行き約20m、高さ7m、幅5mほどで奥に進むにつれて狭くなっている。当時13才だった恒良親王はまもなく北朝方の軍勢にとらえられ、京都へ送られ毒殺という非運な一生を終えたのでした。



氣比神宮
けひじんぐう
福井県敦賀市曙町11−68
Tel 0770-22-0794
 「けいさん」の愛称で親しまれる気比神宮は元の官幣大社で北陸道総鎮守・越前国一之宮です。平安時代中期にまとめられた延喜式神明帳に名神大社として名を残している古社なのです。
 国道8号線に面して 朱塗りの大鳥居がひと際目を引いています。この木造の大鳥居は奈良の春日大社、広島の厳島神社と並ぶ、日本三大鳥居に数えられているのです。
 旧国宝の気比の大鳥居は高さ11mもあり国の重要文化財に指定されています。この大鳥居は通称赤鳥居として嵯峨天皇弘仁元年(810)の造営時に東参道口に創建されたそうです。
 その後、度重なる災害に依り倒壊したために、正保2年(1645)境域の西門に移して佐渡国鳥居ヶ原から伐採奉納の榁樹一本で両柱を建て再建されたそうです。
 正面の扁額は 有栖川宮威仁親王の筆によるものです。「氣比神宮例大祭」は氣比の長祭として有名です。毎年9月2日の宵宮に始まって 15日まで続きます。特に、3日の神幸祭では市内一円が賑わいをみせます。
 内鳥居の奥に見えるのが本殿です。伊奢沙別命(いざさわけ)、帶仲津彦命(たらしなかつひと)、日本武命・譽田別命(やまとたける・ほんだわけ)などの五神が奉られています。
 伊奢沙別命は、笥飯大神(けひのおおかみ)とも称され、太古よりこの地に鎮座し、文武天皇の勅命により大宝2年(702)に社殿が造営されたといい伝えられています。
 神領は越前、若狭、近江、佐渡まで及び祠官は強大な勢力を誇っていました。南北朝時代には大宮司氣比氏治、斎晴親子が南朝に味方し、金ガ崎城に篭りました。
 延元2年(1337)3月、足利尊氏方の高師泰らの総攻撃で金ガ崎城は落城しました。後醍醐天皇の長男である尊良(たかなが)親王、新田義顕らとともに氣比親子は殉じたのでした。
 遊行真教上人は気比神宮の参道がぬかるみ、参詣の人々が難渋していたので、砂を運んで参道整備しました。芭蕉はこのことを「なみだしくや 遊行のもてる 砂の露」「月清し 遊行のもてる 砂の上」と詠んでいます。



敦賀市立博物館
つるがしりつはくぶつかん
福井県敦賀市相生町7-8
 この建物は昭和3年(1928)に竣工された旧大和田銀行本店を改修して造られています。地下1階、地上3階の石造りのレトロな建物です。
 長崎の香港上海銀行、京都の西陣会館とともに大正、昭和の3大建築といわれているそうです。現存する昭和初期の洋風建築として稀少なものです。館内には港町敦賀が最も栄えていた時代の文化財が展示されています。
 明治25年大和田銀行を設立した大和田荘七は俳優の大和田伸也、大和田獏さんのご先祖になる人だそうです。薬種商の山本九郎左衛門の息子として生まれ、21才で養子に入り明治20年(1887)30才のときに、二代目「大和田荘七」を襲名したそうです。



みなとつるが山車会館
みなとつるがやまかいかん
福井県敦賀市相生町7−6
Tel 0770-21-5570
 市立博物館に隣接した山車会館は、敦賀まつりに曳かれる山車6基を収納、展示しています。山車とは祭りで神様を迎えるための巨大な屋台です。敦賀の山車は上に載せる武者人形に本物のかぶとや能面をつけて華やかに飾るのが特徴です。
 館内には山車のほか、武者人形、本物実践用の鎧や兜、能面などが展示されています。またスクリーンシアターでは大画面で敦賀まつりを再現しています。



気比の松原
福井県敦賀市松島130
 気比の松原は、静岡県の三保の松原、佐賀県の虹の松原とともに日本三大松原の一つに数えられる名勝です。「白砂青松百選」、「日本の自然百選」にも選ばれています。
 平均樹齢が220年といわれるアカマツやクロマツなど、約1万7000本の松が群生しています。水の澄んだ敦賀湾に白砂青松が美しく映えます。
 約1・5km続く海岸線は海水浴場となっていて、松原の中に遊歩道も整備され、市民の憩いの場となっているようです。



