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蓮華峰寺
れんげぶじ
新潟県佐渡市小比叡182
Tel 0259-86-2530


 小比叡山(こびえいざん)蓮華峰寺は小木港から北東2kmの山中にあります。平安時代初期の大同3年(808)に弘法大師が開基したといわれる古刹で、のちに嵯峨天皇の勅願所とされました。金剛寺・室生寺とともに真言宗の霊地となっています。
 ここが京都の鬼門にあたり、同じく王城鎮護の山とされる比叡山とは御所から見て同一線上にあったため、小比叡山と呼ばれたといわれています。また、付近の山々が蓮華八葉と似ているため寺号を蓮華峰寺としたそうです。
 90石の朱印寺として栄え、江戸時代中期の最盛期には佐渡国を中心に40寺以上の末寺を持ち、徳川家の廟所ともなりました。「アジサイ寺」ともよばれ、7月には境内に植えられた7000本のアジサイが咲き乱れます。
 1万1600平方mの寺域は鬱蒼と茂る杉木立に覆われています。小高い山に囲まれた谷地に、金堂を中心として山門、客殿、庫裏、鐘楼、弘法堂、御霊屋、骨堂、八角堂、八祖堂、山王権現社、小比叡神社など多くの建築物が建立しています。
 慶安5年(1652)に起きた「小比叡騒動」の戦火で客殿、庫裏を失いましたが、多くの堂宇が残されています。金堂、弘法堂、骨堂は国の重要文化財に指定され、他の15の建物も登録有形文化財に指定されています。

 蓮華峰寺の金堂には聖観音が祀られています。桁行5間、梁間5間、1重、入母屋造り、茅葺き形銅板葺きの建物で、壁面には梵字で表された三十三観音が配されています。解体修理の際、長禄3年(1459)に巡礼者が記した墨書が発見され、応永年間(1394-1428)の建立であろうと思われます。明治39年(1906)に国の重要文化財に指定されています。
蓮華峰寺金堂
 蓮華峰寺の弘法堂にはて弘法大師坐像が安置されています。桁行3間、梁間3間、1重、宝形造り、屋根はサワラの厚板を組み合わせて葺いたとち葺きで、慶長14年(1609)の建立です。旧来のとち葺きが完全な形で残されているのは貴重な遺構です。明治39年(1906)に国の重要文化財に指定されています。
蓮華峰寺弘法堂
 蓮華峰寺の骨堂は金堂背後の小高いところに建っています。桁行1間、梁間1間、1重、宝形造り、茅葺きの小仏堂です。堂内に貞和4年(1348)の墨書があり、南北朝初期に建立されたと考えられています。新潟県内最古の建造物で、禅宗様建築としては東日本でも最古に属するものです。加行僧の参篭堂との推測もなされています。平成元年(1989)に国の重要文化財に指定されています。
蓮華峰寺骨堂
 蓮華峰寺の仁王門は金堂の東南にあり、東を正面とする八脚門です。木造平屋建、入母屋造り、桟瓦葺きで、建築面積は19平方mです。両脇間後方に金剛力士を収めていて、円柱や組物二手先に格式の高い細部を施しています。平成14年(2002)に国の登録有形文化財に指定されています。
蓮華峰寺仁王門
 蓮華峰寺の地蔵堂は、金堂の東にある末寺宝積院の本堂です。木造平屋建、桁行3間、梁間3間、宝形造り、桟瓦葺きで、面積は29平方m、背面軒下に仏壇を張り出しています。明治26年(1893)の建立で、平成14年(2002)に国の登録有形文化財に指定されています。
蓮華峰寺地蔵堂
 蓮華峰寺の護摩堂は護摩をたき修法を行うための仏堂です。木造平屋建、入母屋造り妻入、桟瓦葺きの三間堂です。建築面積は40平方mです。棟札により、元禄3年(1690)に建てられています。組物を出組として、軒を二軒繁垂木としています。平成14年(2002)に国の登録有形文化財に指定されています。
蓮華峰寺護摩堂
 蓮華峰寺の密厳堂(みつげんどう)は金堂の西に建つ三間堂です。木造平屋建、宝形造り、桟瓦葺きで、前面に一間向拝を付けています。建築面積は29平方mで、天保15年(1844)に建てられています。小規模な堂ですが組物を出組として、内部の支輪などに彫刻を施しています。平成14年(2002)に国の登録有形文化財に指定されています。
蓮華峰寺密厳堂
 蓮華峰寺の八祖堂(はっそどう)は金堂の北側の丘の上に建てられています。木造平屋建、入母屋造り、カヤ葺き形の銅板葺きの三間堂です。建築面積は29平方mです。江戸時代の寛文から寛延年間(1661-1750)の間に建立されています。組物を五手先とし、内部も虹梁や太瓶束などからなる架構を見せ、全体に彩色を施しています。平成14年(2002)に国の登録有形文化財に指定されています。
蓮華峰寺八祖堂
 蓮華峰寺の台徳院御霊屋(だいとくいんおたまや)は木造平屋建、こけら葺き、建築面積3.6平方mの一間社です。隣にある東照宮とよく似ていますが、東照宮は入母屋造りであるのに対し、切妻造り妻入です。軸部や軒の彫刻や彩色、組物の形式は東照宮と同じで、双方とも江戸時代の寛文から寛延年間(1661-1750)の間にに建てられたと見られます。
蓮華峰寺台徳院御霊屋
 蓮華峰寺の東照宮は木造平屋建、こけら葺き、建築面積3.5平方mの一間社です。八角堂の北の覆屋内に台徳院霊屋と左右に並んでいます。軸部の外部全体が彫刻、彩色されていて、組物を三手先として、軒も彫刻付きの板軒(二軒)としています。台徳院御霊屋とともに平成14年(2002)に国の登録有形文化財に指定されています。
蓮華峰寺東照宮
 蓮華峰寺の経蔵は土蔵造り平屋建、切妻造り、桟瓦葺き、妻入の土蔵で、正面に1間の向拝を付けています。建築面積は34平方mで、江戸時代の中期に建てられています。内部は板張で、化粧棟木に半間毎の化粧垂木でできています。近世寺院に見られる土蔵造り経蔵の好例で、平成14年(2002)に国の登録有形文化財に指定されています。
蓮華峰寺経蔵
 蓮華峰寺の八角堂は経蔵の北にあります。木造平屋建、銅板葺きの八角円堂で、建築面積は10平方mです。江戸時代中期の建築と見られ、内部は柱間毎の三角形の小室に分かれ、それぞれに宮殿を収めています。軒の組物は絵様肘木や彫刻を多用した三手先です。平成14年(2002)に国の登録有形文化財に指定されています。
蓮華峰寺八角堂
 蓮華峰寺の鐘楼堂は袴腰付きの鐘楼で、金堂の北東の台地上にあります。上層は桁行3間、梁間2間で四方に腰組付の縁を巡らせています。建築面積は19平方mで、組物は出組で寄棟造り、かや葺き形銅板葺きです。幕末にかなり改造されていますが、桃山建築の特徴を良く残しています。平成14年(2002)に国の登録有形文化財に指定されています。
蓮華峰寺鐘楼堂