武田耕雲斎墓所
たけだこううんさいぼしょ
敦賀市松島町2
 元治元年(1864)11月1日、水戸藩天狗党は、攘夷の志を朝廷に訴えようと挙兵し、京に向かって中山道を進みました。リーダーの武田耕雲斎は藤田東湖の四男の藤田小四郎らが筑波山の挙兵したときには時期尚早とこれをいさめたのですが行動を共にする道に進みました。
 武田耕雲斎正生は9代藩主徳川斉昭の家老も務めた重臣でした。斉昭の死後、盛り上がった尊攘激派の運動を抑えるため、復職しました。文久元年に過激派による東禅寺の英国公使館襲撃事件が起り、責任を負って謹慎に処せられていました。
 美濃鵜沼宿(岐阜県各務原市)辺りまできたとき、進路上の長良川対岸一帯に、幕府から追討命令を受けた彦根藩、大垣藩、桑名藩などの諸藩が軍勢を繰り出し、待ち受けていることを知り越前方面へ進路を変更したのでした。
 天狗党が大野藩領へ進入してきたとき、藩主土井利恒は江戸に在役中でした。藩では藩兵を召集し、天狗党が宿泊や食料調達ができないよう、道筋に当たる西谷郷の村々の民家を焼き払ったのです。
 12月11日に敦賀の新保に到着しましたが、幕府軍の包囲は厳しく進軍を諦め800人を超す一行は幕府軍に降伏したのでした。353人が翌年2月、松原で日本史上例をみない大量処刑されたのでした。
 神社の向かい側には、武田耕雲斎の銅像や水戸烈士の墓が建ち並んでいます。松原神社には天狗党一行が幕府に監禁されていたニシン蔵が記念館として残っています。



常宮神社
じょうぐうじんじゃ
敦賀市常宮13
 敦賀半島の中ほどにある常宮神社は明治維新までは常宮大権現と称して氣比神宮の奥社でした。明治9年(1876)独立して常宮神社となったそうです。
 大宝3年(703)勅命により社殿を修造したと伝えられているそうです。本殿は慶長7年(1602)福井藩主結城秀康が造営しましたが、現在のものは正徳3年(1713)に再建されたものだそうです。
 正面3間(6m)、側面2.5間(5m)向拝1間の前室付三間社流造の形式を持つ比較的大形の建物です。
 身舎(もや)は円柱、前室及び向拝は角柱とし、前室床は身舎に対し一段低くなっています。正面の木階は七級の木口階段で、浜床を設けています。
 前室正面は中央間と両側面が板扉、両脇間を蔀(しとみ)で造られています。身舎は正面中央が板扉で、両脇間を杉戸引違として両面と背面は板壁で造られています。
 ご祭神は神功皇后です。気比神宮の仲哀天皇の妻で、「お産の常宮さん」としてあがめられています。例祭は毎年7月22日で気比神宮の総参祭(そうのまいりのまつり)の日でもあるそうです。
 仲哀天皇と神功皇后が熊襲の反乱を聞いて、天皇が先に九州に向かい、皇后が6月乙卯日に海路で後を追ったという神事を再現するものだそうです。
 仲哀天皇の御神体が船に乗って祭神の神功皇后に逢いに来るのです。常宮神社は地元では安産の神様として知られ「お産の常宮さん」としてあがめられているのです。
 仲哀天皇は陸路から筑紫(福岡県)に向かった時、神功皇后は角鹿(つぬが)にとどまりました。皇后は「常に居宮し波静かなる哉楽し也。」といわれたことから「常宮」という名が付いたそうです。
 常宮神社境内には文政5年(1822)に建てられた芭蕉句碑があります。
    「月清し 遊行の持てる 砂の上」
 氣比神宮でも紹介しましたが常宮神社は明治維新までは氣比神宮の奥社でしたので同じ芭蕉句碑があるのです。
 遊行真教上人は気比神宮の参道がぬかるみ、参詣の人々が難渋していたので、砂を運んで参道整備したのです。それ以来、時宗本山(藤沢市清浄光寺)の上人が交代するたびに、「遊行上人のお砂持ち」の行事が敦賀の御影堂前町で行なわれているそうです。
 また常宮神社には朝鮮ノ役より凱旋した敦賀藩主大谷刑部吉継が奉じたといわれている高麗鐘(朝鮮鐘)があります。全高111.1m、口径66.3cmの新羅時代の鐘です。国宝に指定されています。
 朝鮮鐘は滋賀県大津市の園城寺、宇佐八幡宮、東照宮なども鐘も有名で重要文化財に指定されていますが、この常宮神社の鐘は唯一の国宝だそうです。韓国にある鐘も含めても3番目に大きく極めて美術的価値の高いものだそうです。



敦賀湾
つるがわん
 手の浦(たのうら)付近です。砂を踏みしめるとキュッ、キュッと音がする手の浦海水浴場もあります。透明度は抜群です。
 敦賀半島は蠑螺ヶ岳、西方ヶ岳、三内山などの山があり若狭湾と敦賀湾を分けています。敦賀湾は若狭湾国定公園に指定された美しい海です。
 養殖用のいかだがたくさん浮かんでいます。半島の先端近くには水島があり、海水の透明度が非常に高く、白砂で遠浅の美しいビーチがあるそうです。



中山寺
なかやまじ
福井県大飯郡高浜町中山27−2
Tel 0770-72-0753
 若狭富士とも呼ばれる標高699mの青葉山の中腹に真言宗御室派の中山寺があります。眼下にはリアス式海岸の海と高浜・和田・大飯・小浜などの街並が遠望できます。
 開基は泰澄(たいちょう)大師で聖武天皇の勅願により天平8年(736)に創建されたと伝わっています。その後荒廃しましたが、延喜22年(922)法印覚阿(かくあ)が再興し、一乗寺と称していたのを中山寺と改めたそうです。
 入母屋造檜皮葺きの本堂は国の重要文化財に指定されています。室町初期の建立といわれています。和様を基調とした落ち着いた様式で木鼻などの細部意匠には奈良系の技術の影響もあるそうです。
 本尊は平安時代末期の作の馬頭観世音菩薩です。これも国の重要文化財です。33年ごとに開帳される秘仏です。
 馬頭観世音菩薩は本堂の厨子の中に安置されています。三面八びの像でヒノキの寄木造りです。大型の円光を背にして蓮華台に座しています。
 湛慶の作といわれる山門の金剛力士立像も重要文化財です。本堂南隣の庫裏には阿弥陀如来像が安置されています。この地方独特の技法で造られている貴重な仏像です。



馬居寺
まごじ
福井県大飯郡高浜町馬居寺3−1
Tel 0770-72-1264
 山道を登っていくと平成16年の台風22号の傷跡で所々崖が崩れていたり、大きな石が道に落ちていたりで恐る恐る訪ねた寺でした。
 若狭33所観音霊場の300番札所であり、北陸33所観音霊場2番札所にもなっています。高野山真言宗の古刹で本光山馬居寺が正式名称です。
 創建は福井県で最も古いそうです。1300年前の白鴎時代とされていて開基は聖徳太子と伝えられています。
 聖徳太子が安置したとされる本尊の馬頭観世音菩薩坐像は国の国重要文化財に指定されています。
 頭上に馬頭をいただき、憤怒の形相で右膝を立てています。本尊は25年に1度しか開帳されない秘仏になっています。
 本堂右手には五輪塔や数百体の石仏群がひっそりとたたずんでいます。鎌倉時代から江戸時代にかけてのものだそうです。桜や紅葉の名所としても有名です。



青戸の大橋
あおとのおおはし
福井県大飯町(おおいちょう)
 大島半島の先端に原子力発電所が建設され本郷地区と半島を結ぶこの青戸の大橋が架けられました。東手に小浜湾、西手に青戸入江が広がります。



小浜公園
おばまこうえん
福井県小浜市香取81−1
 小浜市街の西端、小浜湾に面し、海望山の東麓に位置する公園です。展望台からは、小浜市内をはじめ、内外海・大島の両半島が見渡せます。



三丁町
さんちょうまち
小浜市香取
 この辺は千葉県の香取神宮に因んで香取区と呼ばれています。猟師町、柳町、清水町の3町は料亭や旅館が多かったことから別名三丁町という茶屋町の呼称で呼ばれています。
 千本格子の長屋が並ぶこの三丁町界隈は江戸時代、小京都と呼ばれ繁栄した小浜の遊郭街だったそうです。
 現在も250mにわたって古道具屋などが軒を連ね、かつての風情を感じさせる町並みを演出しています。



高成寺
こうせいじ
福井県小浜市青井1−11−1
Tel 0770-52-1409
 小浜公園の南に臨済宗の青井山高成寺があります。暦応2年(1339)足利尊氏が創建し、安国寺としました。
 その後、14世紀の康安年中に焼失し、守護大高重成が再建したそうです。その各1文字をとって安国高成寺と号したそうです。