小比叡神社
こびえいじんじゃ
新潟県佐渡市小比叡
Tel 0259-86-2530 蓮華峰寺


 小比叡神社は蓮華峰寺の金堂の南前方の西の端にあります。本殿は覆屋の中に鎮座しています。もとは蓮華峰寺の鎮守で、山王大権現と称されていました。明治の神仏分離により小比叡神社と改められ、明治7年(1874)に村社となりました。
 小比叡神社の創建は蓮華峰寺と同じではっきりわかりませんが大同年間(806-810)頃ではないかと推察されています。祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)で白山姫命・菅原道真を合祀しています。
 覆屋内部にある小比叡神社の本殿は三間社流造り、こけら葺きで、棟札から寛永17年(1640)に建立されています。室町時代の建築様式と見られ、手法には古風なものが混在していて、地方的性格を表わしています。昭和52年(1977)に国の重要文化財に指定され、昭和54年(1979)に全面的解体復元修理が行われました。
小比叡神社本殿
 小比叡神社の拝殿は県の文化財に指定されています。本殿と同じ時に建立されたとみられ、茅葺き屋根の鄙びた感じが印象的です。市の無形民俗文化財の「田遊び神事」がここで執り行われます。春の田打ちから、秋の取り入れまでの田仕事の一年を模擬的に演ずる芸能で、人間と動物の大変ユーモラスな田植えの演技です。
小比叡神社拝殿
 小比叡神社の石鳥居は小規模な石造明神鳥居です。柱の頂部に台輪を造り出した稲荷鳥居の形式がとられています。慶長13年の建立で、初代佐渡奉行大久保石見守長安と弟の大久保山城守安政が奉納したものです。昭和52年(1977)に国の重要文化財に指定されています。
小比叡神社石鳥居


妙宣寺
みょうせんじ
新潟県佐渡市阿仏坊29
Tel 0259-55-2061


 日蓮宗佐渡3本山の一つである妙宣寺は古くから北陸道七ヶ国法華の棟梁で、寛文年中(1661-1673)、身延・池上・中山三ヶ寺の輪番所となり、明治11年(1878)独立本山と定められた名刹です。
 承久3年(1221)に佐渡へ流された順徳上皇の警護の北面の武士・遠藤為盛(のちの阿仏房日得)は、上皇が亡くなった後、文永8年(1271)に佐渡に配流された日蓮に帰依し出家して、阿仏房日得と称して、妻千日尼とともに日蓮につくしました。
 その後、阿仏房日得の子・盛綱が得度して日満と名乗り、父母の志を継いで居館を寺に改めたのが妙宣寺の始まりといわれています。現在ある妙宣寺の場所は、かっては佐渡土着の本間一族の本拠地であった竹田の雑太城(さわたじょう)でした。
 上杉景勝の家臣の直江兼続は天正17年(1589)の佐渡攻めでこの島を平定し、雑太城を廃城とし、その跡地を妙宣寺に与えてたのでした。妙宣寺には、その際兼続が奉納したと伝わる槍の穂先と木箱も残されています。京都・妙覚寺の日典聖人と親交のあった兼続は、日典を中興として一宇を造立したのが、現在の妙宣寺です。
 妙宣寺境内には国指定重要文化財で県内でただ一つの五重塔や仁王門、本堂、庫裏、祖師堂などが建立しています。本堂に向かう石橋の近くには、本間氏の居城・雑太城の空堀跡なども残っています。日蓮真筆の曼陀羅・消息文、日野資朝の写経などの寺宝を所蔵しています。

  妙宣寺五重塔は、文政8年(1825)に地元の相川の棟梁・茂左衛門とその婿養子金蔵とが、30年がかりで完成させたといわれています。高さ24.1m、初重の総間3.49mの小型の塔で、塔身部が長く、日光東照宮を模したといわれています。江戸時代に建てられた数少ない五重塔の一つで、全体の比率や五重軒の扇垂木などに時代の特色があらわれています。組物に和様と禅宗様の肘木を混用し、心柱は杉の一本造りです。昭和61年(1986)に国の重要文化財に指定されています。
妙宣寺五重塔
 妙宣寺の仁王門は延宝5年(1677)に建てられた妙宣寺最古の建造物です。朱塗りの跡を残し、かや葺きが往時をしのばせます。
妙宣寺仁王門
 妙宣寺の本堂は安政4年(1857)に祖師堂などと焼失しました。その後、本堂は文久3年(1863)に再建されました。12間(22m)四面の大堂で、佐渡では最大の建物です。江戸期本堂建築の様式を今に残しています。
妙宣寺本堂
 妙宣寺の祖師堂は本堂の左手にあります。6間(11m)4面三方縁造りです。安政4年(1857)に本堂などと焼失し、明治13年(1880)に再建されたもので、宗門最古の宗祖の木像が安置されています。この像には文永11年(1274)の銘があるということです。開山の阿仏坊日得上人と千日尼の捨身供養の木像もともに安置されています。
妙宣寺祖師堂
 妙宣寺には日野資朝の墓があります。日野資朝は公卿で後醍醐天皇に重用され、討幕計画の中枢にいた人物です。正中元年(1324)に起った後醍醐天皇による鎌倉幕府討幕計画が発覚し(正中の変)、北条高時により佐渡島へ流罪となります。7年後に元弘の変が起ると、本間氏により資朝は佐渡で処刑されました。
妙宣寺日野資朝墓
 妙宣寺の庫裏は文久2年(1862)に再建された建物です。桁行8間(14.5m)、梁間20間(36m)の大きな建物です。用材は佐渡の赤松が使われていて、8間の通し梁が6本並列通してあります。大黒柱は2尺5寸(76cm)に1尺7寸(52cm)の角材で佐渡随一です。
妙宣寺庫裏



笹川流れ
新潟県村上市桑川
Tel 0254-79-2154(笹川流れ観光汽船)
 笹川流れは山形県との県境近くにあります。約11Kmもの海岸線が波に侵食され奇岩怪岩が続きます。
 昭和2年(1927)に国の名勝天然記念物に指定され日本百景にも選ばれています。海岸に突き出た花崗岩の岬や岩礁が、日本海の 侵食によって多様に変化しました。その岩の上に松が自生し 絶景を生み出しているのです。
 笹川流れの笹川とは集落の名前です。この笹川地区から沖合の岩場まで潮流が見られたことが名の由来になったそうです。
 嘉永元年(1848)、幕末の志士頼三樹三郎が この景観を、「松島はこの美麗ありてこの奇抜なし、男鹿は この奇抜ありてこの美麗なし」と賞賛しています。



清水園
しみずえん
新潟県新発田市大栄町7−9−32
Tel 0254-22-2659
 清水園は旧新発田藩主の下屋敷で簡素な数寄屋風の建物です。江戸元禄時代の寛文6年(1666)の棟札がみられ地名にちなんで「清水谷御殿」ともいわれました。
広大な廻遊式庭園は、幕府の庭方で小堀遠州の4代目、茶人でもあった縣(あがた)宗知の手によってつくられました。越後から東北にかけて他に例を見ない名園といわれています。 
 回遊式の庭園は4600坪の敷地に5つの茶室と庭園が広がっています。造りは真ん中に大きな池があり、真上から見ると草書体の「水」の文字のような形になっている当時流行っていた庭園形式です。



旧石黒家住宅
きゅういしぐろけじゅうたく
新潟県新発田市大栄町7−9−32 清水園内
Tel 0254-22-2659
 旧新発田藩の石黒門三郎の武家屋敷です。七十石取りの江戸時代後期の中級武士の標準的な居宅です。 新発田城三の丸を取り囲む旧八軒町にありましたが、清水園に移築復元しています。



足軽長屋
あしがるながや
新潟県新発田市大栄町7−9−32 (清水園内)
Tel 0254-22-2659
 藩政時代の足軽が居住した茅葺平屋建の八軒長屋が清水園の隣にあります。
 かつてこの城下には、幾棟かの足軽長屋がありましたが、現存しているのはこの1棟だけで、往時は「北長屋」と呼ばれていました。全国的に見ても例をみない遺構です。