常高寺
じょうこうじ
福井県小浜市小浜浅間1
Tel 0770-53-2327
 常高寺は、江戸時代初期の小浜藩主京極高次の妻、常高院の発願によって建立された寺です。臨済宗妙心寺派で凌霄山(りょうしょうざん)常高寺と号します。
 常高院はお初の方が夫の死後出家した時の名前です。お初の方は信長の妹のお市の方の次女です。寛永7年(1630)に建設に着手し、小浜出身の槐堂周虎(かいどうしゅうこ)禅師を迎えて開山しました。
 お初の父親は浅井長政、母はお市の方、姉は秀吉の側室・淀殿で、妹は徳川二代将軍秀忠の正室・お江なのです。
 お初の方二十歳の時、秀吉のとりなしで、没落した名門佐々木京極家の嫡男で、当時は秀吉の一部将として台頭しつつあった京極高次のもとに嫁ぎました。
 関ヶ原の合戦においては、近江滋賀郡大津城6万石の城主であった高次は徳川方につき、合戦の功により若狭8万5千石を受領して小浜城主となったのでした。高次は病のため47才という若さで小浜城で没してしまいました。お初の方は出家して忠高が二代目城主となったのでした。
常高院墓所
 京都・方広寺の梵鐘の銘「国家安康・君臣豊楽」をきっかけに起こった1614年大阪冬の陣で、お初が家康に和睦の使者を申し出ました。お初の調停により大阪城の外堀を埋める事で和解が成立したのです。元和元年(1615)起きた大阪夏の陣でもお初は和平と姉・淀殿の救助を目指して豊臣・徳川間を幾度も往き来しました。お初が姉・淀殿に最後の別れを告げて大坂城を去ったのは元和元年(1615)4月7日、大坂城落城は翌8日でした。
常高院墓所



栖雲寺
せいうんじ
福井県小浜市大原2
Tel 0770-52-3907
 栖雲寺は、万松山と号し、臨済宗妙心寺派に属し、常高院で著名な常高寺の惣門内にあります。文明15年(1482)、武田信親の創建 とされています。信親は、若狭守護三代国信の嫡男として誕生し、将軍義尚の犬追物興行にも何回か参加し相伴衆になっています。
 開山は信親の招聘で京都東山建仁寺の僧潤甫周玉といわれています。潤甫周玉が没した天文17年(1548)以後は衰微したようですが、小浜領主となった浅野長政が扶助し 、その後に入部した京極高次からも寄進を受けるなど保護されたようです。 
 一色満範は将軍義満をこの栖雲寺に、義満の妻北山院(日野康子)を玉花院にそれぞれ宿泊させたことがあったようです。そして両寺の間に廊下を造営したそうです。



空印寺
くういんじ
福井県小浜市小浜男山2
Tel 0770-52-1936
後瀬山(のちせやま)城の麓にある空印寺は小浜藩主、酒井家の菩提寺で歴代の墓がある曹洞宗の寺です。ここは若狭守護武田元光が1552年に守護館にしたところだそうです。
 その館は京極氏によって破壊され京極高次没後、嗣子忠高はこの旧地を父の牌所とし泰雲寺を建立しました。寛永11年(1634)松江に転封後、酒井氏が入り、酒井忠勝は、父忠利の遺骨を移して建康寺と改称し菩提寺になったそうです。
 寛文年中、2代忠直が堂宇大修造のとき、父祖の法号をとって建康山空印寺と改めたそうです。周囲の地下には昔の守護館の名残である濠がはりめぐらされています。



八百比丘尼入定洞
やおびくににゅうじょうどう
福井県小浜市小浜男山2
 八百比丘尼伝説は全国各地に伝わっています。高橋権太夫という長者が人魚の肉をもらって、それを知らずに娘が食べてしまい不老不死の体となった尼さんの伝説です。
 娘は出家して比丘尼となり、貧民救済や土地の開墾、長寿の教えなどを説いて全国を回り、800才になり最後に若狭に帰って入定したとされる場所が、ここ空印寺の洞穴なのです。

人魚の像
福井県小浜市人魚の浜海岸
 八百比丘尼伝説の小浜市には「人魚の浜海岸」と名付けられて整備された海水浴場があり、そこには「マーメイドテラス」なる若狭湾・夕陽を眺める展望台があります。「マーメイドプラザ」なる施設もあります。
 小浜湾を背に人魚の像があります。遠い南の海の人魚(ジュゴン)が小浜の海に迷いこんだ事から八百比丘尼の伝承が語り継がれてきたのだと思われます。
 黒潮(対馬海流)は南の洋上から日本海沿岸の若狭湾をへて奥羽の沖に達するといわれています。この人魚もまた黒潮にのってはるばるたどり着いたのでしょう。

小浜湾
 日本列島のほぼ中央、京都の真北に若狭湾が位置しています。そのほぽ中央にカニのはさみの様な左右2つの半島があります。
 大飯原子力発電所がある大島半島と蘇洞門めぐりで有名な内外海半島です。この中に囲まれて小浜湾があります。
 若狭フィッシャーマンズ・ワープです。「蘇洞門めぐり」は、ここから出航し若狭国定公園を代表する豪壮な蘇洞門海岸を堪能できます。