新発田城
しばたじょう
新潟県新発田市大手町6
Tel 0254-22- 3101
 新発田城は別名「あやめ城」とも呼ばれ桜の名所です。自衛隊の駐屯地にもなっています。新発田重家により築城されました。重家は謙信に仕えていました。景勝時代に織田信長に内通したことにより、天正15年、直江兼続によって攻められ落城し、重家は切腹しました。
 新発田藩、溝口秀勝が1598年に六万石を与えられて、この土地に今の新発田城を築いて400年余りになります。表門と旧二ノ丸隅櫓は国の重要文化財に指定されています。
 石垣が「切込はぎ」と呼ばれる美観を重視した技法で作られ、この城の美しさを際立たせています。県内で江戸時代の城郭の遺構が残っているのはこの新発田城だけだということです。
 城の表門前に堀部安兵衛の像があります。溝口秀勝の曾孫にあたります。安兵衛は、新発田藩二百石どりの武士である中山弥次右衛門を父とし、家老を務めたこともある溝口四郎兵衛の娘を母にもつという由緒正しい血筋でした。ところが、母は産後すぐ亡くなり、父は安兵衛が13才のとき、部下の火の不始末(実は陰謀だったようです)の責任をとり、家は断絶となってしまいました。
堀部安兵衛の像
 父没後、19歳の時江戸に出て、小石川牛天神の剣客堀内源左衛門に剣を学び、たちまち高弟随一に挙げられました。そしてそこで伊豫西條藩松平家臣菅野六郎左衛門と親交し、叔父甥の義盟を結びました。菅野と同僚村上庄左衛門と不和決闘のことが生じ、元禄7年2月11日安兵衛は義叔父の助勢をしました。 これが巷間に伝わる「高田馬場十六人斬り」です。この事件で一躍安兵衛の名が高まりました。
 赤穂藩江戸留守居役、堀部弥兵衛に養子にと八方手を尽くして請われ娘婿に入りました。「忠臣蔵」で有名なように大石内蔵助を中心とする四十七士の一員として吉良上野介への仇討ちに加わり、義父ともに本懐を遂げました。



マリンピア日本海
新潟県新潟市中央区西船見町5932
TeL 025-222-7500
 マリンピア日本海の生物はは約450種2万点という日本海最大級の水族館です。総水量約800トンの日本海大水槽の底に設けられたマリントンネルからは、サメやエイ、ブリ、タイなどの魚が頭上を泳ぎ、まるで海底を散歩しているような気分が味わえます。
 人気のイルカショーは1日4〜5回開かれます。「イルカと握手」のコーナーではイルカと握手することもできます。信濃川を紹介する信濃川水槽、ペンギン島など楽しい施設があります。



白山神社
はくさんじんじゃ
新潟県新潟市一番堀通1−1
Tel 025-228-2963
 白山神社は市街地のほぼ中央に位置し新潟市の発展を見守ってきた新潟の総鎮守です。その名の通り石川県の白山に祀られている女神、白山ひめを新潟の地に祀っているところです。
 縁結びの神様としてとても有名です。初詣は勿論、春、夏、秋祭りに多くの人々が参拝に訪れています。白山公園と隣接していて市民の憩いの場でもあります。







新潟駅
 上越新幹線,信越本線,白新線,越後線,羽越本線,磐越西線の発着の大きな駅ですが郷愁をさそいます。



レインボータワー
新潟県新潟市中央区万代1−6−1
Tel 025-246-6403
 新潟景観百選にレインボータワーからの眺望が選ばれています。夜は動いていないので乗れませんでしたが眼下の万代橋が美しく見えるそうです。塔の頂上へは円形2階建ての展望室がゆっくり回転しながら10分で昇るということです。7,8月は夜間も営業するそうです。


万代橋
ばんだいばし
新潟県新潟市中央区万代2

 万代橋は新潟市内を流れる信濃川にかかる橋の中で、街のシンボルとして市民に親しまれている橋です。新潟ブルースでもお馴染みです。下流の方に位置し、過去2度の架け替えで現在の橋は3代目になるということです。6つの緩やかなアーチを描く橋が夜には美しくライトアップされ、ロマンチックな風景をかもちだしています。



旧笹川家住宅
きゅうささがわけじゅうたく
新潟県新潟市南区味方216
TEL 025-372-3006


 旧笹川家住宅は新潟市街地と三条市の中間ぐらいに位置し、旧味方村にある大型民家です。笹川家は安土桃山時代に信州からこの地に移住したといわれ、14代にわたり300年以上続いた家柄です。囲に堀、土手をめぐらした1万4000平方mという広大な土地に500坪の大屋敷があります。
 大庄屋の格式をよく示している役宅と、対象的に風雅な意匠が見られる居室からなっています。江戸時代には、村上藩の支配下にあった味方、白根、板井、木場、黒鳥、北場、亀貝、小新の味方組8か村を統括する大庄屋を代々務めました。約8千石の録高でした。
 大庄屋は、村々の庄屋を統治し、年貢の取り立てや命令の伝達、治安、警察、裁判の権利などを与えられていました。大庄屋制は徳川封建時代の制度で、主として戦国時代の郷士が当てられました。笹川家は、河川改修や用排水路の開削にも尽力し、水害の多かったこの地域での新田開発に貢献したそうです。
 初代当主は武田治右衛門源義勝です。川中島の戦いの後、信州飯山のふもと笹川村からここへ移住し、改姓したといわれています。慶安2年(1649)に3代目の彦左衛門源信秀は大庄屋に任命されました。
 文政2年(1819)に主屋などが焼失し、文政9年(1826)に再建し、現在に至っています。その後、明治維新までの約2百年間、笹川氏が9代にわたって大庄屋を世襲しました。維新後も大地主として君臨し、役宅はそのまま邸宅となりました。
 昭和29年(1954)に国の重要文化財に指定されました。昭和45年(1970)笹川氏が横浜へ居を移すのを機に土地家屋を売却し、旧味方村の管理となり、一般公開されました。俳人高浜虚子が「椎落葉掃き悠久の人住めり」と讃えた歴史ある遺構を見ることができるようになったのです。
 主屋(表座敷及び台所)、居室部、表門、文庫、雑蔵、奥土蔵は昭和29年(1954)に国の重要文化財に指定され、 米蔵、飯米蔵、三戸前口土蔵、井戸小屋、外便所、土地(堀、土塁、板塀、裏門、庭塀を含む)は昭和53年(1978)に追加指定されました。