小浜神社
おばまじんじゃ
福井県小浜市城内1丁目7−55
Tel 0770-52-2082
 明治8年(1875)小浜城旧本丸に旧藩臣などで建てられました。祭神は藩祖である酒井忠勝を祀っています。常に江戸幕府に出仕して、ここ小浜城いたのは少なかったようです。


小浜城祉
おばまじょうし
福井県小浜市城内1丁目
 ころび橋(古呂美橋)です。
 小浜市鹿島区と浅野区との境にあったものです。京極氏が築城の時に本丸のこの場所に移したそうです。この橋の上で転ぶと死んでしまうという言い伝えがあるそうです。
 慶長6年(1601)京極高次により、北川と南川に挟まれた中州に建設が始められました。築城なかばに松江へ移封になったため酒井忠勝の時に完成しました。27年間かかったそうです。
 天守閣は江戸城富士見やぐらを模したといわれていますが現在は石垣を残すのみです。明治4年、天守閣に小浜県庁がおかれたそうです。しかし同年焼失してしまったそうです。



杉田玄白碑
すぎたげんぱくひ
福井県小浜市大手町2−2
Tel 0770-52-0990
 小浜病院の前に杉田玄白の銅像が建てられています。玄白は江戸中期の蘭方医です。若狭国小浜藩医杉田甫仙の子として江戸で生まれました。宝暦2年(1752)小浜藩医となりました。
 明和8年(1771)江戸千住骨ヶ原(小塚原)で前野良沢、中川淳庵らと刑死者の屍体の解剖(腑分け)を検分、オランダ解剖書の図を見ながら翻訳して、安永3年(1774)「解体新書」5巻を刊行しました。



羽賀寺
はがじ
福井県小浜市江古川83−5
Tel 0770-52-4502
 小浜駅の北方4km、三方山に囲まれた閑静な場所に高野山真言宗の本浄山羽賀寺がひっそりと佇んでいます。この付近はかつてコウノトリの生息地としても知られたところだそうです。
 羽賀の山に鳳凰の羽が舞い落ちたのを吉祥として時の女帝、元正天皇が霊亀2年(716)行基に命じて創建させたといわれる勅願寺です。
 建久元年(1190)源頼朝の寄進で三重塔が建立されています。応永5年(1398)堂塔が全焼してしまいます。再建したものの永享7年(1435)堂舎が火難にあったため、奥州の安部康季が再建したそうです。
 室町中期に建てられた本堂は国の重要文化財に指定されています。文安4年(1447)に建立後、30回にわたる修理や改変が加えられているそうです。
 行基が元正天皇に似せて彫ったと伝えられる十一面観音菩薩立像が有名で国の重要文化財です。千手観音立像、毘沙門天立像も平安期の作で重要文化財です。若狭地方で一番という枯山水の名園も有名です。



蘇洞門
そとも
福井県小浜市川崎1−3−2
Tel 0770-52-3111
 天下の奇勝「蘇洞門」は小浜市泊にあり、久須夜ヶ岳の北側の断崖一帯は「外面」という名前が「蘇洞門」になったといわれています。自然が造り出した数々の造形美は、しばし我を忘れさせてくれます。
 白糸の滝が見えてきます。
 深い谷間にある為、干ばつの時でも滝が涸れることがないそうです。上から落ちる水は一直線に落ちてくるそうです。


 網かけ岩です。
岩に網の目のように亀裂が入り、まるで網を掛けたように見えるところからそう呼ばれているそうです。
 小山通洞です。
 洞窟は文字通り向うへ通り抜けることが出来るのです。

 蘇洞門」は花崗岩が波に打ち砕かれ、方状節理にそって海蝕してできた奇岩・洞窟・断崖と、断崖から流れ落ちる滝が約6kmにも及び、その豪壮雄大な姿は、日本海側有数の景勝地となっています。



 古河屋
ふるかわや
福井県小浜市北塩屋6−15

 若狭の代表的な船主である小浜湊西津の古河屋嘉太夫家は松前の海産物や東北・北陸の米等を小浜へ、そして京阪へ集散する回船問屋を営んでいました。
 越後から秋田への茶商売を第一に廻船業を営み、酒や醤油の醸造、金融業まで幅広い商売をしていたそうです。藩の御用達商人にもなっていました。
 この屋敷は北前船御殿とも呼ばれています。古河屋の全盛時代、文化12年(1815)5代目古河屋嘉太夫が建築したものです。高度の建築設計と風雅にして格式ある庭園です。



綱女の墓
つなじょのはか
 綱女は明和6年(1769)15才にして藩士松見茂太夫の女中になりました。主家の幼児を子守中、狂犬に襲われました。幼児をかばって命を救いましたが本人は亡くなったそうです。この話を国守が聞いて憐れに思い、大きな石碑を建て忠烈綱女の墓としるし儒者の小野忠次郎に銘を書かせ3日間の大仏事を行ったそうです。



聖ルカ教会
せいるかきょうかい
福井県小浜市千種2−9−22
Tel 0770-53-0055
 小浜市街地の北東部で小浜湾に注ぐ南川の堤防沿いに建てられた和洋折衷の教会堂です。礼拝堂は木造で、余分な装飾を排した質素で落ち着いた雰囲気を持っています。
 旧小浜藩士杉浦悦太郎に伴われたページ、マキム両宣教師の伝道により、明治20年(1887)恵教会が創立され、明治30年(1897)に教会堂が完成し聖路加教会と改称されました。
  昭和6年3月に改築され、教会堂の屋根を撤去し、煉瓦造上部に木造で増築されて現教会に至っています。煉瓦造の1階には櫛型アーチの窓を設置し、2階の教会堂の側面に3連の片開き窓を設ける変形ゴシック風の構造です。



小浜駅
おばまえき
福井県小浜市駅前町1
 小浜市は古くから交通の要所とされ、文化財も多く残るため「海の正倉院」とも呼ばれる若狭地方での中心都市です。市の代表駅として中心的な役割を担っているのは、JR西日本小浜線の小浜駅です。



円照寺
えんしょうじ
福井県小浜市尾崎22−15
Tel 0770-56-1902
 臨済宗南禅寺派の禅寺です。小浜市内を西に流れる南川を少し南に下った静かな集落、尾崎のはずれに建っています。
 創立年代はよくわかっていませんが大化年間(645-650)に南川対岸の堂谷に建立されていたようです。当時は遠松寺と称していたようです。
 文安元年(1444)現在の場所に移され寺名も円照寺と改められ、真言宗から臨済宗に改宗したそうです。本堂裏には地泉観賞式の庭園があり、梅雨時にはモリアオガエルの産卵が見られるそうです。

 円照寺には重要文化財に指定されている木造不動明王立像と北陸地方には珍しい大日如来坐像を所有しています。

 大日如来坐像は寄木造りで高さは251.5cmと大きく平安時代後期の作ということです。金色の姿と優しい顔立ちが見る者を引きつけます。



妙楽寺
みょうらくじ
福井県小浜市野代28−13
Tel 0770-56-0133
 真言宗高野山派の岩屋山妙楽寺は霊峰多田ケ岳の西ふもとにあり周囲は深い杉木立に包まれています。奈良時代の養老3年(719)行基が岩屋に千手千眼像を彫刻、延暦16年(797)空海がこの尊像を拝顔して堂舎を開創したのに始まると伝えられています。
 重要文化財の本堂は鎌倉時代初期に建立され、厨子には永仁4年(1296)と銘があり、若狭における最古の建造物だそうです。本尊の千手観音菩薩立像も重要文化財で平安中期に造られたものだそうです。



多田密寺
ただみつじ
福井県小浜市多田27−15
Tel 0770-56-0894
 真言宗高野山派の石明山多田密寺は多田ヶ岳のふもとにあります。多田ヶ岳は、役の行者(神変菩薩)が若狭修験の根本道場として百々日の修業を行ったところだそうです。
 奈良時代の勝宝元年(749)孝謙天皇の「医王閣」の勅願により勝行上人が建立したと伝えられています。
 本堂に向かって左側に名物の梵鐘があります。豊臣秀吉がこの鐘をついて金運がついたということから、入り際に撞いていくと一生鐘には困らないそうです。
 ここは日本三薬師(奈良薬師寺・出雲一畑薬師)の1つでもあります。眼病に霊験顕著とされ、目の薬師様としても知られています。本尊、薬師瑠璃光如来立像、脇仏、日光十一面観世音菩薩立像、脇仏、月光菩薩立像はいずれも重要文化財に指定されています。



神宮寺
じんぐうじ
福井県小浜市神宮寺30−4
Tel 0770−56−1911
 天台宗の霊応山神宮寺は若狭彦神社より遠敷川500m上流付近に位置しています。和銅7年(714)泰澄の弟子の滑元(かつげん)の創建で、翌年勅願所となり神宮寺となったそうです。
  近世では若狭鎮守12宮の1つでした。現在の本堂は天文22年(1553)に朝倉義景が再興したもので、重要文化財に指定されています。桁行5間、梁間6間の単層入母屋造で、屋根は檜皮茸の堂々たる大建築です。
 和様を主として大仏様、禅宗様を合わせた異色の建物で室町時代に造られています。鎌倉初期、若狭彦神社別当寺神宮寺と改名して七堂伽藍二十五坊を誇りましたが豊臣時代に寺領が没収されてしまいました。
 本尊薬師如来座像を中心に日光、月光菩薩、千手観音、十二神将、不動明王、毘沙門天像などがあります。本堂南側には重要文化財の木造男神像、女神像が祀られています。
 毎年3月12日奈良東大寺で行なわれる「お水取り」の行事は二月堂の若狭井から香水をくみとり、本尊十一面観音菩薩に献上する行事です。
 これに先だって若狭井へ水を送る「お水送り」の神事が毎年3月2日この神宮寺の住職の手によって行なわれています。