 旧笹川家の表門はかや葺きの長屋門です。北側には番屋があります。桁行6.7m、梁間3.4m、切妻造りで、天正年間(1573-1591)に建てられたといわれています。南方方向へ7.3mの屋根塀、北方方向へ11.5mの屋根塀が続いています。屋根塀はどちらも桟瓦葺きです。昭和29年(1954)に国の重要文化財に指定されています。
旧笹川家表門
 庄屋の役宅にあたる旧笹川家の主屋の表座敷及び台所は村松の小黒杢右衛門が棟梁となり、文政9年(1826)に上棟されています。桁行34.3m、梁間17.6m、寄棟造り、銅板葺きです。起り破風(むくりはふ)を構えた正面玄関、屋内の欄間の造り、重々しい帯戸などに武家屋敷を思わせるものがあります。
旧笹川家主屋表屋敷
 旧笹川家の居室部は小黒杢右衛門により、文政4年(1821)に上棟されています。笹川家の居住空間として使用されていた部分で、西側の2階建部分は、大正元年(1912)に増築されています。廊下で役宅と結ばれていて、京風にデザインされた居室が並んでいます。主屋は昭和29年(1954)に国の重要文化財に指定されています。
旧笹川家主屋居室部
 旧笹川家の井戸小屋は明治期に建てられたものです。桁行4.1m、梁間2.7m、切妻造り、桟瓦葺きです。昭和53年(1978)に国の重要文化財に指定されています。
旧笹川家井戸小屋
 旧笹川家の奥土蔵は桁行10・1m、梁間5.4m、2階建、切妻造り、土蔵造り、桟瓦葺きです。主屋の奥にある土蔵で、寝具などの保管に使用されていたようです。昭和29年(1954)に国の重要文化財に指定されています。
旧笹川家奥土蔵
 旧笹川家の雑蔵は江戸後期に建てられた土蔵です。桁行14.5m、梁間5.5m、切妻造り、桟瓦葺きで、昭和29年(1954)に国の重要文化財に指定されています。
旧笹川家雑蔵
 旧笹川家の飯米蔵は江戸末期に建てられた土蔵です。笹川家で食用とするための米が収納されていました。土蔵造りで、桁行6.4m、梁間4.5m、切妻造り、桟瓦葺きです。昭和53年(1978)に国の重要文化財に指定されています。
旧笹川家飯米蔵
 旧笹川家の米蔵は慶応3年(1867)に建てられた土蔵です。藩に納めるための年貢米を保管していました。土蔵造りで、桁行21.8m、梁間6.4m、切妻造り、桟瓦葺きです。昭和53年(1978)に国の重要文化財に指定されています。
旧笹川家米蔵
 旧笹川家の三戸前口土蔵は文政3年(1820)に建てられた土蔵です。入口が3つあり、内部は東倉・中倉・西倉に分かれています。家財などの収納に使用されていました。土蔵造りで、桁行19.6m、梁間6.2m、2階建、切妻造り段違、桟瓦葺きです。昭和53年(1978)に国の重要文化財に指定されています。
旧笹川家三戸前口土蔵
 旧笹川家の宅地、墳墓地、14252.24平方mも昭和53年(1978)に国の重要文化財に指定されました。周囲の堀・土塁・板塀・裏門・庭塀も含んでいます。
旧笹川家庭園



曽我・平澤記念館
そが・ひらさわきねんかん
新潟県新潟市南区味方213ー1 旧笹川家住宅内
Tel 025-373-6600


 曽我・平澤記念館は旧味方村名誉村民「曽我量深」「平澤興(こう)」の偉大な功績をたたえ、この2人の博士を生んだ旧味方村を紹介するため、平成3年(1991)にオープンしました。
 モダンな造りの建物は竹林を挟んで旧笹川家住宅と隣接し、観覧料も旧笹川家住宅と共通になっています。半円をモチーフにした1階ギャラリーの奥に、曽我・平澤両氏をそれぞれに偲ぶ記念室があります。
 曽我量深は真宗大谷派円徳寺に生まれ、昭和の親鸞といわれました。明治から昭和期に活躍した真宗大谷派僧侶で、大谷大学学長、名誉教授を歴任、仏教思想家でもあります。真宗の教学・信仰を、幅広い視野と深い信念とによって受け止め直し、近代思想界・信仰界に開放しました。
 平澤興博士は、脳神経解剖学の世界的権威者です。京都大学教授、京都大学第16代総長などを歴任しました。中枢神経系に関する研究に従事。 専門の解剖学に関わる著書・論文の他にも、一般向けの医学解説書や随筆なども多く執筆しました。



種月寺
しゅげつじ
新潟県新潟市西蒲区石瀬3356
Tel 0256-82-2160


 福地山種月寺は曹洞宗のお寺で、多宝山の北東麓にあります。文安3年(1446)に越後守護の上杉房朝が開基となり、南英謙宗(なんえいけんそう)が開山したと伝えられています。南英謙宗は村上市にある耕雲寺の傑堂能勝(けつどうのうしょう)の弟子で、耕雲寺3世住職でした。
 地頭から越後国の国人になった小国氏からも庇護され、文明17年(1485)に「首楞厳義疏註経」を寄進されています。耕雲寺(村上市)、慈光寺(五泉市)、雲洞庵(南魚沼市)とともに越後四大道場の一つに数えられ隆盛を極めました。
 火伏せに霊験あらたかで、毎年6月19日の開山忌で防火の護符を配る習わしが現在も続いています。 約5千平方mの寺域の中、鬱蒼と茂る老木に囲まれて、本堂、庫裏、山門がひっそりと建っています。

 種月寺の本堂は元禄12年(1699)に、出雲崎の大工棟梁・小黒甚七によって建てられた大きな建物です。桁行13間(24m)、梁間10間(18.4m)、1重、寄棟造り、かや葺き(鉄板仮葺)で、平成元年(1989)に国の重要文化財に指定されています。
種月寺本堂
 種月寺の本堂の平面は8室構成で、前面に土間を設けるなど、曹洞宗本堂の特徴をよく示しています。内部は、前面に露地と大縁をとり、その奥を前後2列、各列4室の8室(前列は優婆塞・大間・優婆夷・茶の間、後列は南から位牌堂・内陣・室中2室)で構成されています。柱は角柱で太く、強固な構造です。背後には文化10年(1813)建立の開山堂が附属しています。
種月寺本堂



弥彦神社
やひこじんじゃ・いやひこじんじゃ
新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦2898
Tel 0256-94-2001


 弥彦神社は弥彦山の東麓にあり、越後国開拓の祖神とされる天香山命(あめのかごやまのみこと=伊夜比古大神)を祀っています。天香山命は天照大神の曾孫で、越の国に製塩・農耕・漁労の技術をもたらした神とされています。
 万葉集にも名がでてくる古社で、伊夜比古神社とも呼ばれ、越後一の宮でした。平安時代の貞観3年(861)に従四位下に列し、延長5年(927)にまとめられた延喜式神名帳には越後国式内54社の中で唯一「名神大社」として名を残しています。
 人々の信仰を集めて隆盛し、鎌倉時代には源頼朝から社領3千貫の寄進を受けました。建武2年(1335)には後醍醐天皇の勅額の奉納も伝えられています。戦国期には上杉謙信の尊崇が厚く、戦勝祈願の願文を献納されています。江戸時代に入ってからも高田藩主松平忠輝から社領5百石を安堵されています。
 明治時代初頭に出された神仏分離令により弥彦神社として独立、明治4年(1871)に国幣中社に列し、明治11年(1878)には明治天皇が参拝に訪れています。明治45年(1912)、弥彦神社の門前町から出た火災に類焼し多くの社殿が焼失しました。
 大正5年(1916)に新潟県が社殿の設計を東京帝国大学教授伊東忠太工学博士に依頼し再建されました。弥彦神社の25の社殿は近代神社建築の規範になるものとして国登録有形文化財に指定されました。
 境内にある宝物殿には、国指定重要文化財の志田大太刀、鉄仏餉鉢をはじめ、国認定重要美術品の双鶴巴文鏡、県指定重要文化財の砧青磁袴腰大香炉、大太刀、鏡鞍附壷鐙、上杉輝虎祈願文があります。7月25日に催される弥彦神社燈篭おし(燈籠神事)と舞楽は国の無形民俗文化財に指定されています。