明通寺
みょうつうじ
福井県小浜市門前5−22
Tel 0770-57-1355
 真言宗御室派の棡山明通寺は松永川の上流に位置する古刹です。大同元年(806)征夷大将軍坂上田村麻呂が北陸巡幸の際ここに一宇を建てたといわれています。およそ1200年の歴史を誇っています。
 薬師堂とも呼ばれる本堂は正嘉2年(1258)に棟上げされ、文永2年(1265)に供養された建物で国宝に指定されています。単層入母屋造りの檜皮葺の純粋な和様の手法がとられています。
 屋根の形はいかにも荘重で力量感に満ちています。内側も外側もしっかり落ち着いた鎌倉時代の代表的な建物です。
  三重塔は同じく国宝で裏日本随一の三重塔といわれています。この塔は文永7年(1270)に建立され、以後数回の修理を経ています。
 昭和33年(1958)にも解体修理がなされています。高さ22.13m、檜皮葺の3間三重塔です。和様からなる様式の崩れがなく優美で巧妙な姿は鎌倉時代建築の特色を十分に発揮しています。
 藤原期に作られた本尊薬師寺如来坐象、降三世明王像、深沙大将像は、国の重要文化財に指定されています。3体ともユズルギ材で彫刻された一木造りです。松林寺にあった不動明王像は廃寺の際に羽賀寺に移されていたのを譲り受けたもので、これも国の重要文化財です。



万徳寺
まんとくじ
福井県小浜市金屋74−23
Tel 0770-56-2308
 真言宗高野山派の延宝山萬徳寺江戸時代の初期に建立、再興されたものです。かつては音無川の河岸にあり、名も極楽寺といいました。天文13年(1544)に重罪人も受け入れる駆け込み寺の規定を受け、多くの人々の心の拠りどころとなりました。
 江戸時代初期に極楽寺が兵火をあび、今の山麓に移されて再興したそうです。万徳寺と名を改め真言宗に改宗したそうです。極楽寺の本尊だった木造阿弥陀如来坐像、不動明王三童子像、絹本著色不動明王三童子像、絹本著色弥勒菩薩像など数々の重要文化財を所有しています。
 庭園は延宝5年に作庭されたようです。埋石式庭園として地方色濃厚な、蓬莱枯山水です。「山もみじ」は天然記念物に指定されています。



若狭彦神社
わかさひこじんじゃ
福井県小浜市龍前28−7
Tel 0770-56-1116
 延喜式に記録されている若狭比古神社二座が若狭彦神社(上社)にあたります。若狭姫神社(下社)と併せて若狭彦神社といい、若狭一の宮とされる一国鎮守の大社となっています。
  上社である若狭彦神社は、和銅7年(714)9月10日、遠敷郡下根来村白石に創建されました。元正天皇の霊亀元年(715)9月10日、現在地へ遷座されたということです。
  若狭彦神社の祭神は、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)です。神話に出ている山幸彦なのです。
 参道をはさみ厳然とそびえたつこの2本の大杉は若狭姫神社の二のの鳥居と考えられています。このように近くに相並び立つ杉は夫婦杉ともいわれています。
 歴代朝廷や武家の崇敬も篤く、後一条天皇・浅野長政・酒井忠勝等の奉幣・寄進記録も残っているそうです。
 「若狭国鎮守神人絵系図」には、明神鳥居を前方に三間一戸の楼門とその左右に起る板敷回廊が三間社流造の本殿を四周する各丹塗の壮麗な社殿景観を画きと書かれていたそうです。
 本殿は文化10年(1813)造営されたそうです。正面、側面、向拝が3間の三間社流造桧皮葺(ひわだぶき)です。素木造で組物はすべて大斗船肘木、妻飾は二重虹梁、豕扠首式です。
 この本殿は、大棟を梁間の真中におくため、比較的前方屋根の出が短く、勢い破風の反も緩かです。
 神門(中門)は天保元年(1830)造営です。四脚門形式の切妻造りで桧皮葺です。素木造のとても閑雅な四脚門です。
 随神門は江戸時代後期の造営です。八脚門形式の入母屋造りで桧皮葺です。素木造、桁行三間、梁間二間の清雅な八脚門になっています。
 正側面と、中柱で区画する前面一間を、床高の随神座とし、広い中央の通路を挾んで、随神像が、左右に正対する珍しい形式で鎮座しています。