十柱神社
とはしらじんじゃしゃでん
新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦2887ー2
Tel 0256-94-2001


 十柱神社は弥彦神社境内末社です。元禄7年(1694)、長岡3代藩主牧野駿河守忠辰の心願により、新たに社を創建し、翌年牧野家関係四霊神と、境内にあった大己貴命(おおなむちみこと)を祀る末社を合融し「五所宮」と称したことが始まりです。
 桁行3間、梁間3間、1重、入母屋造り、妻入、板葺向拝1間付き、かや葺きです。蛙股・虹梁・拳鼻(けんび)などの絵様彫刻に桃山末期の様式を伝えています。明治45年の大火にも残り、昭和25年(1950)に国の重要文化財に指定されました。



瓢湖
ひょうこ
新潟県阿賀野市水原313−1
Tel 0250-62-2690
 「瓢湖」は新潟県の越後平野の中にあります。5000羽もの白鳥が越冬する白鳥の湖として知られるようになりました。
 10月になるとはるか彼方のシベリアより白い妖精白鳥たちが訪れて、いちばん賑やかな季節になります。いまでは、白鳥のほかにもおよそ70種類の渡り鳥が飛来するようになったそうです。
 瓢湖の春は雪山の白と湖面とのコントラストがすばらしく、夏はあやめの白と紫にはじまり、オニバス・蓮の赤紫色と薄桃色の花が咲き乱れるそうです。



水原代官所
すいばらだいかんしょ
新潟県阿賀野市外城町10−5
Tel 0250-63-1722
 水原代官所は地方におかれた代官所の一つです。下越地方を中心とした、新田開発の促進、年貢米の確保、近接する藩の監視、情報収集などの目的で延享3年(1746)に設けられました。
 専任の代官は22代を数え、慶応4年に会津藩預かりとなるまで約120年間続いたそうです。



梅護寺
ばいごじ
新潟県阿賀野市小島377
Tel 0250-67-2915
 梅護寺にある「八房の梅・やつふさのうめ」と「珠数掛桜・じゅずかけざくら」は親鸞聖人がこの地に滞在した際の伝説で、越後七不思議のうちの2つです。
 1つの花に八つの実を結ぶ「八房の梅」。この地に滞在中の親鸞聖人がある日、梅干の種を庭に植えて歌を詠みました。すると翌年芽が出て、枝葉が茂り、薄紅色の八重の花が咲き、実が八つづつできるようになったと言われています。
八房の梅
 国の天然記念物に指定されている「珠数掛桜」。親鸞聖人が出立の際、手にしていた数珠を桜の枝に掛けて仏法を説いたところ、毎年数珠のように花がつながって咲くようになったと言われています。世界的にも珍しい桜です。
珠数掛桜



越後府跡
えちごふあと
新潟県阿賀野市水原
 天保8年(1837)、水原の大地主・市島徳次郎が別邸「継志園」を築造しました。そしてこの場所は幕末の北越戊辰戦争の時、会津軍の本営として使われました。その際に戦火で建物は焼失してしまいました。明治2年、明治政府はここに「越後府(同年に水原県と改称されました)」を設置しました。明治3年3月廃止になるまで県政の中心的役割を果たしました。
 越後府は庶務方・社寺方・会計方・営繕方・病院方などがあり、建物もいくつかの棟に分かれていました。
 右の建物の矢倉は正面に連なる建物の上に上がっていたもので象徴的なものでした。



平等寺薬師堂
びょうどうじやくしどう
新潟県東蒲原郡阿賀町岩谷2103
Tel 0254-99-2639
 岩谷山平等寺は曹洞宗のお寺です。伝説によると、平安時代末の鎮守府将軍だった平維茂が創立したといわれています。
 本堂は、寄棟造り茅葺きで、永正16年(1519)に建てられたようで、室町様式を良く残しています。木造建築としては新潟県内最古のものの一つで国の重要文化財に指定されています。
 堂内には室町時代からの参詣者の落書きや、天正6年(1578)に起きた御館の乱で越後に攻め込んだものの敗走した芦名兵の墨書などが残っています。



将軍杉
しょうぐんすぎ
新潟県東蒲原郡阿賀町岩谷 平等寺境内
 平等寺の境内にある将軍杉は平維茂の遺体の上に植えられたといわれています。
 樹齢1400年、樹高38m、幹囲19.3mあります。幹回りは日本一といわれています。
 根元の近くから6本の大支幹に分かれていて、周囲を圧する威厳があります。中央の1本は昭和36年(1961)秋の第二室戸台風の被害で失われたそうです。



護徳寺観音堂
ごとくじかんのんどう)
新潟県東蒲原郡阿賀町大字日出谷甲
 護徳寺観音堂は永正年間(1504-1521)に当時の会津領主だった芦名氏が念持仏を祀ったのが始まりとされています。
 桁行3間、梁間3間、寄棟、茅葺屋根のこの観音堂は部材の墨書から、弘治3年(1557)に建てられたようです。意匠や組物などから室町時代の建築様式を今に伝え国の重要文化財に指定されています。
 中世会津地方に勢力をはり、天正17年(1589)に滅亡した芦名氏が伊達政宗と争ったとき、家の守り仏をひそかにこの土地に移したといわれています。
 護徳寺は芦名氏が衰退した後は会津藩主の松平氏から庇護され宝暦3年(1753)、天明5年(1785)、寛政10年(1798)、文化5年(1808)藩費で改修されています。



五十嵐家住宅
いがらしけじゅうたく
新潟県東蒲原郡阿賀町豊実
 五十嵐家は阿賀野川支流の1つである実川沿いの山合いにある山村農家です。豊実(とよみ)集落は人気がまるでなく誰とも出会いませんでした。
 建物は、この地方の伝統的な中門造り様式で、主屋、付属屋としての上手蔵と下手蔵の三棟あり、国の重要文化財に指定されています。
 江戸中期の宝暦9年(1759)に建てられたそうです。五十嵐家は村の鍬頭(くわがしら)をつとめた上層農民で当時の農村住宅の典型とみられています。



悠久山公園
ゆうきゅうざんこうえん
新潟県長岡市御山町80−5
0258Tel -39-2230
 悠久山公園(ゆうきゅうざんこうえん)は、長岡市の悠久山に造られた公園です。大正6年(1917)に長岡開府300年記念に公園化が決定し、同8年(1919)に完成したそうです。
 悠久山は天明元年(1781)に蒼柴(あおしば)神社が建てられて以来、神苑として長岡藩から保護されてきたところです。現在も「お山」とよばれ親しまれ、桜の名所となっています。
 園内には3層4階の城の長岡市郷土史料館や、河井継之助の碑、子どもの遊べる遊具や小動物園などがあります。



河井継之助の碑
かわいつぎのすけのひ
新潟県長岡市御山町 悠久山公園内
 河井継之助の碑は長岡市御山町の悠久山公園内にあります。長岡市郷土資料館へ登っていく途中に建てられています。司馬遼太郎の小説「峠」の主人公にもなった幕末の長岡藩家老で長岡藩の藩政改革に尽力した人物です。
 戊辰戦争では中立を唱え、長岡への侵攻の中止と会津藩の赦免を求めて新政府軍の軍監・岩村精一郎と小千谷の慈眼寺で会談しました。しかし岩村は河井の嘆願を一蹴、談判は決裂しました。長岡藩は奥羽越列藩同盟として新政府軍と対峙し、戦いました。
 最初は互角に戦いましたが、結果的には新政府軍の物量の前に屈しました。河井は被弾負傷し、会津への逃走中に破傷風のため病死しました。



長岡市郷土資料館
ながおかしきょうどしりょうかん
新潟県長岡市御山町80−24
Tel 0258-35-0185
 長岡市郷土資料館は悠久山公園内の見晴らしの良いところに建っています。市制60周年記念事業として長岡城を元に作られたお城の建物です。
 資料館の石垣は、長岡城にあった石が使われているそうです。4階の展望台から市街地及び新潟平野が一望できます。
 この郷土資料館は、河井継之助や山本五十六、「米百俵」で長岡の教育の基を築いた小林虎三郎(佐久間象山門下生)など、長岡の先人たちの資料が展示されています。



河井継之助記念館
かわいつぎのすけきねんかん
新潟県長岡市長町1丁目甲1675−1
Tel 0258-30-1525
 河井継之助記念館は平成18年に長岡市制100周年・合併記念事業の一環として長町にある河井継之助生家跡にオープンしました。
  河井継之助は司馬遼太郎の小説「峠」の主人公にもなった幕末の長岡藩家老で長岡藩の藩政改革に尽力した人物です。
 戊辰戦争では中立を唱え、長岡への侵攻の中止と会津藩の赦免を求めて新政府軍の軍監・岩村精一郎と小千谷の慈眼寺で会談しました。しかし岩村は河井の嘆願を一蹴、談判は決裂しました。長岡藩は奥羽越列藩同盟として新政府軍と対峙し、戦いました。
 最初は互角に戦いましたが、結果的には新政府軍の物量の前に屈しました。河井は被弾負傷し、会津への逃走中に破傷風のため病死しました。
 このように河井継之助は幕末の長岡藩政を担いました。河井継之助記念館では彼のゆかりの品々などを展示しています。窓からは、継之助が暮らした当時の面影が残る庭を眺めることもできます。



長岡城跡の石碑
ながおかじょうせきのせきひ
新潟県長岡市城内2丁目 長岡駅敷地内
 長岡城跡を示す石碑は長岡駅大手口のバスターミナル近くにあります。幕末期、長岡藩は奥羽越列藩同盟に参加した為、新政府軍と戦いました。
 北越戦争最大の戦い、長岡城攻防戦がここで繰り広げられたのです。新政府軍は大きな被害を受けたため、鉄道敷設の際に意図的に長岡城の本丸に停車場が設置され、長岡城の遺構をほとんど残させなかったのです。



小千谷市錦鯉の里
おぢやしにしきごいのさと
新潟県小千谷市城内1ー8ー22
Tel 0258-83-223
 錦鯉が初めて出現したのは、19世紀前半の江戸時代だったそうです。新潟県の二十村郷(現在の小千谷市・長岡市の一部)で、食用として飼われていた鯉に突然変異で色のついた鯉が誕生したのだそうです。
 錦鯉は、独特な色調を持つ流麗な体形から、別名「泳ぐ宝石」とも呼ばれています。小千谷には、この泳ぐ宝石の美しい姿をいつでも間近に鑑賞できる「錦鯉の里」があります。
 ここは大小の滝や、橋などを配置した池の中に錦鯉が泳いでいる公園と、錦鯉の歴史や品種・飼育方法など錦鯉に関する各種資料の展示ホール、そして特に逸品を集めた鑑賞池のある会館で構成されています。



魚沼神社
うおぬまじんじゃ
新潟県小千谷市土川2−12
 魚沼神社の創建は崇神天皇の時代(紀元前97〜29)に勧請されたと伝えられています。
 祭神が天香語山命と彌彦神社と同じところから上彌彦神社とも呼ばれています。扁額にも彌彦大明神の文字が見えます。
 南北朝の動乱で社殿が焼失一時衰退しました。上杉謙信により再興されました。江戸時代は徳川家に庇護されました。
 明治時代以前は別当寺であった池源寺(現在の慈眼寺)と神仏混合しており、現在でも境内には山門や阿弥陀堂などが残され阿弥陀三尊像が安置されています。
 この阿弥陀堂は永禄6年(1563)に建てられたもので国の重要文化財に指定されています。高さ約7m、桁行約5mの三間四方、一重宝形造、茅葺の古めかしいお堂です。
 軒の張り出しがきわめて短いことや、正面以外に縁(えん)が存在しないことは、豪雪地帯特有の造り方です。



慈眼寺
じげんじ
新潟県小千谷市平成2ー3−35
Tel 0258-82-2495
 慈眼寺は魚沼神社の別当寺として池源寺というお寺でした。創建は弘文元年(672)薩明大徳が開山したのが始まりと伝わっています。
 一時衰退し寛永元年(1624)に船岡山観音院慈眼寺として再興されたそうです。本尊である聖観世音菩薩像は大同年間(806−810)にこの地を訪れた弘法大師が自ら彫ったとされています。
 元禄4年(1691)江戸において聖観世音菩薩像を開帳したとき5代将軍徳川綱吉も参拝したそうです。
 慶応4年(1868)この慈眼寺の本堂おいて長岡藩家老河井継之助と新政府軍軍艦岩村精一郎が会談しました。会談は亀裂し、北越戊辰戦争が始まりました。



旧目黒家住宅
きゅうめぐりけじゅうたく
新潟県北魚沼市須原892
Tel 025-797-3220
 旧目黒家住宅は、寛政9年(1797)に建てられた建物で新潟県の豪農の館の一つにあげられている建物です。
 目黒家は戦国時代の末期、天正18年(1590)に帰農した中世武士の系譜と伝えられ、江戸時代初期から、大肝煎、大庄屋、割元庄屋を務めた豪農です。
 野面積みの石垣で塀を築き冠木門を設けるなど、中世武士の屋敷構えになっています。桁行16間、梁間6間という豪壮さで、国の重要文化財に指定されています。
 広大な庭園には池や石燈篭などが配置され、豪農の生活ぶりが垣間見れます。この目黒邸は映画「蔵」の撮影で使われたそうです。



目黒邸資料館
新潟県北魚沼市須原768
025-797-4111
 旧目黒邸住宅より少し離れた奥只見レクリエション都市公園の中に目黒邸資料館はあります。代々小出須原郷一帯の庄屋をつとめた豪農「目黒家」に関した資料を集めています。
 また江戸時代初期からの古文書や生活用具など、歴史的に貴重な資料が展示されています。



奥只見シルバーライン
おくただみしるばーらいん
新潟県魚沼市湯之谷村
 新潟県側から入る全長22kmのルートで、そのうちの18kmは合計19のトンネルが連なります。かつて周辺が銀山であったため『シルバーライン』と名付けられました。
 ダム建設用の道路だったため、トンネルにもそのなごりが残っています。途中には銀山平へ行く道もあり、最後のトンネルを抜けると雄大な奥只見湖が目の前に広がる。今は無料で通行できます。



奥只見ダム
おくただみだむ
新潟県魚沼市湯之谷芋川
Tel 025-795-2665
 奥只見発電所を建設するために昭和29年(1954)工事が始まり、10年の年月をかけてダムを完成させました。湖上遊覧船はシーズン運行になっています。
 奥只見ダムは貯水量日本一のダムです。東洋一の人造湖で残雪、新緑、紅葉が訪れる人を楽しませてくれます。
 尾瀬に源を発する只見川をせき止め、日本一の貯水量6億トンをたたえています。自然と人の叡智とが見事に調和しています。
 奥只見湖は正式な名称を銀山湖といいます。観光船や奥只見電力館があります。昔は銀が取れたそうです。駐車場からダムまでスロープカーを利用すると楽です。帰りは下りですので歩いてこれます。