若狭姫神社
わかさひめじんじゃ
福井県小浜市遠敷65−41
Tel 0770-56-1116
 若狭姫神社は元正天皇の養老5年(721)2月10日、若狭彦神社から分社して創建されました。祭神は竜宮城の乙姫の豊玉姫命(とよたまひめのみこと)です。
 本殿は江戸中期に建てられました。神門と8人の眷族(郎党)が祀られている随神門、社叢が県の文化財に指定されています。
 本殿は享和2年(1802)造営されたようです。正面3間、側面3間、向拝1間の流造で桧皮葺です。上社とほぼ同じつくりですが本殿の屋根が流れるように伸びていてやさしく美しい感じがします。
 御神木の千年杉です。本殿を囲む瑞垣(透塀)の内部にそびえています。若狭姫神社の社の森はカゴノキ、ムクノキなど暖地性広葉樹林が多く、県の天然記念物に指定されています。
 招霊(おがたま)の木です。
 明治時代に京都御所より拝受したものです。おがたまの木は太古の時代から祭礼の時に神霊の招請に用いられた神聖な木でした。モクレン科の常緑高木です。早春、薄い紫白色の花を咲かせます。
 神門(中門)は享和3年(1803)に造営されました。切妻造平入、桧皮葺、素木造の至って閑雅な四脚門です。随神門は寛保3年(1743)造営され、入母屋造平入、桧皮葺、素木造、桁行三間、梁間二間の清雅な八脚門です。
 「若狭国鎮守神人絵系図」には、明神鳥居を前方に三間一戸の楼門とその左右に起る板敷回廊が三間社流造の本殿を四周する各丹塗の壮麗な社殿景観を画きと記されているそうです。



瓜割の滝
うりわりのたき
福井県三方上中郡(みかたかみなかぐん)若狭町天徳寺37−13

 宝篋山(ほうきょうざん)天徳寺の裏山の瓜割の滝は、福井県内に3つある名水百選のうちのひとつです。
 夏でもそのあまりの冷たさに、つけておいた瓜が割れてしまったという故事よりその名がついています。瓜割の滝周辺はもともと「水の森」と呼ばれ修験者の修行の地であり、朝廷の雨乞いを司るところだったそうです。
 岡野玲子の作品「陰陽師」の中で、安倍晴明が雨乞いのために各地の水の地を訪れるという場面がありますが、この滝は最初に登場するところになっています。
三方湖



縄文プラザ
福井県三方上中郡若狭町向笠122?89?1
Tel 0770-45-1515
 「縄文プラザ」は縄文博物館・ロマンパークに隣接し、縄文時代をキーワードに町おこしに役立てる観光物販施設です。



若狭三方縄文博物館
わかさみかたじょうもんはくぶつかん
福井県三方上中郡若狭町鳥浜122?12?1
Tel 0770-45-2270
 若狭三方縄文博物館[DOKIDOKI館]は平成12年4月に開館しました。三方五湖の三方湖の畔にある縄文ロマンパークの中心施設です。
 鳥浜貝塚から発掘された出土品を中心に縄文時代と縄文人全体をわかりやすく解説しています。1万年にも及ぶ縄文時代の人々は多くの土器を作り上げ、舟を造って海の遠くまで活躍していました。



三方石観世音
みかたいしかんぜおん
福井県三方上中郡若狭町三方
Tel 0770-45-0017
 三方石観音は、北陸33所観音巡礼霊場第7番札所です。今からおよそ1200年前、弘法大師が作ったとされています。弘法大師が若狭遍歴の途中この地に立ち寄って一夜のうちに石観音を、大きな岩に彫り込みました。朝を告げる鶏の声を聞いて右手首から先は未完成のまま慌てて下山したと伝えられています。
 右手首から先が完成していないので「片手観音」と呼ばれています。「手足の病にきく」という言い伝えにより昔より大勢の参拝者でにぎわっています。
 祈願者は木で作られた手や足(御手足型)を本堂で借受けて持ち帰って、朝夕患部を「南無大慈大悲石観世音菩薩」と唱名を唱えながら軽くさすって病気の回復を祈願します。
 そうすることによって病気が治るということです。快癒したあとで借受けた御手足型をお返しするのです。
 その際に更に新しい御手足型を一本添えて奉納する習慣になっているそうです。そのようにして奉納された御手足型が御手足堂に山となってつまれていきました。
 現在では返納時に400円を支払うことにより観世音事務所が代理として御手足型を奉納してくれます。本尊のご開帳は33年に1度で、ふだんは見る事はできません。

三方湖



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