銀山平
湯之谷村銀山平
日本最大の貯水量をもつ奥只見湖のほとりにあり周辺には宿泊施設やキャンプ場などがあります。



西福寺
さいふくじ
新潟県魚沼市大浦174
Tel 025-792-3032
 赤城山(せきじょうさん)西福寺は天文3年(1534)に芳室祖春大和尚によって開かれた曹洞宗のお寺です。
 寺院内にある開山堂は大浦開山堂と呼ばれ、安政4年(1857)に23世蟠谷大龍(ばんおくだいりゅう)大和尚によって建立されました。建築様式は鎌倉時代禅宗仏殿構造です。
 開山堂には、幕末に活躍した石川雲蝶の木彫りの数々が飾られています。それらは、木彫りや岩絵の具で彩色されたもので、道元禅師の逸話の数々が精巧に描かれております。また、本堂には雲蝶本人が襖に描いた絵などもあります。



円福寺
えんぷくじ
新潟県魚沼市佐梨433
Tel 025-792-0871
 延命山円福寺は真言宗智山脈のお寺で、開基は仗行です。古い歴史を持つ名刹で、聖武天皇の時代に北越鎮護のため創建されたそうです。
 円福寺の阿弥陀如来座像は国の重要文化財に指定されています。また上杉謙信が戦勝を祈念された多聞天立像など鎌倉時代初期の仏像が安置され、隠れキリシタン信仰を伝えるキリシタン地蔵菩薩などもあります。
 現在の金堂(本堂)は明暦3年(1657)に建てられたもので背後には京都大原三千院と同じ庭師を招いて作られた池泉観賞式苔庭が広がり「円福寺の苔庭」と呼ばれています。



八海神社
はっかいじんじゃ
新潟県南魚沼市長森761
Tel 025-775-2122
 八海山は、越後駒ガ岳、中ノ岳と合わせて越後三山と呼ばれて信仰の山とされています。今から750年前、木喰芳賢(もくじきほうけん)上人が開いたといわれ、白衣をまとった行者の姿がみえます。
 八海神社は亨保年間以前に建立され、拝殿は亨保16年・天保14年・明治13年に建替えられ、本殿は明治36年に遷宮が行われた記録があります。 現在の本殿は平成13年に遷宮、翌14年に完成したばかりです。
 本殿や神社に続く参道の杉並木は新潟県の指定文化財となっています。
 毎年7月1日には八海山山開き祭りが開催され、無病息災・大願成就を願う火渡りの荒行が行われます。



浦佐毘沙門堂
うらさびしゃもんどう
新潟県南魚沼市浦佐2495
Tel 025-777-2001
 坂上田村麻呂が807年に創建したと伝えられる普光寺の境内に建っています。上杉謙信や徳川家に守られてきた寺で裸押合祭りで有名です。
 山門は天保2年(1831)、豪商関市四郎が日光の陽明門を型どり総欅で寄進したものです。楼下天井の双龍図板絵は江戸時代の谷文晁の傑作です。

 門からは回廊が続いています。 回廊の中には巨大なローソクが並んでいて天井には額が飾られています。
 回廊は毘沙門堂の正面まで続いていて横には聖徳太子堂があります。

 奥の突き当りには不動像があり、水場になっています。ちょうど菊まつりが開かれていました。
 三月には裸祭りが行われます。巨大なローソクに火を灯した毘沙門堂内で裸の男たちが福札を奪い合うという勇壮なものです。




雲洞庵
うんとうあん
新潟県南魚沼市雲洞660
Tel 025-782-0520
 雲洞庵は金城山の麓にあり、越後の曹洞禅4大道場の一つに上げられる名刹です。杉の木立の中に立つ赤門(仁王門)を入ると、本堂正面まで石畳があります。その石畳の下には法華経が一石一字ずつ刻まれています。
 これを踏みしめてお参りすると、罪業消滅、万福多幸の利益に預かるといわれ、この有難さに随喜して「雲洞庵の土踏んだか」という言葉が生まれたと伝えられています。

 古来より、越後では「雲洞庵の土踏んだか」「関興庵の味噌なめたか」と言われました。それは、諸国の修行者が、この二代禅道場で曹洞宗と臨済宗の禅を学ばねば一人前の禅僧といえないということから、修行者が互いに言い合ったものとされています。 
 県の指定文化財になっている本堂は、室町時代永享年間、上杉憲実公によって建立されました。江戸時代に入り、宝永4年(1707)、新潟県出雲崎の小黒甚内を棟梁とする大工群によって再建されたということです。

 雲洞庵は本尊釈迦牟尼仏、脇侍、迦葉尊者、阿難尊者、十六羅漢を安置しているそうです。 雲洞庵宝物殿には、上杉景勝公遺墨ほか、武田信玄公書状、北高禅師「火車落としの袈裟」、戦国時代の武将の古文書などが展示されています。



八海山
 八海山は、越後駒ガ岳、中ノ岳と合わせて越後三山と呼ばれています。
八海山という小生の好きなお酒も知られています。


八海山ロープウェイ
南魚沼郡六日町八海山
 中腹までは八海山スキー場になっていてゴンドラで八海山遙拝場まで登ることができるということです。1155mの頂上駅まで81人乗りのゴンドラが5分で運んでくれるということです。 山頂部は鎖場の連続する岩場で、薬師岳、不動岳、白河岳、釈迦岳、大日岳、そして最高峰の入道岳などのピークが有るそうです。



あじさい公園
あじさいこうえん
新潟県十日町市落之水
 5ヘクタールに約1万3千株のアジサイが植えられたあじさい公園。このアジサイは市民の手で植えられたもので約1万4千株あるそうです。 「あじさいまつり」期間中はミス十日町雪まつりの写真撮影会などが行われるそうです。
 園内にはあじさいとシーボルトの碑や小林綾子さんの郷里がとりもつ縁で創られたおしんの像などもあります。



清津峡
きよつきょう
新潟県十日町市小出
 雄大な岩礁と清流からなる日本有数の景勝地清津峡です。
 昭和24年(1949)に国立公園に指定され、その荘厳なる閃緑ひん岩と柱状節理の美しさから日本三大渓谷の一つに数えられています。
 標高2140m、白砂山を水源とする清津川は、清津峡を経て信濃川と合流します。雪解けによって流量が増す4月から6月にかけて、切り立った崖の間を激流がしぶきをあげて岩肌を洗うそうです。
全国に広く知られるに至った清津峡には、碧雲・黒岩 ・銚子滝・屏風岩・臥龍峡・足尾沢滝・満寿山・鹿飛橋 等の偉観があるそうです。清津峡渓谷トンネルは安全に観賞できる施設で全長750mmあり、見晴所が3カ所あります。



越後ゆきくら館
えちごゆきくらかん
新潟県魚沼市須原1643
Tel 025-797-2777

 ここは日本屈指の豪雪地帯です。冬の雪を大切に保管した新しい貯蔵庫があります。天然の雪を特殊なシートで覆い、年間を通して大吟醸を低温貯蔵できるのです。
 湿度90%、温度2度に保たれた雪蔵の中で静かに眠る大吟醸貯蔵庫を見ることができます。蔵内の酒米の洗い、蒸し場も見れます。全国で唯一見学できるゆきくらです。



アルプの里
新潟県南魚沼郡湯沢町湯沢490
Tel 025-784-3326

 JR越後湯沢駅から徒歩7分の温泉街に「湯沢温泉ロープウェイ」乗り場があります。ここがアルプの里の玄関口です。ブナの原生林に囲まれた「アルプの里」は、標高1172mの大峰山の北側斜面に造成された高山植物園です。
 昭和34年(1959)に37人乗りロープウェーで、スキー場を開業しました。昭和55年(1980)、高山植物園・アルプの里として、約5年をかけ世界最大級166人乗りロープウェイが生まれました。
 日本一のロックガーデンでは2500m級の山々に咲く高山植物を気軽に見ることができます。あやめが池では、天然記念物のモリアオガエルが生息しています。宮尾登美子の小説「天涯の花」で「お月さんの花」と形容されたキレンゲショウマなども咲いています。




高田城跡
たかだじょうせき
新潟県上越市本城町
 高田城は、徳川家康の六男、松平忠輝が慶長19年(1614)に築城しました。高田城跡は高田公園になっています。面積は約50ヘクタールあり、市街地の中心部に位置する公園としては、全国的にも有数の規模を誇っています。
 平成5年4月、本丸跡に高田城三重櫓を復元しました。内部には高田城関係の資料を展示しています。春は桜、夏は外堀を埋めつくすハスの花が咲き乱れます。
 高田公園は、全国的に有名な夜桜の名所です。ここ高田地区は新潟県の中でも南部に位置する為、桜の開花は新潟県の中ではやや早めです。夜になると4千本にも及ぶ桜が、宵闇の中美しくライトアップされます。
 極楽橋は、忠輝が普請総裁伊達正宗の指揮によって高田城を築城した時、二の丸から本丸に通じる、内堀を渡る木橋としてもうけられたものです。
極楽橋
 明治41年(1908)、陸軍第13師団が入城の際、土塁を切り開き、埋め立てて陸続きにしました。
 文化財発掘調査により、橋の位置を確認し、平成14年4月上越市発足30周年及び高田公園開園50周年を記念して復元しました。



浄興寺
じょうこうじ
新潟県上越市寺町2−6−45
 歓喜踊躍山(かんぎゆやくざん)浄興寺は、真宗浄興寺派本山のお寺です。最盛期には越後・信濃・出羽の三国に約90の末寺を持ったそうです。真宗大谷派の別格寺院でしたが昭和27年(1952)に真宗浄興寺派として独立しました。
 建保2年(1214)、親鸞は常陸笠間郡稲田郷(笠間市)で稲田草庵を開きました。これが浄興寺の草創とされています。浄土真宗興行寺と名付けられましたが浄興寺という略称で呼ばれるようになったそうです。
 嘉禎元年(1235)、親鸞は京に帰る時、弟子の善性に住職を譲りました。その後、寺は信濃国水内郡(長野市)に移り、永禄10年(1567)上杉謙信の招きで春日山城下に移転、福島城下を経て今の高田に来たそうです。
 1万坪の敷地の中に、本堂、鐘楼、経蔵、太子堂、御殿、書院、食堂、庫裏、惣門、中雀門などを構え、9ヶ寺の塔頭寺院を抱えていましたが、大正4年(1915)の寺町大火で本堂、本廟を除く伽藍のすべてを焼失してしまいました。
 現在は山門、本堂、本廟、拝殿、鐘楼、太子堂、宝物殿、経蔵、御殿、書院、庫裏、慈愛堂が整備されています。本堂は延宝7年(1679)建立で国の重要文化財に指定されています。
 弘長2年(1262)京都で亡くなった親鸞聖人の骨を安置する本廟は6年の歳月をかけ明治21年(1888)に建てられたものです。本願寺三世の覚如上人以降の本願寺歴代門主の分骨も納められていて、浄興寺が浄土真宗開宗の由緒をもつ寺院であることがわかります。



春日山城
かすがやまじょう
新潟県上越市中屋敷
Tel 025-545-9269
 春日山城は標高180mの鉢ヶ峯に築かれた山城です。現在、建物は残っていませんが、今も空堀や郭跡、大井戸、土塁などが残り、典型的な山城の姿をとどめています。
 頂上付近は公園となっていて、高田平野や日本海に浮かぶ佐渡ケ島、 妙高山など美しい山々を展望できます。
 春日山城の創築は不明ですが、守護上杉氏が「詰めの城」として築き、守護代の長尾氏が代々在城していました。景虎(謙信)は19歳で家督を継ぎ春日山城に入城、春日山城を強化しました。
 天文19年(1550)に守護家の上杉氏が滅亡し、その翌年には北条氏の追放された関東管領の上杉憲政を城に迎え入れました。その後上杉姓を譲られて上杉謙信と改めました。
 謙信の死後に家督を継いだ上杉景勝は20年在城後会津へ転封となり、その後に入った堀氏は新たに平城の福島城を築城したため春日山城は廃城となりました。
 春日神社は春日山城築城前は山頂にあって、築城のとき鬼門鎮護の社として移したものです。春日山城の名前はこの神社に由来しているのです。
 上杉謙信は川中島で武田信玄とにらみ合うなど、生涯に70回もの合戦を重ねましたが、領土的野心から自ら戦いを仕掛けたことは一度もなかったといいます。仏の道に生き49歳の若さで他界した戦国武将謙信は降伏する者には慈悲の心を持って迎えたといいます。



林泉寺
りんせんじ
新潟県上越市中門前1−1−1
Tel 025-524-5846
 林泉寺は、今から約500年前の明応5年(1496)、越後国高田(現・上越市)に建立された曹洞宗の寺です。
 長尾景虎(上杉謙信)の祖父長尾能景が、亡父重景の菩提を弔うため建立したもので、寺名は重景の法名林泉寺院殿からとったものです。


 景虎が7歳の折、当寺に預けられ天室光育(7世)の指導を受け仏道に励みました。
 さらに、景虎は長じて8世益翁宗謙の下に参禅し、禅の「達磨不識(だるまふしき)」の境地を悟り、不識庵謙信(ふしきあんけんしん)を号するようになりました。
上杉謙信の墓

 景虎は川中島合戦のあつた永禄4年(1561)に関東管領上杉家を相続、林泉寺は上杉家の菩提寺にもなりました。
榊原政岑(まさみね)の墓
 山号の春日山は、上杉家(藤原氏)の氏神である春日明神を勧請したことによります。
松平綱賢の墓



本願寺国府別院
ほんがんじこくふべついん
新潟県上越市国府1−7−1
Tel 025-543-2742
 本願寺国府別院は「親鸞御旧跡」と伝えられ、親鸞が住んだ「竹之前草庵」があったと言われています。
 本堂は文化2年に西本願寺に申請し建てられました。
敷地内には親鸞上人の像が数点、さらに親鸞上人袈裟掛けの松(壁紙)などがあります。親鸞上人一色の寺院です。




五智国分寺
ごちこくぶんじ
新潟県上越市五智3ー20ー21
Tel 025-543-3069
 五智国分寺は上杉謙信が再興し「国分寺」の名を継いだ名刹で、親鸞上人の旧跡としても有名です。寺域も広く、江戸時代に建てられた三重塔、重要文化財の仏像、芭蕉の句碑などがあります。
 三重塔は安政3年(1856)に着工したのですが未だに未完成という事です。



親鸞上人上陸の地
しんらんしょうにんじょうりくのち
新潟県上越市五智5
 五智国分寺から数百メータ歩いて海岸に出ます。居多ガ浜が親鸞上陸の地であり、そこにレリーフが置かれていました。
 念仏停止で越後国府へ配流の身となった上人が上陸したところです。展望台から日本海に沈む夕日を眺めれば、聖人の昔を偲ぶことが出来きます。


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